奥井宗夫のむねのおく 2-14
「よみがえる総天然色の列車たち第2章14 近鉄篇2」のむねのおく
奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴
三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。
―前回に引き続き「近鉄篇2」です。始めに、ビスタカーと並ぶぐらいの名車両、ということで、「あおぞら」20100系が出てきます。
奥井 10100系と「あおぞら」、どちらも花形でした。でも、「あおぞら」の人気は高いんです。修学旅行で子供の時に乗ったという人が多いです。
―それは素晴らしい想い出になりますね。近鉄は日本有数の修学旅行での利用の多い鉄道ですから、だからこそ実現した「あおぞら」ですね。
奥井 先生にとっても、中間のフラットな部分から上の階も下の階も監督がやりやすいんですよね。
―なるほど。車端に引率者席があって、そこから上下の階が見えるんですね。
奥井 そうです、先生にとっては監督がしやすい。さらに全車同じ構造ですので、割り当てがどこに来てもあまり困らない。そのため、複数の学校が乗り合わせてもその割り振りがしやすい。だから、(生徒にとっても先生にとっても)人気のある車両でした。ただ、クーラーだけは、致し方なかったですね。
―まあ、いろいろな都合があったんでしょうね。修学旅行は真夏には行きませんしね。
奥井 そうですね。その代り、真夏は海水浴客の輸送で活躍していましたね。
―「あおぞら」車内の映像は、貴重なものですね。
奥井 うまいこと、鉄道友の会の試乗会に招待していただきまして。
―試乗会当日の車窓の映像も貴重で、上本町から大阪線と奈良線が路線別で走っているのですが、今は奈良線の上り列車が走っている線を、(この当時)大阪線が伊勢に向けて走っているんですね。
奥井 そうなんです、面白いですよね(笑)。
―布施までの高架区間は、今とそんなに変わらないのですが、郊外へ出るとガラッと変わってしまって。
奥井 今と違って、沿線に人気はないし家もないし、(フィルムを見直して)もうビックリしました。
―編集の時、鉄橋や線形を見てどこの場所か判断していったのですが、五位堂検修車庫の辺りも真菅の辺りも何もない(笑)。
奥井 大和八木駅に側線がないのに驚きました。
―待避線もなく、下に橿原線が写っていて八木だと判るような。カーブを改修する前の桜井駅もあります。とにかく色んなものが写っていて面白い(笑)。
―そして名張の車庫で、見学会があったのですね。
奥井 点検用のカバーを開けて、見せてくれました。
―よく考えたら、中間のサ20200形に制御器や抵抗器などの機器が1階部分にあり、さらにパンタグラフもついている。なのに、「サ」(付随車)である(笑)。
奥井 面白いですね(笑)。
―以前、たまたま五位堂に行ったら「楽」が同じように点検用カバーを開けていまして、見ることができたんですが、非常に珍しいことですね。いろんな意味で、面白い車両でしたね。
奥井 傑作でしたね。
―走りのフィルムも大量にありまして、修学旅行だけでなく、いろいろな団体列車にも使用されていますね。
奥井 宗教関係で、天理教や金光教関連の運転もありましたね。
―それと、映像では見難いのですが、大阪市の「澪標」(みおつくし)のマークを掲げた列車もあります。聞くところによると、大阪市の互助組合が利用していたとか。
奥井 夏の間、毎日運転していました。
―一般向けの臨時列車として、「らっこ号」や臨時快速急行なども撮影されています。
奥井 その頃は、正月などの多客輸送時に予備車として、高安と明星に6両ずつ、待機していました。
―あと、「敬老号」も撮影されておられますが、これは9月15日の敬老の日に走っていたんですね。
奥井 1年に1回、大阪と名古屋から運転されていました。
―その1年に1回しか走らない「敬老号」の映像が大量にある(笑)。
奥井 毎年撮りに行っていました(笑)。そのかわり、天理教関連の列車は撮れませんでした。いつ動くかわからなかったので。
―近鉄では、団体列車ごとに専用の看板があるようですね。
奥井 僕らの知らないような看板の列車もあったと思います。それだけ(「あおぞら」を含めて)動いていたんだと思います。あと、(「あおぞら」を使用した臨時)特急も撮っていないです。
―DVDでも、ナレーションでしか解説していないのですが。
奥井 (「あおぞら」を使用した臨時特急では)特急券の色も違っていたんです。あの、黄色切符は欲しかった!(笑)
◆ ◆ ◆
―「あおぞら」の話は尽きませんが、一般特急用として、ここでスナックカーが登場してきます。12000が出て、12200が出て、12200はのちにいろいろ改造されて今も走っていますが、いろんなところが今とは全然違いますね。
奥井 そうです。ドアの位置も違いますしね。今思い出しましたが、スナックカーは、使いにくいんですよ。
―使いにくい?
奥井 スナック(コーナー)では立って食することができるんですが、結構みんなが見ているんですよ。スナックコーナーが後ろにあればお客さんは背を向けていますが、前にあるとお客さんは皆スナックコーナーの方を見ていますので、利用しづらい。だから、案外利用しませんでした。
―小学生のころ、四日市から中川まで乗った特急にスナックカーが入っていて、「あれ、こんなところにキャバレーがついている」と言ってしまいました(笑)。
奥井 (子供なら)そうでしょう(笑)!
―もともとは名阪特急用に作られたのですが、前面が改造前とはだいぶ違いますし、新旧スナックカーの違いとかが分かりますね。
奥井 12000系デビュー当時の1個パンタの時代を撮っておければよかったんですがね。取りにいかなアカンわ、と思っているうちに2個パンタになってしまいまして。(運転台上に)増設したパンタの位置が、(12200系と比べて)少し前やね、旧スナックは。
―12200系はのちにスナックコーナーなしで増備され、さらに中間車ができて4連や6連の編成も登場して、168両の大所帯になりました。
―当時、もう一つの花形が「お召列車」で、こちらにも12200系が使われています。
奥井 いいでしょ。
―前から4両目のク12300形に御座所が設けられていて。
奥井 ク12300形にご乗車されて、隣のモ12200形から供食する体制をとっています。
―スナックコーナーで陛下にお食事を供していたことになるのでしょうが、どのように供していたのでしょうか。電子レンジか何かで……。
奥井 電子レンジはなかった……、いや、どうかな、わからないですね。
―ちょっと気になるところではありますが。お召列車が2回ありまして、あと、エリザベス女王がご乗車されています。
―スナックカーは今も走っているのですが、当時は今と全然違う姿で、当然、10100系などの他形式との混結運転もあり、見ていてわくわくする楽しいところだと思います。細かく見れば、電気連結器がついているのにジャンパ栓が残してあるのは10100系と併結するためであるところとか。
奥井 ええ、そうですね。近鉄はそれをフルに使っていますからね。
―12200系が登場した頃は、万博輸送と絡めて志摩方面へのアクセスのために鳥羽線が開通したころでもあり、「近鉄篇2」では単線時代の鳥羽線の映像が出てきます。
奥井 あー、そうでしたね。
―鳥羽線の単線時代は、わずか数年しかないのですが、当時の映像を見るとだいぶ趣が違う。単線と複線では、こうも印象が変わるものかと。
奥井 それはありますねぇ。
―名古屋線雲出川橋梁が複線橋梁として架け替えされた際はずされた古い単線橋梁が、鳥羽線の、五十鈴川駅を出て五十鈴川を渡る手前の橋梁に転用されているのですね。
奥井 その話を聞くまで、そのようなことがあったのは思いもしませんでした。
―(転用先の)鳥羽線も単線で、元の雲出川橋梁も名古屋線最後の単線区間で、面白いのですが。
奥井 (雲出川橋梁は)いろんな車両が走ってきますからね。
―いいポジションで撮影されていますね。橋梁を渡ってきて、ポイントを通ってまた複線に戻るところなど、よくわかります。
◆ ◆ ◆
―あと「近鉄篇2」では、伊賀線を紹介しています。
奥井 伊賀線は、あの3連がいいねぇ。モニ5181形のね。
―伊賀電気鉄道時代からの生え抜きの車両ですね。伊賀線も紆余曲折があって、大阪線となる参急が開業してからも国鉄との貨物輸送の関係で狭軌のまま残されて、現在の伊賀鉄道に至っています。でも、伊賀線には独特の雰囲気があって、独特の雰囲気を持つモニ5181形が走ってきて、周りの風景となじんでいるんですね。
奥井 やっぱり伊賀線の生え抜きですよね。車体は短かったんですが、窓はちゃんと多くあって。
―14m級の車両なんですが、窓が12個あって、縦に細長い窓が並んでいる。
奥井 伊賀線は、(モニ5181形の)3連を撮らなアカンと思って、初めから狙って行ってます。
―伊賀線には伊賀上野から入られていますね、伊賀神戸からではなく。(服部川のあたり)霧が深かったんですね。
奥井 あの辺は霧の深い時が多いんです。こちら(松阪)では天気が良くても向こうは霧が深いことが多く、撮影できないこともある。10時を回るとカラッと晴れるのですがね。
―伊賀神戸の駅に入ってくる下り列車のモ5251形ですか、建設中の信貴山電鉄で、ケーブルカーで引っ張り上げているところの写真が残っている、あの電車ですね。
奥井 あの電車も割と短かったんですね。今から思えば。
―(信貴山電鉄は)大阪側から信貴山の朝護孫子寺に参拝客を運ぶため為の鉄道で、ケーブルカーで上がった山上に一般の鉄道が敷設されていた特殊な路線なんで、(モ5251形は)ケーブルカーに車体を載せて上げたという車両です。戦争中に不要不急路線ということになって、またケーブルカーで山を下りて南大阪線に転入、戦後すぐに伊賀線に移籍して、そのまま最後まで伊賀線にいました。そんな車両の動いている映像をまさか見ることができるとは思わなかったものですから……。
奥井 窓の上がアールになっている……(笑)。
―そう、当時のモダンなおしゃれな電車の。昭和5年製ですか。ちょうど大正モダニズムの流れを受けた……。
奥井 あれ、どこのメーカーだったかな。川崎かな。
―どこでしたかね。調べればすぐわかりますし、補足も入りますから。(→日車です。)
奥井 あれがね、吉野(鉄道)の木造のモハニ(モハ5151形)を引いていましたね。あの当時は緑色で、ピカピカの色をしていたわ。あれは2代目(注)になるんやったか。そのあと、6300が入って来て……。
(注:伊賀線の車両の変遷から見て吉野の木造車が1代目、モ5251形やモニ5200形が2代目、モ5000・ク5100形が3代目に当たる)
―これが昭和51年のフィルムで、そのあと昭和58年に名古屋線からモ6311形やモ6331形(→モ5000・ク5100形)が入ってきて、伊賀電鉄や信貴山電鉄の車両がガサっと入れ替えになって。
奥井 総入れ替えでしたね。
―ビックリしますよね。
奥井 それからもう2回入換えますからね。
―860系が入って、そのあと、東急電鉄の車両がね。(伊賀線に合う中型車が)近鉄内での調達ができなかったからなんですが。しかし、そういう目で見ると名古屋線から来たモ6311形などは、(伊賀線のそれまでの車両と比べて)重量級に見えて……。狭軌から一旦標準軌になって、また狭軌になって。
奥井 (それも)運命ですね。それをさらっとやってしまう近鉄はすごいですね。元に戻すだけやったからできたのかも。
―なるほど、元に戻すだけ。
奥井 だけど、それをいとも簡単にやってしまうんですよ、近鉄は。
―この他にも、伊勢電から名古屋線になり、南大阪線に移って更に養老線に行ったり、南大阪線や吉野線から伊賀線に行ったり、色々路線があるから……。
奥井 できるんでしょうね。
―沿線風景は案外変わっておらず、車両だけがどんどん入れ替わって、今や東急の車が走っている不思議な感じがしますが。
◆ ◆ ◆
―「近鉄篇Ⅱ」の締めくくりは、10000系のさよなら運転ですが。
奥井 これも鉄道友の会の企画で、募集してるぞー、っていうから息子を連れて乗りに行きました。
―ここで10000系の車内がはっきりと出てくるわけですが。ビスタドームの天井に低いところとか。
奥井 (映像にはないが)床の市松模様のリノリウムの傷みが、あれだけ激しいとは思いませんでした。
―撮影会の会場では、ご自身も登場されておられますね。
奥井 あれは、名古屋の伊藤君か誰かに撮ってもらったんです。
―それと会場に持ち込まれた10000系の模型が目を引きます。
奥井 大阪や京都の百貨店や模型屋を探し回って両端のMM車をやっと手に入れたんです。中間車もあちこち探したんですが見つからなくて、結局自分で作りました。
―えーっ! ご自分で造られたんですか。
奥井 それでやっと揃いました。
―会場にはどうやって持ち込まれたんですか。
奥井 模型の箱を持って、カメラも持って、10000系に乗りました。レールも持って。
―全部持って乗られたんですか。てっきり誰かの車で運んでもらったものと思っていました。
奥井 もー、エラかった、エラかった(笑)。
―でも、そのおかげで10000系の全貌がはっきりとわかります。
奥井 そうですね。
―途中、単線時代の鳥羽線朝熊駅での交換風景を、モ10001の高運転台から撮っておられます。あのポジションは10100系ではそうならない、解る人には解る、という……。
奥井 10000系の運転士のステータスの高さが分かります。
―10000系のホントに最後の運転の日の撮影で、貴重な記録です。本当にありがとうございました。