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奥井宗夫のむねのおく 2-12

「よみがえる総天然色の列車たち第2章12ローカル私鉄・西日本篇」のむねのおく(その2)




「よみがえる総天然色の列車たち第2章12ローカル私鉄・西日本篇」のむねのおく(その1)へ




―次の土佐電気鉄道ですが、路面電車篇で市内線の様子が出てくるとして、ここでは安芸線を紹介します。

奥井 ここはね、やっぱりクハニ(校正段階注:インタビュー発言の「クモニ」から訂正)が走っているところを撮りたかったの。ところが全部車庫へ入っていたりして、ダメだったけど。

―クハニ3500ですね。関東鉄道あたりに出てきたようなタイプですね。神中鉄道とか。

奥井 そう。貨物輸送が終わった後に行ったから、そこだけちょっとつまらなかったかな。でも、市内電車(600形)の3両連結が見られたので、良しとしなけりゃならない(笑)。

―それが2番目の狙いだったんですか。軌道線用の電車が3連で走ってきて、郊外の鉄道線へ入ってくる……。

奥井 路面電車用の低いホームが鉄道専用の高いホームとともにあるところは、広島とここしかなかったでしょ。

―路面電車タイプの600形が3連で物部川を走ってくる様がいいですね。

奥井 ザブザブ川に入って、撮りに行きました(笑)。

―ここでも安芸線専用に、元阪神のモハ5000形、クリーム1色の電車がいましたね。

奥井 安芸線では、電車の待ち合わせの時間が楽しかった。出札口で、どんな切符が残っているのか尋ねて……。

―それで、何か手に入れられたんですか。

奥井 あそこでは、馬糞紙の往復の節約乗車券を買いました。

―馬糞紙!?

奥井 そうです。あれは明らかに馬糞紙やった。

―我々の世代では、馬糞紙がどんな紙かよくわからないんですが。

奥井 今はなんて言うたらいいんかね。馬糞紙には違いないんやけど。

―あの、粗雑な紙、材質の悪い紙ということですか。

奥井 昔、芯地に使ってたような紙なんですね。

―芯地!?

奥井 張り合わせの紙などの芯に使っていた……。

―強度を持たせるように真ん中に使っていたやつですか。

奥井 そうそう。その芯に使っていた紙を僕らは馬糞紙と呼んでいた。それをそのまま使った乗車券です。昔の鉄道省(国鉄)の硬券は、この紙を芯にして張り合わせて作られていた。

(編集注:馬糞紙=稲わらや麦わらをパルプの原料とした板紙。薄く漉いた紙をわら半紙、厚く漉いた紙を馬糞紙と呼んでいた。一般的に黄ボール、あるいは黄板紙などと呼ばれている。)

―上等でしたからね。

奥井 そういう切符です。

―なるほど、そういう切符を手に入れられたのですか。話を戻しまして、モハ5000、あの阪神の電車は、おしゃれですね。(土電だけでなく他社に行った元阪神も含めて)共通して言えることだな、という気がするのですが。

奥井 車体幅が狭いだけに、車内の雰囲気が和やかな感じがしますね。もちろん、そんなに混んでいないからそんな気がするんだろうけれど。

―先ほどの琴電(30形)にしても、見たことのないデザインで、非常に気になる存在で、いいなあと思うんですが。

奥井 そうですね。

―結局、安芸線も廃線になって、国鉄阿佐線の建設が進んで止まって、やっと近年、土佐くろしお鉄道のごめんなはり線ができたのが。それやったら、元のままでもよかったじゃないか、という気もします。

           

―四国でもう一か所出てくるのが、伊予鉄道です。ここは由緒ある、古い路線です。

奥井 昔は各社、違っていたんでしょうね、それぞれの生い立ちが。

―その中でも一番最初にできたのが高浜線です。この線は、解る人には解るし、言われたらなるほどな、と思うのですが、国鉄の方が上を越えている、よそとは逆なんですね。後からできた線がお金をかけて上を越えて、初めからあるほうが下を通っている、いかに伊予鉄のほうが古いかということがわかります。

―今でもあるんですが、平面交差が2か所あって軌道線と交差していますが、ここはきっちりと撮られていますね。

奥井 撮るべきところは撮らな仕方がないと、わざわざ行きました(笑)。

―また、一か所、路面電車が走っているのですが線路は鉄道線であるという、城北線も収録しています。この線で信号が変わるところも、ちゃんと撮られています。

奥井 あれも撮らなきゃ仕方ないです(笑)。

―撮るべきものをちゃんとわかって撮っておられる、と思いながら編集していました(笑)。そういう意味でも、ここは楽しい線ですね。

奥井 乗り鉄を兼ねて、終点までは行かな仕方ないです(笑)。

―横河原線は最後に電化されたところですが、前にここは電化前に行きたかったとおっしゃっておられませんでしたか。

奥井 ええ、行きたかったんです。でも、ちょっと無理やったなあ。自分の小遣いでは(なかなか)無理ですよ。だから、団体旅行でちょいちょい合間に撮影したところもたくさんあります(笑)。

―郡中線のあの鉄橋は、面白いですね。

奥井 ええ、あれはそう継ぎ足してあったのには、気づかなかったな。

―形が変わっていて……。

奥井 ああいう風に上を作り直したとは、ちょっと知りませんでした。

―軽便鉄道時代の、明治の中期に造った鉄橋をそのまま再利用する形で、電車を通すにはどうするのか、というところから始まった話ですね。そういう見方をすれば、鉄骨が細くて、いかにもひ弱な感じに見えるのですが、通過する電車のスピードはどうだったんでしょう。

奥井 わりに速く走っていましたよ。

―映像を見ていると、徐行している感じでもなく、案外飛ばしているな、と。よく古い橋梁ではあるような、駿遠線のそれ(大井川木橋)ではないですが、恐る恐る通る、という風でもなかったので……。車体がそれほど(重いわけ)でもなかったんでしょうね。

奥井 そうでしょうね。

           

―この巻にはいろんな会社が出てきて楽しいのですが、ここでまた海を渡って本州に戻り、広島電鉄です。

奥井 母が一時呉に住んでいたり、また伯母も呉でお茶屋さんをしていたりしたので、その縁で呉とはつながりがあります。その関係で呉や広島に行きたいと思っていて、その理由の一つに広電があったんです。

―軌道線は路面電車編で紹介しますので、今回は宮島線です。撮りに行かれて、宮島線はいかがでしたか。

奥井 あの時は、まだこれから伸びていく線だと思いましたね。

―それはどういう感じで……。

奥井 路線のカーブも少なかったですし、スピードも出していましたし、お客さんも割と乗っていましたので、まだ伸びていけると。

―そういう意味では日本を代表するLRTの路線になってきています。今や5両連結で市内線と直通して走っていますが、当時はまだ連接車が2500形だけで、あとは宮島線専用の車両、元阪急の車両などが単行で走っているような状況です。

奥井 解説を聞いて前歴を知ると、あれやこれがこうやったんかな、とわかりますから、やっぱりフィルムというのは大したもんだな、と思います。とにかく、来るやつは何でも撮っておかなアカン(笑)。

―荒手車庫前での映像を見ていますと、ちらっとですがバックの山陽本線を気になる列車が走ってくるんです。その辺の時代的なことが面白くて、181系か481系かは分からないけど……。

奥井 あれは481やろうか。

―ヒゲがあるかどうか見えればわかるんですが。

奥井 その辺はお任せします(笑)。

(編集注:ヒゲがありましたので、時代的に485系と思われます)

―国鉄末期の頃には駅を増やすわ、列車を増発するわで、宮島線に対抗してくるんですね。それであの辺はだいぶ変わったと思うのですが、それだけお客さんがいたということですね。住宅開発なども山側へ広がって、その辺の片鱗が良く見えている時代でしょうか。

奥井 そうかもわかりませんね。

―ホームも2段になっていて、市内線直通と宮島線用では停車する位置が違っています。

奥井 そうすると3社か、福井(鉄道)はどうやったかな。

―福井は、路面電車は郊外へ出ていかなかったので低いホームはなく、逆に郊外電車が市内に入った時はステップで対応しています。今は全部路面電車タイプになりました。

奥井 あーそうか、名鉄の車両が入ったんやったな。

―そして終点の西広島に着きますが、当時は宮島線が西広島、市内線が己斐と違う駅名でした。

奥井 あの辺もだいぶ変わったんでしょうな。

―ここ西広島と横川駅、広島港、以前は宇品と言っていた、がホント、変わりましたね。

奥井 百貨店はなくなったんでしょうか。

―西広島のビルはありますが、今はスーパーが入っているそうです。建物はそのままです。広電西広島は銀の大屋根で、グラスファイバー製だったか、丸い鉄骨が編み上げられたような形で、10mもあるかのような大屋根で覆われていて、線路が枝分かれするような作りになっています。広島駅も同じように枝分かれしていますが大屋根はありません。とにかくこの西広島と横川駅と広島港はすごいことになっています。さらに広島港の手前の軌道は、芝生軌道になっています。

奥井 行きたいなぁ!

―センターポールにもなっているし、ぜひ、行ってみてください。お勧めします。変わってきているといえば広島もそうですけれど、鹿児島(市電)も鹿児島中央駅前を中心に芝生軌道になっていまして、どんどん広げていってます。

奥井 そうそう、それを聞いてね、もう一度行きたいなぁと思っていて。前は団体を連れて行ったので、自分の身動きがほとんど取れなかったのでね(笑)。

―(団体で行くのは)一番ストレスがたまる旅行かもしれないですね(笑)。

奥井 今度は、おかあちゃんを連れて行かな。

―ぜひぜひ、奥さんと行ってください。また、熊本も駅前を整備して(市電の)線路を敷きなおして、前と違うところを走っています。

奥井 走ってますね。僕もこの前行ってみて、全然違うわ! と(笑)。

―あと、高知も、土電の終点が駅の手前で曲がったところにあったのを、直線で延ばして高知駅の軒先につけたんですが、高知駅が高架になって北側へ下がったので、さらに線路を伸ばしています。

           

―広島の路面電車編も楽しみなんですが、先に進みまして一畑電鉄です。編集をしていていつも奥井さんの撮影行程が気になっているのですが。

一畑電鉄へは急行「だいせん」か何かで行かれたのではないでしょうか。といいますのも、出雲大社前からフィルムが始まっているからです。

奥井 「だいせん」でしょうね。

―それで最近映画で話題になった電車が普通に現役で走っている。また、デハニ以外でもデハの20とか30とかも走っていて。

奥井 まだ、旧塗色の車両が居ったかなあ。

―台本を書いていて気付いたのですが、手動ドア車はあの色(オレンジに白帯)をしているんですね、パッとわかるように。それ以外はクリームに水色の帯で。

奥井 そうなんですよ。

―それは当時、鉄道ファンの間では常識だったんですか。

奥井 そうでもなかったですよ。実際行ってみないと分からない(笑)。

―では、知らなかったとしても不思議ではない(笑)。

奥井 と、思いますよ。それは、あそこの会社のルールがあるから。

―車窓に、のちに国道431号になる道路が横に並んで走っているのですが、当時は未舗装でした。他には大きな道路はなかったんですか。

奥井 なかったですね。

―宍道湖の北側のルートというのは……。

奥井 冷遇されていましたよね。

―逆に言えば、それだけ一畑電鉄の比重が……。

奥井 高かったんでしょうね。あそこは硬券が残ってたし、硬券の入場券があったし、楽しみな鉄道でした。

―忙しいですね(笑)。撮らないかんし……。

奥井 撮らないかんし、切符は買わなきゃいけない……(笑)。

―乗りたいし、おいしいものは食べないかんし、ですね(笑)。

奥井 その辺はわりに、落として落として(けずってけずって)しますよ。フィルム代が高くつくし(笑)。

―昨日、前回のインタビューの採録をしていて面白かったですよ。岳南鉄道の吉原の、アジの天ぷらの話が。

奥井 あのアジの天ぷら、もう一回食べたい。うどんの上にドンとのっているんですからね。

           

―そして次に、チラッと筑豊電鉄が出てきます。

奥井 軌道線も鉄道線も、乗れるところは全部乗ろうという気で行ってますので。あの時はどうしたのかな。乗り終わった後、国鉄の駅まで歩いたんやったかな。

―たぶん、筑豊本線で帰ってこられたんでしょうね。帰りの映像がありませんので。この線は、計画では福岡まで結ぶつもりで作られていて、そのために西鉄が別会社にしたんですね。ただ、自前の車両が1両もなかった。

奥井 あれは、喜んでいいのか、悲しんでいいのか……。

―結局、西鉄北九州線が廃止になった後、車両を引き取って自前の車両にしています。(映像を見ていますと)黒崎駅前が賑わっていますが、駅の場所も変わってしまって、この場所は駅前のロータリーみたいな感じになっています。

奥井 はー、なるほど、そうですか。折尾の駅前の鳥めしでも食べに行きたかったなあ。

―折尾の駅、この前封鎖になりました。

奥井 あー、聞いています。

―この前通ったら、折尾の駅自体、造り替えますからね。西鉄北九州線は、路面電車編でまとめて紹介します。

           

―九州ではこの後、島原鉄道が出てきます。

奥井 あの時は、鹿児島を午後4時頃出て福岡に戻ってきて、夜行に乗って長崎のほうへ向かったんです。

―のちに「ながさき」と名前が付いた列車ですね。

奥井 123列車やったかな。あの時、車内で病人が出まして、最初に、お医者さん乗ってませんか、と放送が入り、しばらくして今度は、どこそこで臨時停車しますから、と放送があって、病院へ運んだ、ということやったそうです。うつらうつらしながらそれを聞いていて、そうして諫早に行ったんです。諫早についたら、さっそく歩きました。

―当時の時刻表が手元にありましたので、それを見ながら奥井さんの行程を見ていたんですが、島原鉄道のすぐ横に諫早公園があって、そこに眼鏡橋があるんですね。

奥井 なんで公園の真ん中に眼鏡橋があるんやろう、と疑問に思ったんですが。

―本明川に架かっていたのを移設したそうです。それで、近くで列車を1本撮られて、そのあと本諫早から列車に乗ってそのまま加津佐まで行かれたんですね。

奥井 あれは乗り応えがありましたな。でも、鹿児島で乗ってからでしたので、くたくたでしたよ。

―往復されているので走りは最初の本諫早でのものしかないんですが、それでも島原鉄道の楽しさが伝わってきます。古い蒸気機関車時代の名残が、例えば本線上に灰落としのピットがあったりして……。

奥井 あーあれね、言われるまで気が付きませんでした(笑)。

―カメラが下を向いているからそれを撮っておられたのでは?

奥井 やっぱり気になって撮ったんでしょうね。

―国鉄に乗り入れるので、国鉄と同型のディーゼルカー、キハ26なんかがあって……。

奥井 (帰りに諫早駅で)ちゃんと本線まで撮っててよかったです。

―また、その帰りの列車の後ろにユニ200形を繋げているところも、いいですね。それが、あれをまた(南島原で交換した)貨物にも繋げているんですよね。

奥井 ええ。あれはどういう運用になっているんだろう。ちょっと疑問に思いますね。貨物はちゃんと動いていたんですよ。貨物を取っているのに、尚且つ、ああいうもの(郵便荷物車)が付いている。そのあたりが今になっても……。

―気になりますね。

(編集注:加津佐で上り急行に連結されたのはユニ200形。南島原で交換した貨物に連結されていたのはキハ250形で郵便荷物車代行運用)

奥井 まあ、ああして日本の郵政を支えていたわけなんでしょうね。

―そうなんでしょうね。一つ気に入ったのは、口之津駅で郵便局のワゴン車がバックでホームまで乗り付けて、ハッチバックを開けて下り列車を待っているんですね(笑)。ということは、国鉄の長崎行き普通夜行列車にも郵便車がついていて、諫早駅で受け渡しをしてきているんでしょうか。下りの一番列車ですものね。

(編集注:長崎行き普通夜行列車にはマニと共にオユ10形が連結されていました)

奥井 あそこら辺の郵便局員は数が少ないでしょうね。

―こんな隅々にまで郵便車があって……。

奥井 島原にしても近江鉄道にしてもねえ。キハが(お客さんの乗降が終わっても)出発を待っているんですよ。何を待っているんかな、と思って見たら、郵便局員が郵便車へ走って行って受け渡しをしている。ちょっと郵便局が遅れたもんだから。そうやって走っているんですよ。そうやって、チームワークが取れてないと……。

―それはどこの鉄道だったんですか。

奥井 尾小屋鉄道です。途中の駅でね、ちょっとお待ちください、と放送があったもんだから、何が来るんかいな、と思っていたら郵便局が来て。だからそういうことはちゃんとシステムとしてあったんでしょうね。

―尾小屋鉄道でその時は撮っておられなかったんですか。

奥井 その時は撮ってなかったんですよぉ。

―フィルムで残されているのは小松の駅だけですものね。

奥井 それから全線乗りに行った時は……、撮ってないねぇ。

―島原鉄道といえば、火砕流で不通になったりして、最近はなかなか大変だったようで、南側は切られてしまいましたが。でも、2011年の決算を見ていますと赤字ではあるんですが、収支係数を見ますと103ぐらいなんですよ。赤字でも103という数字は頑張っているな、と。南側を切ったので、赤字の8割は南側だったと言いますから、楽になったのでしょうけれど。南側にしても結構人は住んでいるんですよね、映像を見ましても。

奥井 なかなか人は動かんのかな。

―営業を一回休止してしまうと、なかなか元に戻らないのですね。

奥井 あの災害はえらいことでしたね。

―いろんな意味で影響を及ぼしてしまったんですね。

           

―それから、島原鉄道の前の日に撮影されたのという、鹿児島交通枕崎線ですが……。

奥井 あそこはよかったですね。うん、あれもよかったです。

―ここの映像もすごいですね。

奥井 動けるところは、積極的に動いていました。

―別府鉄道もそうですけど、島原鉄道もまだ近代化をしているんですが、この鹿児島交通枕崎線は、前時代的な、とでもいうんでしょうか。完全に時代に取り残されたような感じでして。そもそもキハ100形が出たのは昭和27年なんですが、デザインは完全に戦前のもので、これやったら安くできる、みたいなものがあったのかもしれませんね。この翌年ですからね、キハ300形が出るのが。1年しか違わないのにこちらは国鉄のキハ10形と同系で、全然違う。2両連結になると、キハ100形では両方に運転士が乗って、それぞれ運転して走っている……。

奥井 まあ、結局、片方が郵便荷物だったんで、100形で間に合っていたんでしょうな。

2両連結になって、後ろにキユニ100がついていましたものね。

奥井 外観上、ほとんど違いがなかったですね。鉄道郵便っていうのは、あのころ素晴らしかったんですな。

―加世田の駅でリヤカーが乗りつけてあって、荷物を積んでいる様がチラリと映っているんですけど、いいですよね。昔はこうだったよね、っていう光景で、今はもうないですからね。今は辛うじて、嵐電が宅配便の荷物を運んでいるぐらいで、あれも素晴らしい取り組みですが。ところで不思議なのは、枕崎港のショットがあって、そのあと枕崎駅から列車で戻られるのかなと思ったらそうではなく、続く映像は次の駅で上り列車が到着するものでした。あれはどうされたんですか。

奥井 あれはね、タクシーで枕崎港まで行って撮影して駅まで戻ってきたら、乗るはずの列車がいなかったんです(笑)。え? あれ?ってなったら、走りましょうか、と運転手が言ってくれたので、えーい、動いてくれー! って(笑)。で、走ってもらったんです。

―駅から枕崎港まで結構距離があるから、タクシーで行かれた。

奥井 ええ、タクシーで行って、戻ってきたら列車がなかった(笑)! あれはホント、珍しく計算違いをしてしまったんです。折角枕崎まで来たのに、ホームの駅名板でだけではなんだから、と欲を出したんです(笑)。

―それで次の鹿篭(かご)駅で列車を待ち構えて。ああ、列車を追い抜かしたんですね。列車はゆっくり走っていたんですかね。

奥井 ええ、列車はゆっくり走っていました(笑)。スピードを出せなかったんと違いますか。しかし、(タクシーの)運転手はよう走ってくれましたんで、おかげで追いついた。あれがなかったら、島原鉄道は無しですよ(笑)。

―ハハハ、行けてないですもんね(笑)。そう繋がってくるんですね。

奥井 しかし、何で枕崎の駅前にあんなにタクシーが停まっていたんだろうと、不思議に思いました。

―景気が良かったんですか。

奥井 景気が良かったんでしょう。運転手の方は喜んで走ってくれるし、走れ走れーってこっちは言ってるし(笑)。

―この当時は指宿枕崎線が通っているし、カツオとか坊津とかがあって、旅館とかもありますからね。そういう観光の地盤があるんでしょう。

奥井 あるんでしょうね。

―編集の時、上り列車の撮影場所を特定しようとしても、枕崎の駅も移転していて、鹿篭駅の跡も道路が全然違う所を走っていて、なかなかできませんでした。そんな中で感動したのが幼稚園の送り迎えの映像で、これもいいですね。

奥井 子供が下りて行ったんです、あそこらへんで。

―干河(ひご)駅でこどもたちが下りていて、逆に言えば枕崎まで行かないと幼稚園がなかった。幼稚園に通うのに枕崎線に乗っているということが素晴らしい、別の感動がありますね。

奥井 子供だけ先に走ってるしね。やっぱり、その辺は動画じゃないと(味わいが)出てこないです。

―僕も高校1年の時に乗ったのが最初で最後でしたが、その時も通学の中学生が乗っていました。

奥井 もうちょっとあの辺の人たちを撮りたかったんですがねぇ、フィルムがもうなかった。

―でも、いろんないい雰囲気の映像が撮れていますよ。加世田の駅では遠足の子供たちが……。

奥井 ぞろぞろ降りていますからね。

―生活の断片が、鉄道と一体になった様子が撮られていて、素晴らしいものがあります。

奥井 そうですね。なかなか、今どきはああいうことができませんわ。

―本当に、列車の記録、鉄道の記録であり、生活の記録でもあると思います。



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