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【 イベント開催のお知らせ 】



奥井宗夫を桂文我が迎える会~懐かしの三重県の鉄道~ 

開催


奥井宗夫を桂文我が迎える会~懐かしの三重県の鉄道~
令和2年4月8日(水)午後2時と6時30分開演
三重テラス(東京都中央区日本橋室町  ☎03-5542-1035)
各部 前売り 3000円  当日 4000円 50名限定
問合せ 090-1414-9883 桂文我
松阪レールクラブ会員で撮影歴60年の奥井宗夫氏を迎え、三重県や関東の鉄道の映像の上映、動輪堂宮地正幸氏・桂文我との座談会、落語一席




「SL復活! C571よ永遠に」

動輪堂プロデューサー・宮地正幸のフリーディレクター時代の構成・演出担当作がNHKで再放送!



2005年11月から2006年5月にかけて行われた、「SLやまぐち号」の牽引機として知られるC57形1号機の全般検査を取材したNHKのドキュメンタリー番組「SL復活!C571よ永遠に」がBS プレミアムで2回にわたって再放送されます。

放映日時
10月5日(木)午前9時~
10月6日(金)午前0時45分~
(放映時間116分)

動輪堂のプロデューサー宮地正幸が、フリーのディレクター時代に全力で構成・演出を担当した渾身の作品です。





2005年秋、当時すでに車齢が70年に近づき、山口線では深刻な老朽化の問題に直面していたC571。山陽本線~東海道本線を夜間にEF65形に牽引されて行われた無動力回送で梅小路運転区に到着し、全般検査が開始される。
解 体作業を経て、検査や部品の整備が始まると、検修スタッフたちは、台枠の亀裂、部品の不具合など数々の困難に直面する。中でも大阪の会社に修理を委託され たボイラは、至る所に目を覆いたくなるような傷みが生じていた。修理するにもそれぞれの部品の正確な設計図すらない。その都度現物合わせで図面を引き、手作業で部品を造り上げるなどして、C571を何とか元気な姿に復活させようと、関係者の努力が続いた。





数ヶ月にわたる修理を経て2006 年春、C571は再び組み立てられて、黒光りする美しい姿がよみがえった。梅小路の扇形車庫の中で再びボイラに火が入れられ、勢いよく蒸気を上げる。いよ いよ北陸本線で行われる本線試運転に臨む。そして、多くの人々の情熱と努力が実を結んで、C571は再び、山口線で力の限り汽笛を轟かせた。。。。




晩秋から春まで、数ヶ月にわたって、ヘルメットに繋ぎ姿で、梅小路や大阪のサッパボイラに通い続けて取材をした想い出深い作品です。取材のない日は日々進行する苦闘をどのように伝えようかと、パソコンに向かい続けました。本当にその日その日発生する問題に対して、手探りで答えを模索する現場の検修スタッフたちを、その生の姿を切り取ろうとカメラを回し続けたカメラマンをはじめとする素晴らしい撮影スタッフとともに追い続けた結果、いよいよ初めて扇形車庫を出る時に一発勝負で挑んだクレーン撮影の時など、思わず熱いものが込み上げたのは一度や二度ではありませんでした。素晴らしい経験をさせて頂いた作品でした。

ナレーターは、後に宮地がディレクターの一人として関わった「夢のSL記念館」や、動輪堂が製作協力した「東海道新幹線開業50年 まるごと新幹線」でキャスターを務めたNHKアナウンサーの別井敬之氏が担当。根っからの鉄ちゃんならではの熱い思いのこもったナレーションも、じっくりお楽しみ下さい。

製作・著作 NHK
製作協力 NHKエンタープライズ

NHK番組紹介ページ
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3599/2325205/index.html




動輪堂鉄道イベントのお知らせ

 

「かんさい鉄道トークバトル」

イベント開催のご案内


                     


動輪堂は、この度、鉄道イベント「かんさい鉄道トークバトル」を4月30日(日)19時より、大阪・十三にあるシアターセブンにて開催することとなりました。

 MCに鉄ちゃんアナウンサー・羽川英樹氏、サブMCに初心者鉄子でもあるレースクイーン&グラビアアイドルの小林未来氏、コメンテーターに鉄道ライター・伊原薫氏を迎え、動輪堂プロデューサーも加わって、映像を交えながらのプレゼン形式によるトークセッションを行います。今年デビューする話題の「トワイライトエクスプレス瑞風」をはじめ、関西の鉄道の過去・現在・未来にわたる様々な話題を展開。また、観客の方からも事前受付の上、プレゼンに参加していただくなど、会場全体を巻き込み、鉄道にまつわる熱いプレゼントークを展開する、鉄道ファン必見のイベントです。

 また来場者全員に、何が当たるかお楽しみの鉄道グッズのプレゼントをご用意。会場では動輪堂発売の鉄道DVD等を、特別価格で販売いたします。

<プレゼンバトル参加について>

参加者ご自身がトークバトルのお題を出していただくチャンスです。「民営化される大阪市営地下鉄について語りたい!」「近鉄特急の阪神直通運転はこうすればいい!」「自分はこの鉄道やこの列車を推したい!」など、事前にメールにてお題をお寄せ下さい。選考の上、当日会場で実際に発言していただきます。

<出演者情報>

MC 羽川英樹(フリーアナウンサー) 

元よみうりテレビアナウンサー。ラジオ関西「羽川英樹ハッスル!」・KBS京都ラジオ「羽川英樹の土曜は旅気分」などに出演中。「よみがえる総天然色の列車たちシリーズ」など多数の鉄道DVD等のナレーションも担当。2015年には PHP研究所より「鉄道でめぐる ゆるり京都ひとり旅」を出版。

サブMC 小林未来

レースクイーン・グラビアアイドル。鉄道も大好きで、現在はブログ等で鉄道の魅力を配信する初心者鉄子。インターネット配信番組「UST鉄道情報局」でMCを務める。秋田県出身、好きな列車はE6系「こまち」。

コメンテーター 伊原薫

  鉄道ライター。京都大学大学院が認定する都市交通政策技術者。Yahoo!ニュースをはじめとするwebメディアで鉄道記事を担当するほか、鉄道雑誌の記事掲載多数。主宰するインターネット配信番組の「鉄道情報ステーション(旧:UST鉄道情報局)」は関西USTREAM AWARDグランプリを受賞。

ゲスト 宮地正幸

鉄道番組・DVD&ブルーレイを制作する動輪堂のプロデューサー。 NHK「東海道新幹線開業50周年記念 まるごと新幹線」「走れ!新幹線」や、「プロファイルシリーズ」「よみがえる総天然色の列車たち第2章」「同・第3章」などの演出も担当。

「かんさい鉄道トークバトル」 

 (シアターセブン エンタメゴールデンウィーク 2017)

開催日時 平成29(2017)年4月30日 18時30分開場 19時~21時

会場 シアターセブン(阪急十三駅 西口改札から徒歩4分)

入場料 前売 1,500円 当日 2,000円 (1ドリンク代別途500円)

<予約方法>

電話予約:06-4862-7733
メール予約 : theater-seven.com

メールの場合 タイトルに「かんさい鉄道」とお書きの上、
①お名前(ふりがな)
②電話番号
③メールアドレス
④人数

をお送りください。
予約受付が完了次第、シアターセブンより返信いたします。

<「プレゼンバトル」参加申込みの方法>

メールのみでの受付です。

メール予約の方は、メール本文にプレゼン内容をお書き下さい。

当日券購入・電話予約の方、メール予約とは別途プレゼン参加申込みの方は、下記アドレス宛にお送り下さい。

プレゼン参加申込用メールアドレス: dorindo@kcc.zaq.ne.jp

(標題に「プレゼン参加」とお書き下さい。)

<読者向けお問い合わせ先>

 06-4862-7733 (シアターセブン)

<発行者向けお問い合わせ先> 

 078-761-0081/090-3948-4594 (動輪堂:宮地正幸)

主催 淀川文化創造館シアターセブン  共催 日芸プロ  企画監修 株式会社動輪堂

グッズ協力 合同会社かぴばら 株式会社ジーエム商事


淀川文化創造館シアターセブン 

イベント案内・チケット予約ページはこちら



奥井宗夫のむねのおく第3章1

奥井宗夫インタビュー

「よみがえる総天然色の列車たち第3章1

国鉄篇<前篇>」のむねのおく (その2)


(その1)から続く

―そして今回は、上諏訪とか中央東線方面の映像もありますね。

奥井 あれは家族旅行の合間にちょいちょいちょいと撮ったんですわ(笑)。

―スカ色の115系は、私も晩年に別の作品で追いかけていたことがあったんですが、今回の映像では長い編成で走ってますよね。

奥井 あれ、一所懸命撮りに行った、家内待たしておいて……(笑)。

―なんですか、急行に使っていることもあるんですよね。

奥井 ええ、今では考えられんことです。

―急行「たてしな」ですよね。確かに車内には、ドア横の2人掛けのロングシートにも、窓のところに座席番号が振ってありました。何に使うんだろうって思っていたことがあったんですが、こういうことだったんですね。座席指定で使うことがある。座席指定で急行やぁって乗ったら、ドアの横のここですか、みたいな。まあ、苦情が来たかもしれません。(笑)

(編集注:例えば、あるロングシートの扉寄りが「5A」クロスシート寄りが「5B」、その向かいは「6A」「6B」というように座席番号が振ってあった)

奥井 今じゃ考えられん(笑)

―まだこの頃っていうのは、165系にビュフェが連結されているのが写ってますからね。使っていないとはいえ。まだまだ、中央高速道も開通してないし、例えば東京から信州方面への……。

奥井 観光で行くのはどうしても乗らなきゃならなかったですね。

―まだまだメインの時代なんですよね。そんなことがいろいろ映像から見えてきますね。

奥井 面白いフィルムですね。

―そのあとの身延線は、ここも当時165系の急行「ふじかわ」が出てきます。今は特急で走っていますけど、普通列車はほとんど旧形国電が走っていた時代っていうことですか。

奥井 そうですね、あの時はまだ旧形車、全部残っていましたね。

奥井 もっと前に行きたかったんやけど。

―関西系の車両じゃないやので、なかなか馴染みがありません。クハ47とかですね、あんなリベットだらけの2扉の車両とか。

奥井 あれは32系の流れですよね。まあこのころは、カメラを変えるのがやっとの時代ですわ(笑)。

―(笑)。それとマメに東京近辺で、集めてみると結構いろんな電気機関車が、撮られていて。

奥井 ええ、多いですよ。

―前に第2章の時に青梅線を扱ったことがあったんですけれど、まだその続きがあったのかと。EF15はまだあったにしても、今や山手貨物線に貨物が走っていることが一日何本かあるかどうかですよね。

奥井 ああ、そうですね。

―それにEF13にED16、そして黒磯辺り。前のフィルムでは、元気に走っていたEF56とかEF57とかは休車になっていて。宇都宮運転所に留置されています。ああ、ついに休んだかっていう感じですか。

奥井 そうです。あれはもうちょっと、旅客列車を撮りたかったですよね。こっちから行くにはちょっと遠すぎました。

―上越線とか信越本線も前と別の時にいらっしゃったんですか。

奥井 もう一回行ってるね、なんかの目的で。上信(電鉄)かなんか乗りに行った時か。

―完全に183系が主役になっている時代ですよね、この上越線は。

奥井 あの183系を知る人も少ないんだろ。でも、まあ一応撮ってあります。

―当然ご存知のように、昭和57年11月15日の上越新幹線開業、大宮からの暫定開業でしたか、あの時に吾妻線の系統以外は全部なくなっているわけですからね。このタイミングで181系の「とき」は完全に引退したという時期ですよね。

奥井 はい。貨物列車をご丁寧に後ろから前まで撮っているのは少ないでしょ。

―編成も長いですしね、いわゆる幹線としての風格がある……。

奥井 ありましたね。

―新潟県に入ったところで、岩原とか越後湯沢近辺の、奥井さんがお気に入りの地域でも撮影されています。

奥井 確かにあそこ、風土がありますね。沿線も歩きやすいし。

―ええ。僕も一昨年になりますけど、115系を追っかけて行ったんですけど、楽しかったですね。上越線はね。

奥井 楽しいですよ。上手に畦道、歩きますから。

―信越本線の碓氷峠、これも別の時でしょうか。

奥井 ええ。あそこはやっぱり憧れの地ですよね。

―はい。

奥井 親父がやっぱり興味があったもんだから、あそこの5万分の1の地図を残してくれていて。それで余計に興味はありました。

―時代的にちょっとずれたんで、残念ながら奥井さん時代には撮影出来てないんですけど、草軽電鉄もありましたね。「カルメン故郷に帰る」の世界だと思うんですけれど、あれがあったらと。映像がと言うよりも鉄道自体があったら是非とも乗りたい路線の一つだったなと思います。

奥井 頸城鉄道とかね。あそこらへん、乗りたかったな。

―きっと、今だったら結構なね、人気の……。

奥井 路線になってると……。それがね、国道に沿って、全部残ってるんですね。で、こないだね、水郡線、あれ3分の1ぐらい乗りましたけど、途中の駅から横へ出て鉄道が走ってたらしいですね。

―ほう、そうなんですね。

奥井 で、今はJRのバス路線になってて、その跡を丁寧にトレースするんですよ。楽しかったですよ、あれ(笑)。何走っとったんだろ、あれ。

(編集注:途中の磐城棚倉駅から東北本線白河駅へ、白棚線という路線が走っていた。大正5年に全通し、戦時中の昭和19年に不要不急線として休止、そのまま復旧しなかった。戦後路線跡を利用してバス路線に転向、そのままJRバス関東に引き継がれて現在も運行中)

―水郡線自体も、私は乗ってからそれこそ30年とか経っているんで、あんまり印象がないんですよね。しかし近年は、どこの路線でも久々に乗る路線は、絶対楽しいですよね。前に乗った時よりも、何か色んなこと、多少なり見聞きした分しか知らないけど、ここはこうだななんていう見方が……。

奥井 違ってきますよね。

―違っているんですよね。前は何も解らないで乗っていたのが。

奥井 あの、水戸辺りも、もっと乗っといたらよかったし、土浦にもう一回行きたいわ。あれは素晴らしかった。

―残念ながらいろんな路線がなくなってしまいましたけどね。筑波鉄道もなければ、鉾田に行く鹿島鉄道も。

奥井 あれなんか、懐かしいよなあ。

―私は、鹿島鉄道は辛うじて乗りましたが。

奥井 うんうん。

―「よみがえる総天然色の列車たち第3章」には「私鉄篇」に、関東鉄道常総線がまたちょっと出てきます。

奥井 ええ。

―あれはちょっと印象深くってね。すごい都市部の、近郊路線で住宅開発が進んでいて、複線なのに非電化なんですよね(笑)。

奥井(笑)

―ところで碓氷線撮影の時は、一旦軽井沢から電車で横川に移動して、それから車で戻ったんですか。

奥井 いや、あのね、途中で撮ってるんだから、かなり歩いたと思うんだなあ。丸山変電所のちょっと上まで歩いているんだわ。第一トンネルの上まで登ってるから。それで上から、キハ82とED42の4連とやり過ごしてるから。けれどその時はまだカメラがなかったんよ。スチールしか持ってなかったから。

―今回は、熊ノ平駅が写ってますけど、そこも歩いて行かれた、と。

奥井 歩いて行ってますね。

―ということは、過去も今回も、何度も……。

奥井 ええ、歩いて。

―相当な距離ですよね。今でこそ、丸山変電所の先まで、廃止になった線路を使って、トロッコみたいなもが走っていますが、一昨年、車からどれくらい廃線跡が見えるかなと車を運転して行ったんですが。

奥井 明確に残ってますね。

―廃止前には1回ぐらいしか乗ったことがないのですが、碓氷峠ということで、特別な思いで、噛みしめるような思いでしたね。わざわざなんか、水か何か買ってきて、窓際のテーブルでコップに入れて、傾きを見ながら乗っていました。

奥井 碓氷峠は好きでしたね。

―軽井沢の駅で、EF63の運転士と長話になって、出発時間の前になって、しまいに乗っかって行くかっていう話になったんですけど。あれは乗っかって行かなかっていうのが一生の後悔で。

奥井(笑)

―鉄道文化村で機関車の運転体験の取材でキャブに乗せてもらって、短い距離を走りましたけど、ま、それで多少取り返したかなって思いがありましたけどね。今回もまたフィルムに出てきて、よかったなあって(笑)。

奥井 あれこそ、ホントにビデオで撮るべきもんやったと思いますわ。

―はい。いろいろ撮った後でまた行かれて、撮ったんだろうなっていうのが、今回は横川駅のおぎのやさんの前のアプトの歯車レールの再利用までちゃんと撮られてて。

奥井 あれは有名です。

―軽井沢の駅前にもあったとはね。ちょっと懐かしくて……。

奥井 だけど、今の人が見たら、あれ、わからないでしょ、訳が。

―そうなんですよね、絶対わからないですよね、ええ。編集作業しながらグーグルのストリートビューで、この辺変わってるなあ、とか(笑)。変遷が激しいですよね。ちょっと離れると北陸新幹線ができていて、信越本線そのものがないわけですから。いろんなことに思いが膨らんでいきます。

奥井 軽井沢の駅前、大型のバイクしか走ってなくてね。400以下の車だと、なかなか登っていかない、あの峠を。だから、超大型のバイクばっかり。

―小さいのだと、しんどいのですね。

奥井 うん。

           

―話は前後しますが、今回の作品の中でも、最後に天王寺の話をお聞きしないといけないですね。

奥井 あれ、僕はその気はなしに、気軽に撮っているんですけでね。

―てっきり、水害で車両が今こんなことになっているからと、大急ぎで撮りに行かれたのかと思っていたんですが。

奥井 あの時僕は、12系の臨時があったのを、中心に撮りに行ったと思うの。

―「きのくに」の。

奥井 ええ。で、101系が来ると、色が全部違うし。それで思い出して、ついでに撮れるものは撮っておこうと。まさにカラフルでしたもの。

―何しろ、調べたら100両ものが床上浸水して、そのうちの113系は全部復旧したらしいんですけども、101系ばかり60両が廃車になった。大量廃車ですよ、こんなのは、戦災以外ないでしょ、大量被災は。

奥井 工場火災はちょいちょいあったけども、少ないですよね。

―ええ。それで淀川電車区から6両、それから東京から54両持ってきたってね。その東京からのやつは廃車になるやつを延ばしたっていうことでね。

(編集注:昭和57年8月の台風10号による風水害で、王寺駅近くの川が氾濫、113系40両、101系60両は床上浸水の被害をこうむった。113系は快速用に申請した冷房車だったので、各地の工場で復旧工事が行われたが、101系は非冷房車で、数年後に103系に置き換えて廃車予定だったため、廃車を繰り上げ、片町線から6両、総武中央緩行線から54両転属させて補った。そのため、ウグイス色のほかにオレンジバーミリオンやカナリヤ色が混在する状況となった。転属してきた101系は4・5年後に、201系を投入した東海道線から転属してきた103系と置き換えられ、廃車となった。)

奥井 あんなにカラフルになっているとは思わなかったな。

―初めはてっきり、電化の時に転属して持ってきたものかなと思ったのですが、時期的に違いますからね。なんだろうなと。

奥井 見とって楽しかったね。

―国電ファンにはたまらんことでしょ。混結しているは、101系のしかもカラフルなやつがですよ。当然しばらく使うからって、前に黄色い関西線の路線色を巻いているじゃないですか。

奥井 東京の人は喜ぶでしょうね。前のフィルム(第2章)には、113系の混色がありましたね。

―はい。そうですよね。阪和線色とね、関西線色とね。私が小学校5年の時に、悩みに悩んで最初に買ったHOゲージの鉄道模型が、113系の関西線色の4連でした。好きだったんですよ、あれ。永らく快速として環状線に乗り入れしていましたけど、大阪駅で見るたびに、おおっ、ていう感じでしたからね。

奥井 それを思うと、懐かしいフィルムでしょ。

―ええ。しかし現実には桜井線や和歌山線で走っている姿を見た覚えがなかったんです。

奥井 よう、こまめに動いているでしょ(笑)。

―ちゃんと行くとこ行ってはるなっていう感じですね(笑)。まあ、吉野口なんていうのはね、第2章の「近鉄篇」で、吉野線の貨物のフィルムもありましたので、見比べてみたりすると非常に面白くて。ちょうど30年前っていうのは、多分現在40歳以上の人には、おおっ、て言う……。

奥井 フィルムやと思いますよね。

―仕事なのですけれども、そっちのけで非常に楽しませていただき、本当にありがとうございました。第2巻は国鉄時代のディーゼルの方で、そのあとはJR発足30周年に合わせて、JRのフィルムが登場していく予定になっていますので、私も非常に楽しみにしております。ありがとうございました。

                                         <了>


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奥井宗夫のむねのおく第3章1

奥井宗夫インタビュー

「よみがえる総天然色の列車たち第3章1

国鉄篇<前篇>」のむねのおく (その1)


奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって列車を撮影し続けた。松阪レールクラブ会員。


―前回から2年ぐらい間が……。

奥井 空いていますね。

―「よみがえる総天然色の列車たち第2章」の「蒸気機関車篇」からしばらくお休みをいただいた形だったんですけども、まだまだ奥井さんのご自宅の宝の倉庫には、いろいろとフィルムが……。

奥井 残ってるね。

―今まで作品にしてきたものから少し後の時代のサウンドフィルムがたくさんあるので、ひととおり終わってから、また改めてやりましょうっていう感じで温存していたわけです。しかし他にもシリーズを進める間に、「こんなん出てきたよ」とか「こんなんあったよ」とか、逐次奥井さんから別のフィルムが見つかったという連絡をいただいていました。前の時代のフィルムも結構出てきたんですよね。

奥井 ちっちゃいの(短いフィルム)で繋ぎようがのうてね、ほってあったんよ。

―いわゆる端呎フィルムというやつですね。ですので、そんなものも改めてテレシネかけて、何が映っているのかなと点検していくと、いろんなものが出てきたと。それも含めて今回新たなシリーズとして、「よみがえる総天然色の列車たち第3章」として、再びご覧いただくことになったわけです。そして今日、1回目の仮編集を見ていただいたところなんですが、いかがですか。

奥井 そうですね、国鉄からJRに変わる過渡期の頃なんですよね。

―そうですね。

奥井 面白かったですよね(笑)。もう、こちらも忘れてますもん。

―撮ってからご覧になっていなかった。

奥井 そうですね。サウンドフィルムは殊にね、怖かったもんだから、一切、切りつなぎしてないのね。撮りっぱなしで、ポンと(倉庫に)ほり込んであったのね。

―怖かったっていうのは?

奥井 あの、編集すると音が切れちゃうんですよ。

―そうですよね。

奥井 音と画面のズレがあるもんだから。だから、もう撮りっぱなしで全部ポンポンポン(と倉庫へ)。それと、これまでのサイレントのフィルムと色調がね、ニコンとキヤノンの差が出たんです。それが怖かった。

―具体的にどういうことなんですか?

奥井 ニコンはね、暖色系なの、暖かい色。キヤノンは寒色系なの。ニコンの場合はあったかい色、キヤノンの場合はブルーが強調されるというか、中のフィルターの関係なんですけどね。

―確かにちょっと黄色がかって見えるような……。

奥井 シーンもあるでしょ。あれがメーカーの差ですよ。

―黄色がかって見えるほうがニコンということですか。

奥井 ニコン。

―なるほど。最終的には色を補正して近づける形で仕上がることになるんですけれど、ある程度そのフィルムを見れば、感じが違うなっていうのがわかるわけなんですよね。

奥井 わかります。

―もし、カメラを持ってやっていた方だと判る。あ、これはあれだなと……。

奥井 うん、判る。3つの系列があって、エルモの系列の色もね、またもちょっと違う。そうすると結局、同じクラブの所属していてもニコン派とキヤノン派に分かれるわけ。好みで。当時、買うてしもうたらその機械を使わな仕方ないですよね。で、ニコンを使っているもんだから、もうそれでいいっていう満足感があったんだけども、それが残念ながらぶっ壊れてしまった。それで買いかえようかどうしようか思うとった時に、ソニーのTR55とかいうビデオカメラが出たんで、それにしようかなと思っていたら、ちょうど先輩の人が、今から僕はビデオをやるって言って、今の機械はいらないからって譲ってくれたんです。それでキヤノンの一番いい機械を払い下げるような格好で、半額で譲り受けたんです。

―それがあの、キヤノンの1014XLSというやつですね。

奥井 ほな、乗る乗るっていう話になって、お医者さんの方から譲ってもらった。

―憧れの名機ですよね。あの、私も学生時代に8ミリ映画をやっていたんですけど、1014はとても手に入らずに、814XLSっていうやつを使っていました。1014XLSは、手動で巻き戻しができるんですよね。劇映画を撮る時はそれでオーバーラップとかが出来たんです。

奥井 あれはよかったですね、あの機械は。

―大阪の戎橋の南側に、今はCDショップになっているところにカメラ屋がありまして、1980年代の後半か90年代なったころにもまだその店頭に、まるで値下げもせず、いつも誇らしげに1014が飾ってありましたからね(笑)。

奥井 僕も、あのカメラはとても買えないと思っていた。はじめから。

―鉄道を撮る上で、どういうところがよかったんですか、1014は。

奥井 大体バランスが取れていましたよね。それほど重たくなかったし。

―それでその1014XLSで撮り始めたっていうのは、どのあたりからなるんですか。

奥井 音が入っているのは全部そうだから。

―なるほど。今回は音声付きの映像と音声なしの映像をあまり混在させたくなかったので、極力後ろの方に音声付きのフィルムを集めるように構成にしたんですけども。

奥井 それで、正解やと思います。

―ちょうど、国鉄分割民営化が1987年、昭和62年4月1日ですから、その前の11月のダイヤ改正の前後のあたりからサウンドフィルムが、例えば山科とか塚本、あと名古屋の金山、あの辺がその時代ですね。

奥井 そうなんです。

―大阪駅の映像なんかはそのダイヤ改正の前の、昭和60年から61年にかけて11番線の切り欠きホームにEF58150がイベントの告知用に展示されていて。大阪駅の西側の、今はビル街になっている所が昔のコンテナヤードの跡地で、「キャッツ」の公演なんかをやっている頃に、片隅に車両を並べて何かやっていたらしいですけど。(編集注:梅田貨物駅南側の旧コンテナヤードで583系のサロ581とサシ581を数両留置して行われた、「IMPORT EXPRESS OSAKA」という海外製品の輸入販売のイベントで、会期は昭和60年7月29日から翌年3月末まで)

―その頃にカメラを手に入れられたということですよね。

奥井 そうです。

           

―米原機関区でEF58がゾロゾロいる映像も出てきますね。

奥井 そうそう。

―すごい、居並んだ状況なんですが。ほとんど運用から外れかけているから、逆に集められたわけですね。確か昭和61年の4月ですね、あのイベント、撮影会が行われたのは。

奥井 ええ。もうちょっと写しに行きゃよかったな。最後の最後になったら、もういいやと思って、全然写しに行かんかったですね。

―撮るものを撮ってしまったら、逆にそんなに騒がれている時期に、ワサワサしているところに撮りに行ってもという感じですよね。葬式鉄でもないし。

奥井 そうなんですよね。

―北陸本線なんですが、坂田の手前から交流電化で、第2章ではデゴマルなりデゴイチなりが繋いでいてっていうところが、今回はキハ40系が繋いでいます。私は米原に行くと、DD50形の休車が並んでいたっていう記憶はありましたが、あまり40系には憶えがなくて、なんか新鮮でした。そういえば確か時刻表には、彦根発があったよなって思ってたら、ちょうどその彦根発の列車が撮影されていました。木ノ本までの区間運転なんですよね。

奥井 うん。

―本数も今と比べると、比較にならないぐらい少ない。

奥井 木ノ本辺りは行っとって、かなんのですわ。なかなかチャンスがない。あそこまで乗るの。

―いや、木ノ本までやったら近いですよ。

奥井 それはね、ここ松坂から米原までが遠いのよ、意外と。

―(笑)ちょうど鈴鹿山地を挟んで反対側になりますものね。

奥井 そうなの。だから米原っていうと、うんと遠いところに感じる。名古屋から行ったほうが近いか、大阪から行ったほうが近いか。京都回っていったほうがはるかに近いやろ。で、草津線通ると時間かかって、なんともしようがないやろ。

―米原では419系も登場します。寝台列車が少なくなって、583系が普通に転用されていくじゃないですか。九州もそうですけども、北陸本線でも。もうちょっと後の時代の落ち着いた色の時は、割と乗った記憶があるのですけれど、このワインレッドみたいな、あれは不思議な色をしていますよね。

奥井 赤。あれ撮ってる人、少ないと思いますよ。まして3両編成ですから。あれ、撮りに行っとるな。ビデオになってから。無くなるといかんわって。

―ドアは折り戸ですからね。肩幅ぐらいしかないような狭いドアで、それで乗り降りするが、ものすごい時間がかかるんですよ。普通列車の転用されてから。まして、湖西線経由で北陸行くっていうのは、関西発では青春18きっぷで流行りルートですからね。60代以上のシニアの人が結構な数乗ってて。大概、近江今津から先は419系でしたが、ちょっとビックリするような色で。印象がだいぶ違いました。

          

―あの後、国鉄からJRに変わってしまうと、車両の色の塗り替えがこぞって始まりますが、国鉄の最後の次期は、全国統一のカラーをやめ始めた時期にもなりますね。今、思うとあの福知山線113系の真っ黄色は衝撃的でしたが、懐かしさがありますよね。

奥井 僕はそう思わんと、来たやつを何でも撮ってるだけの話で(笑)。

―奥井さんにしてみれば、三重県の松阪から大阪へ遠征みたいな形ですが、僕はちょうど昭和62年、分割民営化した年の秋から宝塚の撮影所の出入り始めたんで、ちょうど福知山線はあれになって間もない時期でした。

奥井 ええ。

―それで、今なら「えっ」となる2両で走っているんですけど。大阪駅の夕方のラッシュ時に福知山線の電車が大阪駅発で2両だった記憶が強烈に残っています(笑)。2両しかないから逆に超満員です。なんでこんな短い編成で、一体どういう運用してるのかなっていう疑問があった時期でもありました。

奥井 なるほど。

―福知山まで電化したのが昭和61年11月の改正ですけれど、それまでの宝塚電化で103系が6連で走ってたのが、これまたガラガラだったんですよね。

奥井 うんうん。

―その先に行く列車は旧客でしたが、それも当然、大阪駅に直通で出入りしていて。当時、よくニュースにもなっていたんですけども、福知山線朝のラッシュ時の上り列車は宝塚まで満員なんです。ここまでは本数が少ない代わりに編成も7両も8両も繋いで長いのですが、乗客はみんなここで阪急に乗り換えていくわけですよ。当然、神戸方面に行く人もいらっしゃるんでしょうけど、ものすごい流れがあって。その一方で、大阪始発の、大阪―宝塚間をひたすら折り返す103系っていうのは、ガラガラの印象しかなくて。スピードも遅いんです。前に張り付いてスピードメーターを見ていた記憶ですけど、いくら飛ばしても60キロくらいしか出してなかったです。何か、ちょうど分割民営化30年ということになりますけど、時間の流れはしっかり流れているんだなと気がしたんですよね。

奥井 僕もあんだけしか撮ってなかったけども、それでも別の意味でも思い出しますね。

―塚本駅から西を向けば、あの北方貨物線への分岐があって、そこに宮原へ回送されて行く列車が出入りするわけです。そこへ出入りする「雷鳥」が583系だったりとか、485系のボンネットのクハ481だったりとかが、まあ何とも……。

奥井 懐かしかったですね(笑)。

―ええ。「雷鳥」なんて、当時は何にも思ってなかったんですけど、えらいもんだなって。

奥井 時代でえらいもんですね、ホントに。

―そういう意味では、東海道本線の東京口でもいっぱい撮影されていて、今回のフィルムの中ではね。それこそ、続々と東京行きのブルトレが……。

奥井 やってきて来ます。

―なんか、待っていたらいくらでも来るっていう印象ですよね。通勤時間帯をちょっと避けて、だいたい朝方の早めに着くグループが、「瀬戸」とか「出雲」。そしてラッシュ時が終わってから「富士」や「はやぶさ」「みずほ」が……。

奥井 それがやっと撮れるっていう時間帯で。小田原まで夜行で行って、それからローカルで行って、着いて撮ってギリギリっていうパターンでしたね。

―それは「大垣夜行」ですか。

奥井 そうです。

―そして、横浜近辺で撮られている映像にしても、長距離は長距離でそうなんですけど、じゃあ近郊形はと言うと113系が……。

奥井 ええ。

―当然、全部113系の時代で、湘南色とスカ色がちょうど……。

奥井 入っていて。

―SM分離って言われる、横須賀線と東海道本線の運転を分離して、横須賀線が品鶴線経由になった直後ぐらいの映像のはずです。それこそ「雷鳥」以上に何にもありがたくなかった113系が、こうもありがたい映像なのかっていう、痛感する感じです。関西の方で言うと、快速にグリーン車がついていましたからね。当時は。考えてみたら、新快速は113系から153系になって、117系が導入されっていう時代であっても、113系の快速にだけグリーン車がついていたわけです。

奥井 あれは貴重な時代ですね。

―ええ。考えたら、117系と座席の乗り心地とか113系のグリーン車とあまり差がなかったんじゃないかなという気がするんですけど。117系が関西の近郊の主役の時代なんですが、丁度、私が高校1年の時にあれがデビューしてきて。それまでは、それこそ東海道本線の普通もガラガラでしたからね。高槻から先、京都の方に向かうやつなんか、だいたい通学しながら横に普通が来たら、お客の数を数えてましたからね。今日は7人とか、6人とかね。本当にガラガラだったんですよね。新快速が153系の時代に、スピード面で結構な力を出してきたんで、阪急は6300系、京阪は3000系を出して、逆に国鉄も対抗して117系が入ったっていう……。

奥井 そうですね、対抗があってこそ新車がどんどん入ってきてますからね。

―はい。あの当時の国鉄にして、この乗り心地で、いいなあって思った印象がすごく強烈で、未だに、湖西線とかで117系に巡り合ったら、やったって感じがするんです。

奥井 そうですね、僕らも117系は好きでしたけども。ほんとに、あとで各車の状況を見ると、かわいそうな気がしますね。

―はい。下関界隈で出会ったときの喜びもひとしおだったんですけど、あっちも居なくなったし。

奥井 広島色もなくなったし。

―今回は国鉄時代に、名古屋地区に投入され、ダイヤ改正前後で6連から4連になっているのがしっかりと記録されています。61年11月のダイヤ改正で、各地に都市型ダイヤが導入されて、編成を短くして本数を増やすという、今に繋がるダイヤになった改正ですね。

奥井 名古屋で12連があったと思うんだけどね。あれ、撮り損ねてしまった。

―ああ、その6連繋いでいるときに2本つないでいた、ということですよね。

奥井 そうそう。昼間、熱田駅においてあってね、ラッシュ時に動き出すんですよね。

―東海道本線は名古屋の次が熱田で、尾頭橋もなければ金山もない時代、中央本線の金山のちょっと名古屋寄りの場所で撮影されていますが、あそこも待ってたら次々と……。

奥井 そうなんです、十分楽しめるもんで(笑)。

―(笑)。あとあと私鉄篇には名鉄の車両もいっぱい登場してくるので今回はカットしていますが、あのナマズ(モ850形)がまだ居る頃ですね。勿論7000系もバリバリ走っているし、楽しい場所ですよね、あそこは。

                             (その2)へ続く

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奥井宗夫のむねのおく 2-22

「よみがえる総天然色の列車たち第2章22

蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その2)



―そして最後の2ヶ月とか、そして最終日のフィルムとか、沢山ショットを重ねて撮ってらっしゃるんですけれど、いよいよって感じの頃ですよね。もちろん全国的にはまだ少しあって、蒸機の全廃は2年先なんですが、もう亀山なり三重県では最後ということになりました。地元の奥井さんにとっては如何でしたか。

奥井 単車で走れるところは、単車で走りました(笑)。125ですから、力がないですからね(笑)。

―(笑)。もう走り回って、とにかくフィルムに収めたるんだって言う感じですか。

奥井 最後の時は、ちょっとコンパーノとかそのへんの、1000ccぐらいの車に乗ってましたが、それまでは全部、125ccの単車で走りました。

―最終日の朝もバイクで亀山駅に……。

奥井 いや、あれはね、最終日は列車で行きました。亀山に着いて、あの列車(821列車)で下庄まで戻って、また戻って、また、最終(826列車)を迎えに一身田まで行って、撮りました。

―今回は、久々に奥井さんの行動を時刻表でたどりました。

奥井(笑)

―つまり、このフィルムはどういう中味なのかを確認したわけです。間違いなくこの下りの821列車に乗って下庄で降りて、この列車のディーゼルで戻ってきて、一旦この列車に乗ってまた一身田に行って、それで826に乗って帰ってきた、と。その上で、昼間亀山にいる間にどういう列車が出入りするかというのを調べていきました。この列車とこの列車と、ここに走っていた荷物列車があったのかどうかとか、皆で調べて、一旦台本に書いたことが間違いないことを確認しながら作っていくという編集だったんです。それ自体が作業として、非常に面白かったんです(笑)。

奥井 それは面白いだろうなあ(笑)。

―ええ。

奥井 僕も大体の検討働かして動いたんですが(笑)。

―最終日は、今までDD51に替わっていたのを、最終日だと言うのでまたD51に戻した列車も何本かあったんですね。

奥井 ええ。そういうことまで、私は知りませんでした。

―予定外だったんですか。

奥井 もう全然、予定外で。来るものは何でも撮ってやろうと、構えていますから。

―でも、分かってる人もいたんでしょうかね。待っていた感じがあって。

奥井 ええ。

―相当な数のファンの人や、ファンでない人も含めて来られていたみたいで。

奥井 いっぱい行くから、どうしても隣のホームへ逃げな仕方がない。だいたいそれで、成功しとると思うんですよ。

◆    

―その、一番成功していると思われたのが、大阪駅!

奥井 はい。C61ですね。あれはホントに、大成功でした。これはもう、人で人で何とも仕方ない……(笑)。

―わかります。僕は京阪100年号の時に大阪駅に行ったんですよ、昭和51年の9月4日。中学1年生だったんですけど。これに輪をかけた騒ぎで……。

奥井 ええ。

―結果的に事故まで起きてしまったんですが。ただ、私は実際には、このC61の白鷺号は見てないんですけども、この大阪駅のC61のフィルムの雰囲気は、すごくわかる感じがしますね。大阪駅にその、蒸機が入って来るっていう、この得も言えぬ感動というか。

奥井(笑)奥井 でしょうね。同じようなのが、さよならの、天王寺のEF52ですよね。

―シリーズ第1作の「電気機関車篇」のラストシーンに登場しましたね。

奥井 あれも良かったですよね。

―あの雰囲気、時代的にも割と近いところで、片や蒸機が、こちらは動態保存されたC61が東海道・山陽本線を走るぞというのと、同じような時代で……。

奥井 設定ですよね。

―EF52がこっちはもう、電機なのに早くも引退するっていう。

奥井 そしたらね、「奥井さんが撮っていた写真のここで、僕は写真撮っていたんだ」っていう人が現れましてね。

―はいはいはいはい。

奥井 「奥井さんが撮っているすぐ前で撮ってたんだ」って(笑)。

―(笑)。あの、私のところにも連絡がありましたよ。奥井さんが撮っているフィルムの車窓風景のこの場所にいたんです、って言う人……(笑)。

奥井(笑)

―それで奥井さんはこの時、大阪駅で入線から出発を撮って、加古川へ飛んだわけですね。

奥井 ええ。

―面白かったのが、加古川を渡るのをPANで撮っていて、そのままカメラは土手の方へPANしていくんですね。そしたら、ファンの人が一杯いるいうとこまでちゃんと撮っているところが面白くて。

奥井 加古川で国鉄を降りましてね、タクシーに乗ったんですよ。そしたら、いきなりグーンと反対の方へ走り出しましてね。一体どうなっとんやって言ったら、いや実は一方通行でこっち行かな仕方ないんですよって言うて。それでズーッと行って、それから折り返してバーッと裏道走ってくれてたんですよ。それでうまいこと堤防へ着けてくれたもんだから、こっちは着とるもの、足ギリギリのところまで脱いで……。それで真ん中の浅瀬に行ったんですよ。

―水の中に入っているんですね。

奥井 はい、入ってます(笑)。

―気合入りましたね(笑)。

奥井 何とも仕方ないと思ったもんで。

―あー、場所がない。

奥井 場所がなかった。こっちはもういっぱいですから。ですからもう、逃げ場がなかったんですよ。

―そんな騒ぎになってたんですね、この時。

奥井 とにかく、どこに行っても人がいるんですよ。もう、あそこの中洲へ行かな仕方がないと思って。で、中洲へ上がって、それで一応、あの距離ではちょっと遠いけど、仕方がないなっと思って、撮ったんです。

―はあ。

奥井 そしたら、後ろをうまいこと撮れましたから。

―却っていいアングルに入ってましたね。

奥井 はい。もう、最後の大型蒸機って言うことはわかっていましたから。

―そうですよね、この本線を走る、しかもC61が山陽本線を走ったのは、これが初めてじゃないですか。

奥井 そうです。ですからね、あれは貴重なフィルムで、C53の時(昭和36年、C5345の東海道・山陽本線の復活運転)とおんなじぐらいのことやったと思うんです。

―この前に、シロクニで同じ白鷺号が走ったことは何度かありましたが、シーロクイチはこの日1回ですね。

奥井 1回です。

―これは貴重ですね!

奥井 面白かったですよ。

―それで、加古川から駅に戻られて……。

奥井 すぐ姫路に行って、姫路城を見に行ったんです。

―もう先に着いているし、取り敢えず姫路城ですね(笑)。「白鷺号」やから「白鷺城」を撮っておけってことですか。

奥井 そうなんです。

―別に姫路城、その日に撮る必要ないと思うんですけど。

奥井 なかったんですけども、行ってないもんですから、ぜひ行きたいな、と。

―あ、そうか。このタイミングを逃したら、なかなかいけないから。

奥井 そうです。

―なるほど。

奥井 それでそこで精一杯遊んで、もう、すぐに帰ってきたんです。

―あの、だいぶカットさせてもらいましたけど、相当なカット数回ってましたね、姫路城で。

奥井 はははっ。

―フィルムを見ていると分かるんですけれど、この後山陽電車で戻ってるんですよね。

奥井 うーん、なるほど、なるほど。

―それで大阪駅へ先行して戻って、それで……。

奥井 1回ね、須磨浦で山へ上りかけたんですよ。ところが上から撮れないってことが判ったもんだから、それですぐまた電車に乗って、戻ったんです。須磨のワンカットが確かあったと思ったんです。

―ありましたね。

奥井 あったでしょ。

―あれは西日本私鉄篇で使いましたけど。それで大阪駅へ戻って、これがまた僕の世代から言うとたまらないんですよ。11番線に雷鳥がいて、10番線に入って来るわけですよ、シーロクイチが。いやあ、いいですよね、これ。

奥井 1日でギリギリ撮ってますから。この後、鶴橋で弁当買って、帰ってる。

―(笑)なるほど。鶴橋なんて、何十回も、何百回も行ってるはずのものが、全部その辺の思い出がセットになっているんですね。

―次に出てくるのが、駅弁のあら竹さんの経営するドライブインに保存された、C11。

奥井 ええ。あれが部品取りになってしまって、残念ですけどね、仕方ないですよね。

(編集注:昭和63年に大井川鉄道に譲渡され、動態復元された。SL急行に活躍したが、老朽化のため平成19年に引退。ボイラと汽笛をC11227に提供した。)

奥井 それで、あれ、かわいそうに、ちゃんとした小屋建ててもらったんですけれど、あれ、非常警報で天井、抜いちゃったんですよ。

―どういうことですか。

奥井 あれを据え付けてしばらくしてから、誰ぞが運転席に登って、非常警報の発煙(信号炎管)、あるでしょ。あれを誰かが悪戯して引いちゃったんですよ。外しておきゃよかったのに、それを残していたんですよ。―アッ!機関車にその非常用の発煙筒が付いてた!

奥井 そうなんです。

―ああ!それでなんかわからんけど、さわってたらシュワッと……。

奥井 出ちゃった。

―炎が上がって屋根が……。

奥井 ええ。それで火事になったんです。 小火ですね。

―あらま、それは災難でしたね。

奥井 あれから1週間ぐらいの事やったかな。

―じゃ、たった1週間で、あの屋根が無くなったってことですか。

奥井 いや、半分燃えてしまって、あとは外したんじゃなかったかな。

―そうなんですか。

奥井 うん。ま、二度と起こらない事故ですけどね。

―そんな物付けたままにしてませんからね。触れないようにしてるし、入れること自体も多くないですからね。しかし、この機関車が、のちのち大井川に行くことになって、動態復活するとは。

奥井 思わなかったですね。

―あら竹さんはよくぞ保存されたことです。

奥井 ええ。先々代の新竹亮太郎さんっていう人。その人の実力やったと思いますわ。

―機関車とか、お好きだったんでしょうか。

奥井 うん、好きでしたね。

(編集注:C11312を保存した新竹商店の2代目社長・新竹亮太郎さんは、駅弁やとして機関車にお世話になったので恩返ししよう、ということで国鉄から話のあった機関車の買い取りを決断。ドライブインに保存した。あら竹のホームページ http://www.ekiben-aratake.com/ より。)

―今の社長は、お孫さんということですか。

奥井 そうです。

―なかなか元気な方で。割と鉄道の勉強もされていて詳しいしね。好い方なんですけど。

奥井 ま、今度出たから、ちょっと格好がつきました(笑)。

―あら竹さんのお弁当には、奥井さんのお店の野菜が使われているんですよね。

奥井 ええ。

―C11312号機は大井川に行きましたが、まだその前の時代の大井川鉄道を、奥井さんはしっかりと撮られています。当時のフィルムと、今とそうそう違う感じはありませんね。

奥井 ええ。

―しかし、国鉄の山口線でSL復活するまで、私鉄の大井川鉄道や西武山口線でしかSLが走っていない時期がありました。今回のフィルムの中ではズバ抜けて後の方のもので、昭和56年の撮影ですが、時代的には国鉄の山口線でSLが復活した後の時期のものです。しかし、蒸気機関車はこの大井川鉄道を足掛かりに、これから逆にまた各地で動態で復活していきましたので、ここは未来に繋いでいく、そういう感じでシリーズを終わらせるように、大井川鉄道をラストに持って来させてもらいました。

奥井 確かにその通りですね。

―何か、格別に思い入れってあって行かれたんですか、当時は。

奥井 そうですね、僕としてはC56が少なかったですから。それが動いているっていうことで、行きました。C11とC56、2台動いていましたから、やっぱり行かなきゃいかんな、と思いまして。

―はい。

奥井 そのあと、旧東海道を11年かけてずっと全区間歩いた時に、もう1回、立ち寄りましたから。

―なるほど。丁度クロスしますからね。大井川鉄道と東海道は。

奥井 しかし(国鉄)山口線は行きませんでしたね。行きたいっていう気はあるんですけれど、客車がどうも気に入らんので(笑)。

―それはね、あるかもしれないですね(笑)。そういう意味では、大井川鉄道というのは、ずっと一貫して旧客で。

奥井 そうなんです。どうも、あの山口線の客車は気に入らない(笑)。

―(笑)。ある意味、この当時からほとんど姿を変えることなく、同じスタイルで大井川鉄道は運転を続けてきて、それはそれですごいことだと思います。

奥井 あれは白井昭君が偉かったんですよね。ポリシーがあった。あの人は。

―そうですね、これはやっぱり白井さんの鶴の一声みたいな……。

奥井 そうでしょうね。鉄道友の会で一緒になった時期があるんです。

―はい。名鉄から大井川鉄道に出向されて、副社長になられたかたですよね。えーと、パノラマカーを作った方でしたか。

奥井 ええ。

◆    

―こうして足掛け5年掛かりで、22巻。とりあえず「よみがえる総天然色第2章」は、一旦これで完結します。ほとんど無駄にしていないというポリシーでフィルムを出し尽くしたら、22巻出来たということです。

奥井 恐ろしいですねえ(笑)。

―(笑)

奥井 いや、恐ろしいですよ(笑)。

―冒頭でもこの話をしましたが、何か、すごい足跡ですよね。

奥井 ええ。

―改めて振り返って、感慨深いものがあります。奥井さんのその、動いた距離と行動力と、それに勿論、好きだからという、思いはあるんでしょうけれど。

奥井 よう歩いたもんです(笑)。 ま、健康だったからこそ、歩けたんです。

―ええ。本当にありがとうございました。お礼を申し上げるわけですが、でも、これで実は、終わらないんですよね。

奥井 はい。まだ、ちょっと残ってますからね。また、別の機会に。

―あの、今回の「よみがえる総天然色第2章」というのは、奥井さんの、実はサイレントフィルムだけで作ったんですが、この後の時期に、奥井さんのサウンドフィルムで撮るカメラ、キャノンの1014XLを買われて。

奥井 そうです。あれはねえ、知っとる人が、自分はビデオに替えるから引き取ってくれって言われて、半額でくれたんですよ、ポーンと。夢みたいな話ですよ。

―豪華なカメラでしたからね。

奥井 豪華です。

―当時、私は買いたくても買えなかった。

奥井 みんなのね、あこがれの的のカメラですけれどね、値段が高くて買えなかった。それを半額で、ポンとくれた。私に譲ってくれたんですよ。

―なるほど。

奥井 常識では考えられない。それで自分はソニーのビデオに替えちゃったんですよ。TR50とか何とか。もう、ソニーの直ぐの機械ですよね。

―でも、結果言えば、当時のフィルムとビデオは比べてどうかと言えば、フィルムの方が圧倒的に色もきれいだし、保存状態もいいんですよね。そこで、これからそのフィルムをまた新たにお借りして、テレシネをして、僕もまだどんな中味があるのかわからないのですが、それを極々近い将来に続編として、また世に送り出したいなと思っています。

奥井 わかりました。よろしくお願いします。

―こちらこそよろしくお願い出来ればと思います。何が出るか、すごく今から楽しみにしております。まずは、とにかく、ありがとうございました。

奥井 ありがとうございました。

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奥井宗夫のむねのおく 2-22

「よみがえる総天然色の列車たち第2章22

蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その1)



―今回で22巻、奥井さんの作品集、一旦、最終巻ということになります。蒸気機関車篇の3本作った3本目です。

奥井 結構、見ごたえあります。

―今回、奥井さんが改めてごらんになったところで、一番のポイントはどんなところですか。

奥井 やっぱり、専用線二つ。

―ほうほう。

奥井 スチールでは値打ちないけど、あの頃は皆カメラ持ってないし、(映像が)あーやって動くと値打ちあるなあ。

―はいはい。

奥井 やっぱり、動く物は貴重だわ。もうちょっと、撮っときたかったんだけどな。

―石原産業さんに聞くと、ときどきそういうフィルムがないかっていう問い合わせが来るんだそうですけど……、

奥井 うん。

―ありませんって答えるらしいんで(笑)。石原産業の人に言っておきました。今度からウチに連絡ください(笑)。

奥井(笑)

―最終日のフィルムがでてきますけども、結局工場と塩浜の駅を行ったり来たり……。

奥井 そうそうそう。

―しているわけなんですね。見学に来た人を機関車に乗せたり……。

奥井 そうそう。あのフィルムの通りです。

―なるほど。

奥井 お祭りみたいなもんやったな。最後はな。

―工場の中だけでなく、いっぱい外からも……。

奥井 外も中もみんな盛り上がっていたよね、みんな。まだあの時はマニアが少なかったのに。

―まだ、1968年、昭和43年ですから、いわゆるSLブームには……。

奥井 ちょっとほど遠いね。

―ま、追っかけてる人は追っかけてるという頃で。まだまだいっぱいあちこちで見られたから……。

奥井 そうそう。東芝にも1台いたし。

―はい。

奥井 僕は、あそこに行きたいなと思ったんやな。小名浜に。

(編集注:小名浜=小名浜臨海鉄道、現福島臨海鉄道。いろいろ謂れの多い蒸気機関車が在籍していたが、最後は旧国鉄のB6形であったC508<2120形2256、昭和38年廃車>・C509<2120形2256、昭和41年廃車>が活躍していた。廃車後、昭和41年に2台とも解体された。)

―小名浜。

奥井 あそこは行きたかった。でも、「行っても奥井さん動かへんよ」って言われた。

―平に行った時に、行きたかったけれど行けなかったという話の所ですよね。

奥井 そうそう。東武にも一回行って失敗したからね、完全に。もう、蒸気機関車はなかったんよ(昭和41年に全廃された)。

―はあ、そうですか。キットソンとかね、あの辺が……。

奥井 ネルソンとかキットソンとか、あれよかったよ。罐は良かったんやけど、いざ走り出すと、もうガッサン、しばらくしてガッサン、何ともしようがなかった(笑)。

―確か、あまりにも哀れでフィルムを回さなかったって、以前言っておられましたね。

奥井 うん。ありましたね。

―でも、割とこの石原産業の蒸気機関車は、状態がよかったんですね。

奥井 良かった。最後まで良かったですね。

(編集注:昭和41年7月に国鉄長野工場で全般検査を受けていた。それからわずか2年で廃車されたことになる。)

―きれいにね、整備されているように見えましたけど。

奥井 尤も、そんなに飾りもなかったし。

◆    

―今回はちょっと冒頭に西武山口線を持ってきたりして、そういう風なちっちゃい機関車から入ってみたんですけど、その西武鉄道の山口線ですが……。

奥井 あの、弁装置がよかった。アラン式でね。

―はい。

奥井 あれがいいから、やっぱり値打ちがあると思って、こっちも一生懸命撮った。

―まあ、何か変わった動きをしていますよね(笑)。

奥井(笑)

―どう説明していいのか、見ていただくしかないんですけど。

奥井 やっぱり、あれ、みんな見ていないからね。あれなんか、絶対見るべきもんや、と思います。

―カムみたいな感じで。

奥井 そうですね。大分位相をずらして、という感じがよう解ると思います。

―はい。非常に面白い動きをしています。

奥井 あれ、お守りするのは大変だったやろうなあ。

―言っても、実際に西武鉄道がその前身の川越鉄道とかの時代に蒸機を扱っていたというような人が、この時現役でいらっしゃるとは思えないので。

奥井 あれ、ようやったと思う。

―もう、手探りで……。

奥井 手探りだったのか、頸城から連れてきたんか……。

―ああ、そうかもしれないですね。技術指導を受けて。

(編集注:西武鉄道の運転士が蒸気機関車運転免許を取得するまでの間、機関車とともに頸城鉄道の運転士が西武鉄道に出向してきて、整備・運転に当たっていた。)

奥井 そこらへんが、やっぱりどこでも苦労してやってるんだと思うんですよ。

―はい。

奥井 シゴイチの最後の頃に、C51が全国で16両残っとるときに全部残せって僕が言ったら、国鉄の人みんなに笑わられて。

―(笑)

奥井 残しとくんが正解だったんだよ、実際。

―はい。

奥井 1両だけでは動かないもの。

―部品取りしながらやるしかない……。

奥井 あら竹のC11も部品取りになっちゃったけどさ。

―でも、この西武の山口線、当時のテレビ映画に出てきたりとか、よくロケに使われていたんですよね。

奥井(笑)

―あの、「ケンちゃんシリーズ」か何かで見たことがあります。

奥井 うんうんうん。

―でも、考えたらその頃って、まだ蒸機の復活運転が始まって間もない頃だったわけですよね。

奥井 そうそう。

―逆に目新しかった。

奥井 ま、強引に突っ込んで正解やったと思うんですよね。

―なんか、回り回って西鉄が球団を手放し、太平洋クラブになり、クラウンになり、西武ライオンズになるんですけれども、西鉄が手放したことが西武山口線を新交通に替える原因になっている、というところに感慨深いものがありますけれど。ご存知のように、新交通システムに替わってしまって、面影は全然ないです。想像がつかないぐらいですからね。

奥井 いっぺん行かないかんね。

―まったく面影がないですから(笑)。初めて乗る線、みたいなイメージしかないかもしれませんが。でも、いいところですからね、あの辺はね。

奥井 行ってよかったです、正解です。

―そしてもうひとつが、長島スパーランド。尾小屋鉄道です。

奥井 尾小屋は、やっぱり松阪が多少関係あったもんですからね。客車をあそこへ持ってったんですよ、2両。だから特に思い入れがあって、一回団体旅行抜け出して、撮りに行ったことがあります。

―あそこへ持って行った客車というのは。

奥井 三重交通松阪線の334と333の2両、行きましたからね。

(編集注:この2両は静岡鉄道駿遠線に譲渡され、同線のハ27・ハ28となった。尾小屋鉄道には、サ331・サ342・サ321・サ322・サ352・サニ403・サニ401の7両が昭和25~37年に譲渡され、同線のホハフ1~3・5~8となった。)

―この時長島で牽かれている客車というのは、井笠鉄道のホハ4と尾小屋鉄道のハフ1と2の3両を引っ張っていたわけですね。

奥井 ええ。

―井笠鉄道のものは、ローカル私鉄篇にでてきたあれですよね。

奥井 あれです。

―尾小屋鉄道もこのシリーズをよく見ていると、「国鉄ディーゼル篇」にチラッとワンカットだけ出てきます(笑)。

奥井(笑)。あそこはもっと撮りたかったけど、1日何便ですからね。撮れなかったですよ。

―それが逆に今回登場してきたわけですね。しかし、いくら鉄道100年の催しとはいえ、かなり大がかりなことをやっていたんですね。

奥井 長島さんね、一時ね、C51の225号機を保存しようという話があったんですよ。

―亀山の最後のシゴイチですね。

奥井 だから、保存してくれるもんやと思ってたら、逆に後になって一回、(長島スパーランドから)ウチに問い合わせが来たことがあったんです。「奥井さん、C51225はどこにいるんですか」と。―えっ!?

奥井 「もう、残ってないよ」って言ったんです。

―はい。

奥井 遅いですよ、何ぼなんでも。

―でも、国鉄じゃなくて、奥井さんとこに問い合わせが来るんですね(笑)。

奥井 国鉄探してないものは、ない(笑)。

―それにしても、鉄道100年記念の当時は、記念切手とかも出て僕も買いましたけど、これだけ大きなイベントをやったりして、それだけ大きなこととして捉えられていたということですよね。

奥井 そうですね。その鉄道100年記念切手の時には、シゴイチの動いとる写真ないかと言われて……。

―切手の図案用の元の写真ということですか?

奥井 はい。後になって、あったことに気付いたけれど、その時は、ないよと言いました。だからシゴイチの切手だけ、停まっている図案になっています。

―このシリーズの監修をお願いしている宮澤先生の写真も、いくつか切手になっていますが、それもまた、すごい話ですね。

―しかし、そういう時期を境に、残り蒸気機関車全廃まで3年というところで、いよいよカウントダウンが始まる時期でしたよね。

奥井 はい。

―その亀山機関区・奈良運転所の機関車を中心に、奥井さんは撮りまくられています。この時期に。

奥井 もう、めちゃくちゃ撮ってますね。フィルム代がえらかったですよ、あの時は(笑)。

―(笑)。前回から引き続き色々出てくるんですが、SLの晩年の時期になりますが、一言でいうと、当時はどんな感じでしたか。

奥井 まあ、フィルムは(現像のために)ハワイまで送らなくなったんが助かりましたね。

―現像が国内で……。

奥井 東洋現像所が出来たもんですから。で、国内で出来るようになって。ハワイだとどうしても現像に25日もかかるのよ。それには参った。

―東洋現像所と言えば京都でしょ。今のイマジカですよね。それで1週間ぐらいで帰ってくるようになったんですか。

奥井 1週間ちょっと。何よりも、それで助かった。フィルムもね、ダブル時代と言って(フィルムを)入換えをせんならん時代があったんです。

―ひっくり返して半分ずつ使うやつですよね。

奥井 あれからうまく早いこと、スーパーに乗り換えたもんだから、よかったですね。

―乗り換えた当時のカメラは何を使われてました。

奥井 キヤノンの、重たいカメラやったなあ、EEEというやつ。ダブルで、それが兎に角面倒と思とった時に新型が出て。それでニコンのX3だったかな、3倍ズームに変えたんです。それで当たったんです。

―カメラがいいと、どんどん撮りたくなりますからね。

奥井 はい。

―そうやって、色々と撮られてるなかで、今回はシゴハチが結構……。

奥井 多かったですね。けど実際はね、期間も2~3年ぐらいかな、2年間ぐらいやったね。

―松阪方面に乗り入れてきてたのは、短いんですね。

奥井 はい。それで、DE10にすぐに替わるんかなっと思ったらこれが全然替わらずに、DE10は試運転の時に入ってきただけで、こちらには入らなかったですから。

―じゃ、その試運転に入った1回?

奥井 1回です。

―それを撮られているわけですか。

奥井 はい。それもね、C58とDE10と重連で入ってきて、それ1回だけですわ。

―そうですね、後ろにスロ62・スロフ62をつけて。

奥井 ちょっと重たいから2両で来とるんでしょ(笑)。

―なるほど。

奥井 しばらくすると、大体6両ぐらいしか牽かなかったですから。8両って言うのは、例外的です。

―もう、いっぱいいっぱいなんですね。それで結局12系を牽いて……。

奥井 ええ。主に臨時で12系だけですね。他の客車になると、全部シゴナナが牽いてましたから。

―はあ、なるほど。じゃあ、12系の時はシゴハチが牽くっていうのは、これは何故だったんですか。

奥井 客車が軽いですから。

―ああ、12系はスハ43とか比べると軽いから。

奥井 軽いんですよ。

―発電機を積んでても、尚軽いわけですね。10系と比べても。

奥井 そうそうそう。

―そうやって考えると、なかなか大した車両ですね。(笑)。

奥井 長さは長いし(笑)。

(編集注:車体長は、オハ61系・オハ35系が19.5m、10系が20.0mであるのに対し、12系は20.8mである。)

―なるほど。そしたら、運用の都合もあるけれども、シゴハチにはもってこいだと。

奥井 そうです、そうです。もうそのように、現場でも早くから決めていたでしょう。

―なるほど。信楽線・草津線の運用だけでは、手持無沙汰ですよね。役不足というか。

奥井 だから、ちょうどいい仕事やったと思うんです。

―なるほど。で、2年ぐらいしか入ってこなかった、そのあとはどうなったんですか、シゴハチは。

奥井 もう、一緒に無くなりました。

―ああ、最後の2年間ということですか。

奥井 はい、最後の2年間です。

―それとあと、奈良運転所のデゴイチですね。

奥井 あれ、うまいことこっち(紀勢本線)まで入ってくれました。もうちょっとね、混合列車を撮りたかったんですよ、ホントは。参宮線の伊勢市から向こう、鳥羽までの間は、混合列車がようけありましたから。それを撮りに行きたかったけれど、なかなか行く暇がなかった。

―伊勢市から先がパタッとない……。

奥井 ないですよ(笑)。あそこまで単車で飛ばしていくのはちょっと……。

―それは遠いですね。でも、デゴイチの、色々と装飾が見られるのがいいですね。動画で撮られているのは非常に珍しいと思います。

奥井 あの頃、みんな撮らなかったからね。高かったからでしょうね、フィルム代が。

―はい、動画はね。なんでこの時期、装飾をつけだしたんでしょうね。

奥井 結局、(SL)ブームですし、余ってきたのを次々、機関車を替えてきていますから。ですからああいう風に、どの機関車にも付けられるようになってきた。

―あれは、元々奈良にあったものですか。

奥井 奈良にあったものです。奈良の鹿。

―そうですよね。でも、「かもめ」があったり「ピース」があったり「つばめ」があったり、何か色々とあったんですね。

奥井 ええ。シゴイチの、あの3本スジもありましたからね。

―はあ、それは何のデザインですか。

奥井 あれはね、お召専用に使った機関車の印やったと思うんです。それと真鍮のところの磨き出しとね。

―はい。

奥井 あれも、たくさんあります。

―こうやって観ると、前に出た時にはそれほど思わなかった10系の客車が、今回、きれいだなあと思って。

奥井 意外ときれいでしたね。僕は、10系も35系もそんなに、気にはしてなかったですけどね。時々ちょこちょこっと1両だけ入って来ると、ちょっと嫌でしたけどね(笑)。

―そうそう、それは確かにそうですね(笑)。ただ、何両か揃って走ると……。

奥井 きれいですよ。

―臨時列車でデゴイチに牽かれて……。

奥井 もうちょっと活躍してほしかった車両ですね。

―見た目は、そのラインこそないものの20系に近い、前身みたいなものですから。

奥井 そうです。

―すごく美しい姿で、あの加太越えの大築堤を上がってくる……。

奥井 ええ。

―これは良かったですよね。色んな所でちょっと、色んな見え方がして。

奥井 もう12系だとね、加太へ行かなかったんですよ、僕ら。あ、12系かってね(笑)。

―加太越と言えば、一定以上の編成でしたら必ず補機が付いて行くんですけども、重連にはならないんですよね。

奥井 重連にはならないですね。後補機という格好で。姫路快速でもそうですから。あれもやっぱり、先に重連するとお客さんが煙にまかれるから。

―ああ!

奥井 で、どうしても後ろにつけますから。

―どれだけ窓を閉めていても、煙は入って来ますからね。

奥井 で、最後はトンネルで、遮断する幕を使うわけです。

―はいはい。

奥井 何とかかんとか押さえようとするわけですけど。それでも前の罐のは、まともに入ってきますよね。

―ええ、せめと言うことで、後ろにつけているっていう……。加太越えの基本スタイルは後補機だと。

奥井 そういうことです。

―これはデゴイチに限らず、みんなそうやって……。

奥井 みんなそうです。

―シゴハチでも重連は前についてっていうのは、なかったんですか。

奥井 なかったですね。荷物列車の軽い列車ですから。デゴイチは本務で、シゴハチを回送で持っていくときは前につなぐ。

―ああ、なるほどね。回送とかでね。

奥井 その時以外は、後ろですよ。

奥井 上りですと、(蒸機でも)前2両というケースが……。

―亀山行きでね。上り勾配の区間が短いから。

奥井 短いから、トンネル区間が下り(勾配)になっていますから。

―それが、いよいよDD51が付くようになって、前がディーゼルに替わっても後ろはデゴイチでという時期が来て、これはこれで感慨深いものがありました。

奥井 ま、撮っといてよかったな、と今になって思いますね。もう、ホントにアッと言ううちに替わってしまいました。

―はい。後にDD51が後補機でつくということもなかったんですか。

奥井 なかったですね、DD51は。もう、すぐに本務に入りましたから。両数も少ないし、前に本務についた方が自分(乗務員)ら楽ですから。

―ああ、なるほど。そりゃそうですね。逆にしたらしんどいわけですよね。

奥井 そう(笑)。

―それだけ乗務する人にとっては、過酷な路線だったわけですよね。

奥井 そうそう。あれはもう、苦しかったと思いますよ。

―ええ、毎日毎日大変でしょうね。

奥井 (トンネルの入り口で)テントを巻き上げる人まで要ったわけですから。

―窒息しますからね、冗談抜きで。

「よみがえる総天然色の列車たち第2章2 蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その2)へ

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「走れ!新幹線」 NHK BSプレミアムで動輪堂製作協力の番組を放映!


動輪堂の新作が不定期で放映中。「走れ!新幹線」。2014年9月放映のNHK-BSプレミアムの東海道新幹線開業50周年特番「まるごと新幹線」で集めた映像素材を元に30分番組4本を製作しました。夜中から明け方の時間帯の隙間を埋める「フィラー」と呼ばれる種類の番組で、ひたすら新幹線が走るだけの内容です。

しかし、見応えは充分! 特番では未使用だった映像や、ちらりとしかお見せできなかった映像を、これでもかと放出した怒涛の30分です。

何しろひたすら新幹線が走りまくるわけですから、好きな人にはたまらない中味です。しかも0系からW7系までの全形式が登場。

たっぷりとお楽しみいただけることでしょう。

初回の放送が決まりましたのでここにお知らせしますが、

以降も不定期に深夜~早朝の時間帯で何度でも放送される予定です。



<放送予定>

『走れ!新幹線』(NHK BSプレミアム 30×4本)


☆タイトルと再放送予定☆

★(1)懐かしの0系 <2017年5月16日(火)午前2時30分~午前3時[月曜深夜]

(2)車両アラカルト0系~800系 <5月17(水)午前2時30分~3時[火曜深夜]

★(3)車両アラカルトE1系~E7系・W7系 <5月18日(木)午前2時30分~3時[水曜深夜]

★(4)空から見た新幹線 <5月19日(金)午前5時00分~午前5時30分


「鉄道博2015」

2014年1月10日(土)~12日(祝)の3日間、 大阪ビジネスパーク円形ホール「鉄道博2014」に出展します。
   「鉄道博2015」の情報はこちら
  
http://www.tv-osaka.co.jp/tetsudou2015/

 
12月21日発売の最新作「よみがえる総天然色の列車たち第2章21蒸気機関車篇<中篇>」税込定価4,104円が税込3,000円、
その他の4,104円~5,616円の全商品は一律税込2,000円(4枚目からは1枚+1,000円)など、動輪堂商品を大特価で販売します。

 その他、最新作「蒸気機関車篇<中篇>」他4作入り福袋4,000円、
 昨年大好評のつかみ取りも2,000円(商品お買い求めの方は+1,000円)で実施予定です。


奥井宗夫のむねのおく 2-21

「よみがえる総天然色の列車たち第2章21

蒸気機関車篇<中篇>」のむねのおく(その3)

―それで、中央本線ですね、C12の話がありましたけど。木曽福島区のC12が上松で、いつも1両来てやってるんですよね、入換えを。

奥井 はい。

―上松といえば、木曽森林鉄道の起点で。

奥井 あれは行きたかったんだけどね。チャンスがなかった。山に登ってしまうから。

―保存用ですけど、赤沢森林公園に行ったら、まだかろうじて面影を感じる……。結構長い距離を1キロぐらいかな、走るんでなかなか楽しめますよ。周辺には色々と廃線跡や鉄橋も残っているし、車両もたくさん残っているんですよね。あのダイヤモンド煙突の……。

奥井 ボールドウィン?

―はい。ボールドウィンも自走はしないけど、とりあえずアントか何かで引っ張って、動かしてくれたこととかあったんですが、散髪屋の車とかの保存車両のことなどを思い出しながら、中央線のフィルムを拝見していました。しかし、やっぱりデゴイチですよね、中央西線は。

奥井 西線となると、やっぱりデゴイチを撮る。

―寝覚の床の場所は、結構名所ではあるんですけども。

奥井 はい。

―車窓からも見えるし上からも見えるんですけど、あそこは、断崖沿いを鉄橋ですり抜けています。

奥井 あそこは撮りにくいですよ。景色はいいんだけどね。

―はい。あの撮影は塩尻から同じ日ですか。

奥井 同じ日です。

―天気が良くなっていくんですね。昼から午後にかけて。

奥井 はいはい。

―ちょっと読み方がわからなかったんですが、臨時の旅客列車が出てきて、「木曽路D51号」(きそじでごいちごう)か(きそじでぃーごじゅういちごう)か判らないんですけども、この頃にはもう旅客列車は……。

奥井 なかった。

―だいぶ早かったんでしょうか。旅客列車がなくなっていったのは。

奥井 1年ぐらい前と違うかな。

(編集注:中央西線の蒸気機関車牽引の定期旅客列車最終日は、多治見―名古屋間が昭和41年6月30日、中津川―多治見間が昭和43年9月30日、塩尻―中津川間が昭和46年4月25日。奥井さんの撮影は昭和46年秋)

―ああ、そうですか。

奥井 うん。だんだん追いつめられていました。

―今回登場しないんですが、別の巻(7巻国鉄ディーゼル篇<前篇>)ではここを走っているキハ181系の「しなの」が既に活躍中の時代ですからね。

奥井 そうそうそう。それにキハ91系。誰も撮っていないです。

―その辺は「第2章7国鉄ディーゼル篇<前篇>」でご覧いただけますね。今回は温存していた中央本線のデゴイチの方を紹介しますが、七尾線でもC58にC11、C56とバリエーション豊かに出てくるんですが、どれも旅客列車は臨時列車です。

奥井 旅客列車はもうなかったですね。

           

―七尾線の「おくのと号」は如何でしたか。

奥井 客車が良かったですよ。半室お座敷で、半室食堂にしていました。

―その食堂は営業していたんですか。

奥井 営業してたんです。

―乗られて、何か召し上がったんですか。

奥井 はい。和食のカウンターでおでんみたいなのを……。

―はあ、よろしいですなあ!

奥井 よろしいですよ!

―この列車は金沢発でしたね。奥井さんは羽咋から乗られたんですね。

奥井 ええ。

―羽咋で「おくのと号」の到着を撮られてますね。そのあと和倉で降りられてますが、列車は能登線の珠洲まで行くんですよね。もし珠洲までおでんを食べながら飲んでいったら、出来上がってしまいそうです(笑)。

奥井 そうですそうです(笑)。だから早く降りたんですよ(笑)。4両繋いでいるし、お客さんも結構乗っているんだけれど、食堂のお客さんというと少なかった。

―はあ。あれなんじゃないですか、蒸気機関車を目的に乗る人は、飲みながら乗るなんてことは……(笑)。

奥井 でも、撮りに行く人もそんなにいないんですよ(笑)。しかし、いい列車でしたよ。オハ35系がほとんどだったけども、その食堂、改造食堂だけはスロぐらいの改造やったな。(編集注:スロフ53形の改造車)

―このために改造されたものなんですか。

奥井 と、思う。だから良かった。なかなか。

―そのあと、どうなったんでしょうね。

奥井 あれ、どうなんたんかな、あれこそ使いようがなかったと思う。

―で、そのあと、車で追っかけて、シゴロクの貨物を撮られていますよね。

奥井 うまいこと、タクシー来たんですよ。「おい、ちょっと待てー」ってな感じで停めて(笑)。

―タクシーで、付け移動ですか。追っかけで(笑)。

奥井 もう、しょうないですよ。そうなったら(笑)。

―当時、そういうSLを追いかけるようなお客さんは他にもいらしたんですかね。タクシーの運転手としてはどうだったんでしょう。

奥井 上手かったよ、だけど。

―ピッタリと(笑)。

奥井 「もうちょっと前、もうちょっと後」(笑)。

―(笑)

奥井 「もうちょっと早よなんないかな」(笑)。

―(笑)

奥井 「もうちょっと前に回ってくれ」(笑)。

―そういえば思い出したのですが、上田交通のフィルムで、NHKのワゴンが付けて走ってましたよね、奥井さんが乗ってる電車を(笑)。

奥井 あれと一緒(笑)。

―危ないことしてね(笑)。

奥井 あんな危ないこと……(笑)。

(編集注:機材車の屋根のキャリアに乗って、命綱無しで撮影していた。「第2章10ローカル私鉄篇<前篇>に収録)

―タクシーの中では危ないことはなかったでしょうけれど。ピッタリと付け移動しているので、お友達と行かれていたと思っていたのですが、この時はタクシーだったんですね。

奥井 ひとりだけです。

―それでまた、七尾機関区へ行かれて。当時というのは、割とどこの機関区でもポッと入れたんですね。

奥井 もう、ホントに自由に入れて。

―そうですね、一言断れば、ですね。

奥井 しかもディーゼルの入換えまで撮ってるもんね。

―はいはい。なんかその、小さなあの程度の規模の機関区であっても、入換えをして、ターンテーブルがあって、すごく華やかなんですよね。

奥井 そう言えばこの間、伊賀上野のケーブルテレビかなんかがね、関西鉄道の番組をやってました。

―えー、そうですか。

奥井 ええ番組やったよ。

―それはすごいですね。

奥井 崩れかけたターンテーブルを映してました。

―それはどこにあったターンテーブルですか。

奥井 柘植の駅です。今の構内の様子も良かったね。それと古い伊勢新聞なんかも出してきてね。うまいこと、まとめていました。いいフィルムでした。僕と同じ年の頃の人が撮った蒸機の写真、良いのがたくさんありました。

―なるほど。手をかけて作っていたんですね。それにしても、蒸気機関車篇の前篇は本線系の大型機がまだまだ活躍してた頃のフィルムで、今回の中編はどちらかというと関西本線・紀勢本線以外の各地では蒸機が無くなってきた時期になってきている頃という内容です。

奥井 だからよう解る。

―C56であるとか、C58であるとか、そっちがクローズアップされてくるようになってきているんですね。

奥井 僕としては、シゴナナは撮ってあるわけだから、そこらへんに目が行っちゃうんですね。だから、七尾線も突っ込んで行った。突っ込んで行っといて、よかったと思いますよ。その代り、信楽線なんか、よう行かんかったけどね。信楽線、全然行ってないの。あれ、残念やわ。

―近かったのに、残念ですね。

奥井 あそこのC12あたりなんか、撮りたかったわね、ほんと。

―はい。

奥井 もちろんシゴハチの時代もあったんやけど、それも行ってないし。ま、ちょっと遠かったんだな。

           

―でも、逆に頑張って、あの、会津若松までは行かれました。

奥井 あれは友達と一緒の慰安旅行を、一人だけサボったんです。

―(笑)

奥井 朝の4時にタクシーを呼べって言うて。

―というパターンですね(笑)。

奥井 うん(笑)。で、駅まで走ってもらって。それで撮りにいたんです。

―ちなみに、どこで別れたんですか。

奥井 東山温泉で別れてね。会津若松の奥座敷ですよ。そこからタクシーで駅まで行ってもらって。

―近いところまで来ていたんですね。

奥井 で、あれだけ遠征したわけです。

―じゃ、まずは日中線に乗られたと。朝。

奥井 そうそうそう、朝。一番で日中線に行って。

―はい。

奥井 男女がね、あれだけ車輌に分かれて乗ってるとは思わなかってね。ビックリした!

―それはどういうことですか?

奥井 男女席を同じゅうせず、ていう。そういう関係でしょうね。

―要するに、朝の通学……。

奥井 パカッと分かれている。

―何となく、あっちの学校は、男子はこっち、女子はこっちみたいな、だんだん分かれるのが習慣になって、別の車両に乗っているという感じです。あれはびっくりしちゃった(笑)。

―うっかり、女子の方に乗ってしまったとか(笑)。

奥井 はじめ乗って、なんか雰囲気がおかしいなと思って、すぐに男の方へ行って……(笑)。

―あ、移動したんですか(笑)。別に言われてないし、そのまま乗っててもいいんですけども。

奥井 そうそうそう。で、行きは熱塩まで行ってしまってさ、帰りは、上りは貨車の入換えをしながら帰って来るんです。

―はい。

奥井 やっぱりちょっと時間かかったし。楽しみましたよ。

―上り列車のフィルムって全然なかったですよね。

奥井 上り列車のフィルムって、とてもとても。お客さんで一杯だから。だから全然撮れませんでした。1日3便の列車でしょ。あれで皆、よう学校へ通ってたんだなあ、と感心しましたよ。ほんとに。

―それでフィルムがないんですね。そのあと、会津若松運転区に行かれた。

奥井 そうそう。同じ日です。その時にしか、行ってないもん。戻ってきてから会津若松運転区をちょっと撮って、それで帰ってきたんだわ。

―なるほど。僕が勝手のコメントを書いたんですけども、いわゆる蒸気機関車がいよいよ無くなるぞって言うんで、この時代には学校の教材にもなってきた、という風に(笑)。小学生が運転区に写生に来てるっていう、多分地元の子どもだろうと思うのですが、そんな微笑ましい姿があって、なかなかいい。大きな運転区ですしね。

奥井 大きくなっているでしょうね、あの人らも(笑)。

―もう、50代(笑)。

奥井 なんでしょうねえ。すごいことだなあ。

―それにしてもその、無くなりかけてはいるんだけれどもまだ蒸機がバリバリ現役の、丁度そういう時代じゃないですか。

奥井 そうですな。

―まだ末期でもないし、その辺の時代のフィルムなんですけども、全体をご覧になっていかがでしたか。

奥井 もうちょっと行きたいところはいっぱいあるんだけれども……。

―ま、言っても、毎度毎度の話になりますけども、お仕事柄(笑)。

奥井 ギリギリ動いています、仕方ないです(笑)。

―平日は近くで撮るか、野菜の箱の中にカメラを忍ばせて近くで撮るか、あと遠征するのは週末か年末年始で、というところで……。

奥井 なんせフィルム代が高かったもの。

―もう一つ蒸気機関車篇が続きますので。ここで何が見られるのかは楽しみにしていただくとして。今回も私自身、作りながら非常に楽しませていただきました。ありがとうございました。

奥井 意外と楽しめたと思っています。私。

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