奥井宗夫のむねのおく 2-22
「よみがえる総天然色の列車たち第2章22
蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その1)
―今回で22巻、奥井さんの作品集、一旦、最終巻ということになります。蒸気機関車篇の3本作った3本目です。
奥井 結構、見ごたえあります。
―今回、奥井さんが改めてごらんになったところで、一番のポイントはどんなところですか。
奥井 やっぱり、専用線二つ。
―ほうほう。
奥井 スチールでは値打ちないけど、あの頃は皆カメラ持ってないし、(映像が)あーやって動くと値打ちあるなあ。
―はいはい。
奥井 やっぱり、動く物は貴重だわ。もうちょっと、撮っときたかったんだけどな。
―石原産業さんに聞くと、ときどきそういうフィルムがないかっていう問い合わせが来るんだそうですけど……、
奥井 うん。
―ありませんって答えるらしいんで(笑)。石原産業の人に言っておきました。今度からウチに連絡ください(笑)。
奥井(笑)
―最終日のフィルムがでてきますけども、結局工場と塩浜の駅を行ったり来たり……。
奥井 そうそうそう。
―しているわけなんですね。見学に来た人を機関車に乗せたり……。
奥井 そうそう。あのフィルムの通りです。
―なるほど。
奥井 お祭りみたいなもんやったな。最後はな。
―工場の中だけでなく、いっぱい外からも……。
奥井 外も中もみんな盛り上がっていたよね、みんな。まだあの時はマニアが少なかったのに。
―まだ、1968年、昭和43年ですから、いわゆるSLブームには……。
奥井 ちょっとほど遠いね。
―ま、追っかけてる人は追っかけてるという頃で。まだまだいっぱいあちこちで見られたから……。
奥井 そうそう。東芝にも1台いたし。
―はい。
奥井 僕は、あそこに行きたいなと思ったんやな。小名浜に。
(編集注:小名浜=小名浜臨海鉄道、現福島臨海鉄道。いろいろ謂れの多い蒸気機関車が在籍していたが、最後は旧国鉄のB6形であったC508<2120形2256、昭和38年廃車>・C509<2120形2256、昭和41年廃車>が活躍していた。廃車後、昭和41年に2台とも解体された。)
―小名浜。
奥井 あそこは行きたかった。でも、「行っても奥井さん動かへんよ」って言われた。
―平に行った時に、行きたかったけれど行けなかったという話の所ですよね。
奥井 そうそう。東武にも一回行って失敗したからね、完全に。もう、蒸気機関車はなかったんよ(昭和41年に全廃された)。
―はあ、そうですか。キットソンとかね、あの辺が……。
奥井 ネルソンとかキットソンとか、あれよかったよ。罐は良かったんやけど、いざ走り出すと、もうガッサン、しばらくしてガッサン、何ともしようがなかった(笑)。
―確か、あまりにも哀れでフィルムを回さなかったって、以前言っておられましたね。
奥井 うん。ありましたね。
―でも、割とこの石原産業の蒸気機関車は、状態がよかったんですね。
奥井 良かった。最後まで良かったですね。
(編集注:昭和41年7月に国鉄長野工場で全般検査を受けていた。それからわずか2年で廃車されたことになる。)
―きれいにね、整備されているように見えましたけど。
奥井 尤も、そんなに飾りもなかったし。
◆ ◆ ◆
―今回はちょっと冒頭に西武山口線を持ってきたりして、そういう風なちっちゃい機関車から入ってみたんですけど、その西武鉄道の山口線ですが……。
奥井 あの、弁装置がよかった。アラン式でね。
―はい。
奥井 あれがいいから、やっぱり値打ちがあると思って、こっちも一生懸命撮った。
―まあ、何か変わった動きをしていますよね(笑)。
奥井(笑)
―どう説明していいのか、見ていただくしかないんですけど。
奥井 やっぱり、あれ、みんな見ていないからね。あれなんか、絶対見るべきもんや、と思います。
―カムみたいな感じで。
奥井 そうですね。大分位相をずらして、という感じがよう解ると思います。
―はい。非常に面白い動きをしています。
奥井 あれ、お守りするのは大変だったやろうなあ。
―言っても、実際に西武鉄道がその前身の川越鉄道とかの時代に蒸機を扱っていたというような人が、この時現役でいらっしゃるとは思えないので。
奥井 あれ、ようやったと思う。
―もう、手探りで……。
奥井 手探りだったのか、頸城から連れてきたんか……。
―ああ、そうかもしれないですね。技術指導を受けて。
(編集注:西武鉄道の運転士が蒸気機関車運転免許を取得するまでの間、機関車とともに頸城鉄道の運転士が西武鉄道に出向してきて、整備・運転に当たっていた。)
奥井 そこらへんが、やっぱりどこでも苦労してやってるんだと思うんですよ。
―はい。
奥井 シゴイチの最後の頃に、C51が全国で16両残っとるときに全部残せって僕が言ったら、国鉄の人みんなに笑わられて。
―(笑)
奥井 残しとくんが正解だったんだよ、実際。
―はい。
奥井 1両だけでは動かないもの。
―部品取りしながらやるしかない……。
奥井 あら竹のC11も部品取りになっちゃったけどさ。
―でも、この西武の山口線、当時のテレビ映画に出てきたりとか、よくロケに使われていたんですよね。
奥井(笑)
―あの、「ケンちゃんシリーズ」か何かで見たことがあります。
奥井 うんうんうん。
―でも、考えたらその頃って、まだ蒸機の復活運転が始まって間もない頃だったわけですよね。
奥井 そうそう。
―逆に目新しかった。
奥井 ま、強引に突っ込んで正解やったと思うんですよね。
―なんか、回り回って西鉄が球団を手放し、太平洋クラブになり、クラウンになり、西武ライオンズになるんですけれども、西鉄が手放したことが西武山口線を新交通に替える原因になっている、というところに感慨深いものがありますけれど。ご存知のように、新交通システムに替わってしまって、面影は全然ないです。想像がつかないぐらいですからね。
奥井 いっぺん行かないかんね。
―まったく面影がないですから(笑)。初めて乗る線、みたいなイメージしかないかもしれませんが。でも、いいところですからね、あの辺はね。
奥井 行ってよかったです、正解です。
―そしてもうひとつが、長島スパーランド。尾小屋鉄道です。
奥井 尾小屋は、やっぱり松阪が多少関係あったもんですからね。客車をあそこへ持ってったんですよ、2両。だから特に思い入れがあって、一回団体旅行抜け出して、撮りに行ったことがあります。
―あそこへ持って行った客車というのは。
奥井 三重交通松阪線の334と333の2両、行きましたからね。
(編集注:この2両は静岡鉄道駿遠線に譲渡され、同線のハ27・ハ28となった。尾小屋鉄道には、サ331・サ342・サ321・サ322・サ352・サニ403・サニ401の7両が昭和25~37年に譲渡され、同線のホハフ1~3・5~8となった。)
―この時長島で牽かれている客車というのは、井笠鉄道のホハ4と尾小屋鉄道のハフ1と2の3両を引っ張っていたわけですね。
奥井 ええ。
―井笠鉄道のものは、ローカル私鉄篇にでてきたあれですよね。
奥井 あれです。
―尾小屋鉄道もこのシリーズをよく見ていると、「国鉄ディーゼル篇」にチラッとワンカットだけ出てきます(笑)。
奥井(笑)。あそこはもっと撮りたかったけど、1日何便ですからね。撮れなかったですよ。
―それが逆に今回登場してきたわけですね。しかし、いくら鉄道100年の催しとはいえ、かなり大がかりなことをやっていたんですね。
奥井 長島さんね、一時ね、C51の225号機を保存しようという話があったんですよ。
―亀山の最後のシゴイチですね。
奥井 だから、保存してくれるもんやと思ってたら、逆に後になって一回、(長島スパーランドから)ウチに問い合わせが来たことがあったんです。「奥井さん、C51225はどこにいるんですか」と。―えっ!?
奥井 「もう、残ってないよ」って言ったんです。
―はい。
奥井 遅いですよ、何ぼなんでも。
―でも、国鉄じゃなくて、奥井さんとこに問い合わせが来るんですね(笑)。
奥井 国鉄探してないものは、ない(笑)。
―それにしても、鉄道100年記念の当時は、記念切手とかも出て僕も買いましたけど、これだけ大きなイベントをやったりして、それだけ大きなこととして捉えられていたということですよね。
奥井 そうですね。その鉄道100年記念切手の時には、シゴイチの動いとる写真ないかと言われて……。
―切手の図案用の元の写真ということですか?
奥井 はい。後になって、あったことに気付いたけれど、その時は、ないよと言いました。だからシゴイチの切手だけ、停まっている図案になっています。
―このシリーズの監修をお願いしている宮澤先生の写真も、いくつか切手になっていますが、それもまた、すごい話ですね。
◆ ◆ ◆
―しかし、そういう時期を境に、残り蒸気機関車全廃まで3年というところで、いよいよカウントダウンが始まる時期でしたよね。
奥井 はい。
―その亀山機関区・奈良運転所の機関車を中心に、奥井さんは撮りまくられています。この時期に。
奥井 もう、めちゃくちゃ撮ってますね。フィルム代がえらかったですよ、あの時は(笑)。
―(笑)。前回から引き続き色々出てくるんですが、SLの晩年の時期になりますが、一言でいうと、当時はどんな感じでしたか。
奥井 まあ、フィルムは(現像のために)ハワイまで送らなくなったんが助かりましたね。
―現像が国内で……。
奥井 東洋現像所が出来たもんですから。で、国内で出来るようになって。ハワイだとどうしても現像に25日もかかるのよ。それには参った。
―東洋現像所と言えば京都でしょ。今のイマジカですよね。それで1週間ぐらいで帰ってくるようになったんですか。
奥井 1週間ちょっと。何よりも、それで助かった。フィルムもね、ダブル時代と言って(フィルムを)入換えをせんならん時代があったんです。
―ひっくり返して半分ずつ使うやつですよね。
奥井 あれからうまく早いこと、スーパーに乗り換えたもんだから、よかったですね。
―乗り換えた当時のカメラは何を使われてました。
奥井 キヤノンの、重たいカメラやったなあ、EEEというやつ。ダブルで、それが兎に角面倒と思とった時に新型が出て。それでニコンのX3だったかな、3倍ズームに変えたんです。それで当たったんです。
―カメラがいいと、どんどん撮りたくなりますからね。
奥井 はい。
―そうやって、色々と撮られてるなかで、今回はシゴハチが結構……。
奥井 多かったですね。けど実際はね、期間も2~3年ぐらいかな、2年間ぐらいやったね。
―松阪方面に乗り入れてきてたのは、短いんですね。
奥井 はい。それで、DE10にすぐに替わるんかなっと思ったらこれが全然替わらずに、DE10は試運転の時に入ってきただけで、こちらには入らなかったですから。
―じゃ、その試運転に入った1回?
奥井 1回です。
―それを撮られているわけですか。
奥井 はい。それもね、C58とDE10と重連で入ってきて、それ1回だけですわ。
―そうですね、後ろにスロ62・スロフ62をつけて。
奥井 ちょっと重たいから2両で来とるんでしょ(笑)。
―なるほど。
奥井 しばらくすると、大体6両ぐらいしか牽かなかったですから。8両って言うのは、例外的です。
―もう、いっぱいいっぱいなんですね。それで結局12系を牽いて……。
奥井 ええ。主に臨時で12系だけですね。他の客車になると、全部シゴナナが牽いてましたから。
―はあ、なるほど。じゃあ、12系の時はシゴハチが牽くっていうのは、これは何故だったんですか。
奥井 客車が軽いですから。
―ああ、12系はスハ43とか比べると軽いから。
奥井 軽いんですよ。
―発電機を積んでても、尚軽いわけですね。10系と比べても。
奥井 そうそうそう。
―そうやって考えると、なかなか大した車両ですね。(笑)。
奥井 長さは長いし(笑)。
(編集注:車体長は、オハ61系・オハ35系が19.5m、10系が20.0mであるのに対し、12系は20.8mである。)
―なるほど。そしたら、運用の都合もあるけれども、シゴハチにはもってこいだと。
奥井 そうです、そうです。もうそのように、現場でも早くから決めていたでしょう。
―なるほど。信楽線・草津線の運用だけでは、手持無沙汰ですよね。役不足というか。
奥井 だから、ちょうどいい仕事やったと思うんです。
―なるほど。で、2年ぐらいしか入ってこなかった、そのあとはどうなったんですか、シゴハチは。
奥井 もう、一緒に無くなりました。
―ああ、最後の2年間ということですか。
奥井 はい、最後の2年間です。
―それとあと、奈良運転所のデゴイチですね。
奥井 あれ、うまいことこっち(紀勢本線)まで入ってくれました。もうちょっとね、混合列車を撮りたかったんですよ、ホントは。参宮線の伊勢市から向こう、鳥羽までの間は、混合列車がようけありましたから。それを撮りに行きたかったけれど、なかなか行く暇がなかった。
―伊勢市から先がパタッとない……。
奥井 ないですよ(笑)。あそこまで単車で飛ばしていくのはちょっと……。
―それは遠いですね。でも、デゴイチの、色々と装飾が見られるのがいいですね。動画で撮られているのは非常に珍しいと思います。
奥井 あの頃、みんな撮らなかったからね。高かったからでしょうね、フィルム代が。
―はい、動画はね。なんでこの時期、装飾をつけだしたんでしょうね。
奥井 結局、(SL)ブームですし、余ってきたのを次々、機関車を替えてきていますから。ですからああいう風に、どの機関車にも付けられるようになってきた。
―あれは、元々奈良にあったものですか。
奥井 奈良にあったものです。奈良の鹿。
―そうですよね。でも、「かもめ」があったり「ピース」があったり「つばめ」があったり、何か色々とあったんですね。
奥井 ええ。シゴイチの、あの3本スジもありましたからね。
―はあ、それは何のデザインですか。
奥井 あれはね、お召専用に使った機関車の印やったと思うんです。それと真鍮のところの磨き出しとね。
―はい。
奥井 あれも、たくさんあります。
―こうやって観ると、前に出た時にはそれほど思わなかった10系の客車が、今回、きれいだなあと思って。
奥井 意外ときれいでしたね。僕は、10系も35系もそんなに、気にはしてなかったですけどね。時々ちょこちょこっと1両だけ入って来ると、ちょっと嫌でしたけどね(笑)。
―そうそう、それは確かにそうですね(笑)。ただ、何両か揃って走ると……。
奥井 きれいですよ。
―臨時列車でデゴイチに牽かれて……。
奥井 もうちょっと活躍してほしかった車両ですね。
―見た目は、そのラインこそないものの20系に近い、前身みたいなものですから。
奥井 そうです。
―すごく美しい姿で、あの加太越えの大築堤を上がってくる……。
奥井 ええ。
―これは良かったですよね。色んな所でちょっと、色んな見え方がして。
奥井 もう12系だとね、加太へ行かなかったんですよ、僕ら。あ、12系かってね(笑)。
―加太越と言えば、一定以上の編成でしたら必ず補機が付いて行くんですけども、重連にはならないんですよね。
奥井 重連にはならないですね。後補機という格好で。姫路快速でもそうですから。あれもやっぱり、先に重連するとお客さんが煙にまかれるから。
―ああ!
奥井 で、どうしても後ろにつけますから。
―どれだけ窓を閉めていても、煙は入って来ますからね。
奥井 で、最後はトンネルで、遮断する幕を使うわけです。
―はいはい。
奥井 何とかかんとか押さえようとするわけですけど。それでも前の罐のは、まともに入ってきますよね。
―ええ、せめと言うことで、後ろにつけているっていう……。加太越えの基本スタイルは後補機だと。
奥井 そういうことです。
―これはデゴイチに限らず、みんなそうやって……。
奥井 みんなそうです。
―シゴハチでも重連は前についてっていうのは、なかったんですか。
奥井 なかったですね。荷物列車の軽い列車ですから。デゴイチは本務で、シゴハチを回送で持っていくときは前につなぐ。
―ああ、なるほどね。回送とかでね。
奥井 その時以外は、後ろですよ。
奥井 上りですと、(蒸機でも)前2両というケースが……。
―亀山行きでね。上り勾配の区間が短いから。
奥井 短いから、トンネル区間が下り(勾配)になっていますから。
―それが、いよいよDD51が付くようになって、前がディーゼルに替わっても後ろはデゴイチでという時期が来て、これはこれで感慨深いものがありました。
奥井 ま、撮っといてよかったな、と今になって思いますね。もう、ホントにアッと言ううちに替わってしまいました。
―はい。後にDD51が後補機でつくということもなかったんですか。
奥井 なかったですね、DD51は。もう、すぐに本務に入りましたから。両数も少ないし、前に本務についた方が自分(乗務員)ら楽ですから。
―ああ、なるほど。そりゃそうですね。逆にしたらしんどいわけですよね。
奥井 そう(笑)。
―それだけ乗務する人にとっては、過酷な路線だったわけですよね。
奥井 そうそう。あれはもう、苦しかったと思いますよ。
―ええ、毎日毎日大変でしょうね。
奥井 (トンネルの入り口で)テントを巻き上げる人まで要ったわけですから。
―窒息しますからね、冗談抜きで。「よみがえる総天然色の列車たち第2章22 蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その2)へ