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奥井宗夫のむねのおく 2-11


「よみがえる総天然色の列車たち第2章11ローカル私鉄・中日本篇」のむねのおく



奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。




―まずは静岡鉄道の駿遠線です。話には聞いていましたが、こうやってフィルムをじっくり観ることがありませんでしたが、この路線の奥深さと言うか、つくづく凄いなと思うのですが、如何ですか?

奥井 あれはほんとに凄かったですね。ナローというと、我々の感覚ではそう長距離の路線とは考えられなかったのですが、延々と乗っても乗っても……。

64.6kmというと、概ね伊勢中川から名古屋が66kmですからね。

奥井 4時間くらいかかったのかな。途中、休憩がありますからね。5分くらいあるんですよ。2、3回。

―トイレ休憩みたいなもんですね。

奥井 車内にトイレがないから。でも全線通してのお客さんはないからね。私ぐらいのもんですよ。

―この路線は昭和39年に間の区間から廃止になりましたが、それより以前の昭和37年に行かれているんですけれど、東海道新幹線と交差する所で、それが工事しているのがチラッと出てきますね。

奥井 駿遠と秋葉線に行って、帰りに静岡市内線のサヨナラのシーンを撮って帰ってきた時ですね。

―観ていると途中の新横須賀駅の所で、切り離した後ろの車両を人力で押して入換えをしているんですね。松本電鉄の車庫で、1人で出せたら出していいよ、という話がありましたが、これを観ると数人掛かりで押していて。豆相人車鉄道とかならもっと小さい車両でしたけど、軽便といえども大きいですからね。

奥井 しかし木造車ですから割に軽いんですよ。だから2人か3人いれば楽に押せるんですよ。

―それでも入換えは大変だから、一度構内を出た所で停めて切り離して、あとは押して戻すだけにしているということですね。

奥井 ええ。

―橋梁はほとんど木組みで、特に大井川の橋梁なんかは木造丸出しで、凄いですね。

奥井 良かったですよ。

―あれの架け替えの費用が出ないので廃止になったそうですが。

奥井 もつかもたんかというぐらい揺れましたからね。ワァッと思ったんですよ、乗って。ちょっとこれいいんかな、と思うぐらい派手な音がしましたね(笑)。

―相当ガタガタだったんですね。今の鉄道とは全く別の鉄道という感じですね。

奥井 ティンバートレッスルですね(笑)。

―アメリカ開拓時代と変わらないという……。一方の静岡清水線と好対照でしたね。

奥井 もう2、3年早く行くと良かったやろうなぁ。1000系ができる前に。しかしもうちょっと古いのも走ってましたので我慢はできますけど。

―東海道本線と新幹線を跨ぎ越す場所があるんですが、そこを外さずにちゃんと撮っておられますね。当然下を走るのが、今は0系と呼ばれているやつで、いいですね。

奥井 はい。

―次の遠州鉄道ですが、今ならまっすぐ北を向いて行くんですが、話には聞いていましたが、高架化以前の新浜松から東に向いて出発するんですね。何を思ってあっち向いて線路を敷いたかとも思うんですが、あれはやはり国鉄との貨物の受け渡しの関係ですか。

奥井 そうだと思いますよ。

―元々新浜松駅の開業の方が後ですからね。結果的にスイッチバックになったと。

奥井 はい。

―私はいつも、フィルムがどこで撮影されたかという検証作業をするんですが、この付近は昔の航空写真と見比べてもまあ、街自体の形が全く違っています。東海道本線は、高架化の時に新幹線に貼り付くように移転したのですが、当時は走る場所も違うし、東海道本線の浜松駅の向かいに新浜松駅があったのが、その場所は、今は浜松駅の遥かむこう。そればかりか遠州馬込駅に至るまでの区間とその北側の500m四方ほどで区画整理が行われて、全部地図が変わっています。貨物駅のあった辺りまで何も同じものがないという感じになっていて、びっくりしますね。辛うじて遠鉄浜松駅から先の所で廃線跡のカーブが残るくらいで。

奥井 (趣味で、踏破のために)今、東海道を歩いても、あの辺がややこしくてややこしくって、困ったですよ。

―一方で車両は案外当時のものが今も走っていますね。今は12分間隔ですが当時は11分間隔で運転していました。

奥井 地域の人にとっては便利な鉄道だと思いましたね。このあいだ静岡鉄道では時間延長をやりましたね。最終列車を遅くして、新幹線からのお客を受ける。あれなんかも大したものやと思いますね。両社は同じ日に撮影に行って、赤と銀の車両の色の対比を楽しみました。


   ◆    ◆    ◆


―同じ静岡の岳南鉄道は如何でしたか?

奥井 良かったですね! あれはもう最高でした。3両編成の列車が、のちに青ガエルの1両編成になったんですよね。あれは寂しくなりましたね。それでも動いていればありがたいと思いましたが。

―その青ガエルももう居てませんからね。しかしここも観ていますと、元小田急電鉄のデハ1600形や、元上田温泉電軌のデロ300形など奥井さんのお好きなED級の電機も。比奈駅では入換えの様子をつぶさに撮られていましたね。

―はい、電車が行ってしまうと次の電車が来るまでの時間が何とも仕方がなくて、つい撮り過ぎました。でもその時は嬉しいですからね。作業を見ていても飽きません。

―しかも早いですよね。停まったと思ったら次の瞬間にはポイントを切り替えて、もうバックしている。

奥井 機関士の勘がよっぽどいいんでしょうね。JRではとても考えられないようなスピーディーな転換で。それと良かったと言えば、吉原駅の構内で食べた鯵の天ぷら丼が美味しかったですよ。自社の食堂があったんです。場所は変わったけど今もやってるそうですよ。もう1回行きたいです。吉原には食べに行きたい所がいっぱいありますからね。「つけナポリタン」とか何とか。

―ミートソースに浸けて食べるんですかね。

奥井 らしいですよ。有名らしいです。この間東海道を歩いた時に行こうと思ったんです。でもつい駅で切符買って騒いでいたら時間がなくなって……。また行きたい所ですね。

―しかし去年、岳南鉄道の貨物が廃止になってしまいましたね。貨物で支えていた鉄道だけに……。

奥井 あとがちょっと気になりますね。


   ◆    ◆    ◆


―その親会社で、今回も色々と取りまとめてやってくださっている富士急ですが、当時から国鉄の車両がバンバン入って凄いなという印象です。165系に115系、それだけでもいいのですが、いわゆる旧国電が元気なんですよね。その辺りが狙いで行かれたのですか?

奥井 そうなんです。7000形のために行ったんですから。まだ動いてる時で良かったです。東京のファンの方が見ても喜ばれるフィルムになっていると思いますよ。

―一方で5000形が出てきた頃ですね。

奥井 あれが出てきたんで危ないという気がしたんで、何としてもと思って行ったんです。

―3100形も愛嬌があって、風情のあるいい形の車両ですね。観光目的も満たす車内のセミクロスシートの様子もよく撮られていました。それとモニ100形が出てきますね。赤く塗られた側面の。奥井 面白いですね。

―あれは当時広告スペースに使っていたそうなんですが、丁度契約期間が終わって取りあえず急いで塗ったという感じなんでしょうか。

奥井 そうでしょうね。あのモニ100が貨物を牽いたりもしたんですよ。


   ◆    ◆    ◆


―続いて豊橋鉄道ですが、ここもまた……。

奥井 バラエティー豊かですよ。電機もおりましたからね。

―経歴もとても書き切れないくらい様々で。

奥井 自社のものは1両しかなかったが、名古屋鉄道からのお古がいっぱい居るから、それだけに面白い所がありました。

―電車の方ものちに名鉄の車両に統一されて、その後それも全部入れ替わって、今は全部元東急の車両になっていますね。

奥井 もう今さら行く気はしないですね(笑)。

―老津駅のシーンが面白いですね。国鉄と違って側線が少ない中で、旅客列車の交換もしないといけないし、貨物列車の待避もしないといけないという……。

奥井 みんな努力してやってたんですね。

―そしていかにも渥美半島という風景の場所で走りを撮られていますね。事前の準備で撮影場所をしっかり決めてから行かれるんですか。

奥井 いえいえ、行き当たりばったりです(笑)。実は5万分の1の地図でおおよそは掴んで行きますが。―ああ、やはりそうですよね。

奥井 以前山登りをやっていましたから5万分の1はお手の物です。大体の勘で、ここら辺の直線で何時頃に行ったら大体お日さんはこっちから来るな、という感じでは行きますけどね。地図は私の趣味のひとつですからね。駅に着いたらあとはそこまで一生懸命歩くんです。

―見ていると、撮影しながら大体ひと駅歩いていますよね。パターンとしては。

奥井 大体何キロとか掴んでいますから。

―こちらも、どこで撮影したかというのが、奥井さんの行動パターンを想像しているとある程度目星がつくんです。あとはそれを裏付けていくという、現在の写真と共通する点はないかとか、グーグルアースやグーグルマップで照合したりとかという作業になるのですが、まずは奥井さんの行動パターンを読み切るということでして、これがまた面白いんですよね。お好きな方にはこの作業手伝ってもらえたらきっと面白いと思うんですけどね。


   ◆    ◆    ◆


―次に出てくるのが、奥井さんの地元である三重交通の松阪線です。凸型の電機が客車を引っ張っていますね。

奥井 撮影する2,3年前までは凸型電機も上半分がクリーム色のツートンカラーだったんです。

―ということは、客車と色が揃っていたんですか。その客車ですが、サニ421形とか……。

奥井 サニ421形とサニ411形は北勢線のお古だったんです。サニ401形というのが中勢鉄道のガソリンカーだった車両で、1両はそのまま松阪に来て、もう1両は近鉄の法隆寺線を経て、松阪に来ています。

―あの法隆寺線ですか。平端から法隆寺まで走っていた……。

奥井 あれこそ、乗りたかったんですけどねぇ。

(編集注:法隆寺線は、昭和202月運転休止、昭和274月に廃止されている)

―その客車が電機に牽かれたり、電車に牽かれたりして。デ61ですか、その後ろにくっついたり……。

奥井 それと11往復は混合列車で、ワが1両最後についたり、稀にはトムがついたりして。車両数は少ないけど、結構バラエティがありましたね。

―国鉄松阪駅の改築工事も撮っておられますね。

奥井 記録ということで。

―三重交通松阪線の松阪駅も出てきますが、バックが少しずつ変わっていて……。

奥井 三重交通松阪駅のバックに、国鉄天王寺管理局の松阪の管理部が、我々は松管と呼んでいましたが、ありましたので、バックは大きかったですよ。

―その松管が三重交通のバックに立っていた。

奥井 いえ、松管は今の第三銀行が立っている場所にありました。

―じゃ、松管は関係なくて、バックには今の松阪駅が立っているんですね。それも少しずつ変わっていって。

―(松阪線の映像を見て)大きな駅と思った駅が、途中の茶与町駅ですね。

奥井 地主さんが(松電に)土地を贈って、駅ができたんですよ。その地主さんがお茶屋さんだったので、そのお店の名をそのままとって茶与町駅と名付けられた。

―(松阪駅の)駅前広場には現役のボンネットバスも映っていて時代の移り変わりがあって、最後に(三重交通松阪線松阪駅)の解体清祓いの儀式が出てきます。

奥井 その日は、あまり撮って(いる人は)いないですね。


   ◆    ◆    ◆


―それから同じ三重県の三岐鉄道も出てきます。こちらの見所はどこでしょうか。

奥井 やっぱり、標準型の電機ですかね。貨車も標準型になっていて、それだけ貨物(石灰石やセメント)が多いということで、あれが動くと、藤原岳の山容も変わってくる(笑)。

―貨物輸送が盛んですから、他の鉄道よりも一つ格上の鉄道だったんでしょうか。

奥井 山を切り崩している一方で、山の保全も大切に行っている、しっかりした会社だと思います。

―旅客輸送の電車の方ですが、今は近鉄富田に発着していますが、撮影当時は国鉄の富田駅にも発着していたんですね。

奥井 昔はディーゼルカーが走っていたんです。あのころは、たしか国鉄四日市まで乗り入れしていました。ノッチを入れたな、と思ったらすぐにニュートラルに戻してしまって、あとは惰行で走っていましたね。

―なるほど。そして国鉄富田の方が本線なのに、近鉄と国鉄の列車本数の比率から見て、近鉄富田に乗入れる本数を増やして国鉄富田に行くのをやめてしまったんですね。しかし、近鉄線の高架の下に富田西口の駅があって、そこに停車する電車をちゃんと撮っておられますね。それから、今は西武系の電車が走っていますが、当初は豊川鉄道の電車が入っていたんですね。

奥井 まとまって休車になっていたのを持ってきたんじゃないですかね。1形式1両のような車両も多くありましたし。

―そのあと、これも今はないのですが、クハ210形とかいわゆる自社車両のモハ120形とかが出て来た……。

奥井 あれはいい車両でしたね。モハ120形はほんとによかったです。

―これはのちに琴電に行ったんですね。次回(「ローカル私鉄篇後篇」)にタイミング的に出てくるかどうか楽しみですが、この頃は今と違って、中小私鉄同士で車両のやり取りがあったんですね。

奥井 そういう時代やったんですね。


   ◆    ◆    ◆


―さて、次は近江鉄道なんですが、何回も足を運ばれていますね。

奥井 松阪の著名人、本居宣長の一族が近江日野の出身であり、また(松坂を開いた蒲生氏郷が)近江から商売人を引き連れてきています。今でも多賀講などで多賀大社へお参りするなど、近江とはいろんな行き来があります。そんな関係で何度も訪れています。

―これは1980年代でしょうか、フィルムを見ていますと、京急があったり小田急があったり……。

奥井 あの頃はいろんな会社の車両が入っていて、バラエティに富んでいましたね。

―武蔵野鉄道(これは西武ですが)や伊那電もありますし、面白いのは京急の車両が西武カラーを纏って走っているんですね。

奥井 最初に行った頃は、蒸気動車を改造したハニが走っていましたね。

―工藤式の蒸気動車ですか。

奥井 台車は電車のものに履き替えていましたが、前に(機関室の)ドアがついていまして、まるっきり蒸気動車の姿でしたね。

―それと電気機関車がすごいですね。

奥井 (撮影のために)駅で待っていると、次から次へと来るんですよ。しかも、あれ!違う、形式が違う!(笑)

―その中でも、入換えに使用されていたED31が変わった顔をしていて、何で窓が小さいのでしょうか。

奥井 見当もつきませんね(笑)。しかし、結構スピードを出して走っていたんでしょうな。

―しかし、戦時構造でもないし、防弾用に窓を小さくした訳でもなさそうだし……。

奥井 でもないですね。ガラスが貴重だからという理由でもあんなに小さくならないですし……。

―不思議な顔をした電気機関車でした。貨物はどこでも(当時)盛んでしたが、郵便荷物車が元気で走っている時代でもあって、しかも近江鉄道では近年まで走っていたんですね。

奥井 車両を改造して走らせるほど、郵便の取扱量が多かったのでしょう。近江商人や日野商人たちの多くは近江鉄道の沿線の出身です

から、それだけ多くの郵便物が流通していたからだと思います。

―(近江商人たちの出身地は)本来、(中山道などの)街道筋にあるのに、国鉄が通らなかった所ですね。

奥井 そのため、近江の豪商たちが自分たちで鉄道を造ったので、開通時期も割と早かったです。

―それで、郵便荷物事業の必要性も高かった。

奥井 他の鉄道よりは、はるかに高かったと思います。

―需要も高かったので、長続きしたのでしょうね。かつて、国鉄が通らなかったと言って造られた鉄道の多くが長続きしませんでしたから。

奥井 やはり、中山道の影響も大きかったのだと思います。街道筋にあるので、需要が多かったのでしょう。格が一つ上ですね。

―なるほど。街道の影響があるという視点には気付きませんでした。奥井さんは街道にも造詣が深いですからね。

奥井 街道を歩いていると、面白いですよ。

―あれだけ古い車両などを保存している、古いものを大事にする近江鉄道の気風というものは今も残されているんですね。

奥井 あれは大したもんだと思います。もうちょっと儲かっててもいいと思うのですが、なかなかそうはいかないようで。あの、日野駅の駅前にはあまり家がないんです。1キロほど離れたところに家が密集している。不便なところです。

―八日市から貴生川にかけては、確かに何もないですね。結局、八日市から貴生川に線路を伸ばすとき、線形の関係でそこ(日野駅周辺)を通らざるを得なかったのでしょうか。

奥井 そうでしょうね。ですから、線路を敷くのは難しかったと思いますよ。


   ◆    ◆    ◆


―さて、富山地鉄が最後になりましたが、この時代はいかがですか。

奥井 ちょうど名鉄のお古が入線したところで、色のバラエティが出来ましたので見に行こうかと。もちろん名鉄のキハ(北アルプス)も入っていましたので、「それっ!」と撮りに行きました。山にはよく行っていましたので、昔からなじみのある私鉄でした。

―名鉄の車両と言いますと、モハ14710形とかですね。

奥井 それと、凸型の電気機関車でいいのが一つあったんです。それを撮りたかったんです。

―ほほう。

奥井 クリーム色と灰色の変な色でしたけど、電気機関車そのものはよかったんです。それを撮ろうと思っていたんですが、撮れなかった。

―名鉄の北アルプスと交換しているのは、モハ14710形、元名鉄のモ3800形で、名鉄色ではなく紺色と白帯に変わっていますね。シャキッとした色になっている。

奥井 だから、ちょっと気がそられたんです。

―その一方で、丁度モハ14760形がデビューしたころです。今に至る、富山地鉄オリジナルの顔のような電車ですが、いろいろ変わった電車も多いですね。

奥井 山登りをしていたころは、古い電車ばっかりやったんです。それが、ちょっとずつ変わっていましたんで、山に登らんと電車を撮りに行った。昔、人があまり行かなかったころに剣岳に登ったこともあります。

―剣岳ですか! どこから登ったんですか。

奥井 立山砂防ダムの工事用トロッコを横に眺めながら、美女平を経て、歩いて登って行きました。

―下から歩いて登ったのですか。

奥井 高校の頃に、「連れてったるから来い」と言われて行きまして、登山というものを教えてもらいました。

―初めて登った山が剣岳ですか。

奥井 そうです。手取り足取り、山の登り方を教えてもらいました。で、登った後は宇奈月の方へ下りまして、トロッコが乗るくらいの大きなエレベータで200mほど下に降りました。

―トロッコが載るようなエレベータですか!?

奥井 トロッコを載せて上に上がって、上部のトンネルで荷物を運んでいたんです。途中で高熱地帯があるので鉄のトンネルになっていました。

―今もあるんでしょうか。

奥井 あると思いますよ。荷物はもう運んでいないと思いますが。人用のエレベータもありますが、トロッコが載る大きいものは5分ぐらいかけて昇降していました。そういうルートを通って、宇奈月まで降りてきました。

(編集注:黒部第四ダムへの物資輸送用の関西電力黒部専用鉄道、いわゆる上部軌道と下部軌道、現在の黒部峡谷鉄道のことで、欅平にトロッコを直通させるための専用エレベータがある。上部軌道の途中にある高熱地帯は、コンクリートで覆われて冷却水を通して温度が下げられている。この高熱地帯のその周辺に付着する硫黄のために、蓄電池機関車によって運行されている。現在も黒部第四ダム物資輸送のために運行中。)

―それで、富山地鉄の撮影は後の方になったんですね。名鉄のキハ8000も国鉄特急色になっていますし。

奥井 (山に通っていたので)位置関係は分かっているんですが、なかなか撮りに行けなかった。で、橋を渡る電車をちょいちょい撮っていった。

―常願寺川の鉄橋と言えば、富山地鉄沿線で一番の、荒々しい川で見ごたえのあるところです。さすが、狙うところは狙いに行っておられるな、と。

奥井 だから、(常願寺川の)古いクラシックな看板を撮ってある(笑)。もうちょっと丁寧に撮りたかったけれど、如何せん相手が大きすぎた(笑)。

―しかし、富山地鉄の車両もバラエティ豊かで面白くて……。

奥井 面白いでしょ。あれだけ(車両の種類が)ありますから。

―今となっては、富山駅に新幹線の駅構造物も出来てきて大きく変わってきていますので、貴重な映像です。貴重といえば、射水線も撮っておられますね。

奥井 僕が行く直前まで、(デハ5010形が)3重連で走っていたんです。行ったときはもう重連しか走っていなくて、がっかりしたんですが、それでも撮っておかなくては、と撮ったんです。

―3重連が走っていたころと言えば、高岡市内の万葉線とまだ繋がっていた時ですね。富山新港整備のために路線が分断されてしまいましたが、もし今も繋がっていれば、福井鉄道と同じように国鉄のライバル路線として活躍していただろうな、と想像できます。

奥井 駅でも大きくてしっかりしていたんですよ。最盛期は素晴らしかったと思います。

―編集していて、射水線は今回のラストシーンにふさわしいと思っていましたが……。

奥井 うまいこと(富山市内線と射水線の)乗入れ線も撮っていたでしょ。あれは、もう誰も知らないですよ。

―以前、北陸本線と高山線を撮り歩いていて、そこも通ったのですが全然気づきませんでした。あの場所を電車が通っていたなんて、感慨深いものがあります。

奥井 貴重なワンカットやと思います。


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