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動輪堂鉄道イベントのお知らせ

 

「かんさい鉄道トークバトル」

イベント開催のご案内


                     


動輪堂は、この度、鉄道イベント「かんさい鉄道トークバトル」を4月30日(日)19時より、大阪・十三にあるシアターセブンにて開催することとなりました。

 MCに鉄ちゃんアナウンサー・羽川英樹氏、サブMCに初心者鉄子でもあるレースクイーン&グラビアアイドルの小林未来氏、コメンテーターに鉄道ライター・伊原薫氏を迎え、動輪堂プロデューサーも加わって、映像を交えながらのプレゼン形式によるトークセッションを行います。今年デビューする話題の「トワイライトエクスプレス瑞風」をはじめ、関西の鉄道の過去・現在・未来にわたる様々な話題を展開。また、観客の方からも事前受付の上、プレゼンに参加していただくなど、会場全体を巻き込み、鉄道にまつわる熱いプレゼントークを展開する、鉄道ファン必見のイベントです。

 また来場者全員に、何が当たるかお楽しみの鉄道グッズのプレゼントをご用意。会場では動輪堂発売の鉄道DVD等を、特別価格で販売いたします。

<プレゼンバトル参加について>

参加者ご自身がトークバトルのお題を出していただくチャンスです。「民営化される大阪市営地下鉄について語りたい!」「近鉄特急の阪神直通運転はこうすればいい!」「自分はこの鉄道やこの列車を推したい!」など、事前にメールにてお題をお寄せ下さい。選考の上、当日会場で実際に発言していただきます。

<出演者情報>

MC 羽川英樹(フリーアナウンサー) 

元よみうりテレビアナウンサー。ラジオ関西「羽川英樹ハッスル!」・KBS京都ラジオ「羽川英樹の土曜は旅気分」などに出演中。「よみがえる総天然色の列車たちシリーズ」など多数の鉄道DVD等のナレーションも担当。2015年には PHP研究所より「鉄道でめぐる ゆるり京都ひとり旅」を出版。

サブMC 小林未来

レースクイーン・グラビアアイドル。鉄道も大好きで、現在はブログ等で鉄道の魅力を配信する初心者鉄子。インターネット配信番組「UST鉄道情報局」でMCを務める。秋田県出身、好きな列車はE6系「こまち」。

コメンテーター 伊原薫

  鉄道ライター。京都大学大学院が認定する都市交通政策技術者。Yahoo!ニュースをはじめとするwebメディアで鉄道記事を担当するほか、鉄道雑誌の記事掲載多数。主宰するインターネット配信番組の「鉄道情報ステーション(旧:UST鉄道情報局)」は関西USTREAM AWARDグランプリを受賞。

ゲスト 宮地正幸

鉄道番組・DVD&ブルーレイを制作する動輪堂のプロデューサー。 NHK「東海道新幹線開業50周年記念 まるごと新幹線」「走れ!新幹線」や、「プロファイルシリーズ」「よみがえる総天然色の列車たち第2章」「同・第3章」などの演出も担当。

「かんさい鉄道トークバトル」 

 (シアターセブン エンタメゴールデンウィーク 2017)

開催日時 平成29(2017)年4月30日 18時30分開場 19時〜21時

会場 シアターセブン(阪急十三駅 西口改札から徒歩4分)

入場料 前売 1,500円 当日 2,000円 (1ドリンク代別途500円)

<予約方法>

電話予約:06-4862−7733
メール予約 : theater-seven.com

メールの場合 タイトルに「かんさい鉄道」とお書きの上、
,名前(ふりがな)
電話番号
メールアドレス
た与

をお送りください。
予約受付が完了次第、シアターセブンより返信いたします。

<「プレゼンバトル」参加申込みの方法>

メールのみでの受付です。

メール予約の方は、メール本文にプレゼン内容をお書き下さい。

当日券購入・電話予約の方、メール予約とは別途プレゼン参加申込みの方は、下記アドレス宛にお送り下さい。

プレゼン参加申込用メールアドレス: dorindo@kcc.zaq.ne.jp

(標題に「プレゼン参加」とお書き下さい。)

<読者向けお問い合わせ先>

 06-4862−7733 (シアターセブン)

<発行者向けお問い合わせ先> 

 078−761−0081/090−3948−4594 (動輪堂:宮地正幸)

主催 淀川文化創造館シアターセブン  共催 日芸プロ  企画監修 株式会社動輪堂

グッズ協力 合同会社かぴばら 株式会社ジーエム商事


淀川文化創造館シアターセブン 

イベント案内・チケット予約ページはこちら



奥井宗夫のむねのおく第3章1

奥井宗夫インタビュー

「よみがえる総天然色の列車たち第3章1

国鉄篇<前篇>」のむねのおく (その2)


(その1)から続く

―そして今回は、上諏訪とか中央東線方面の映像もありますね。

奥井 あれは家族旅行の合間にちょいちょいちょいと撮ったんですわ(笑)。

―スカ色の115系は、私も晩年に別の作品で追いかけていたことがあったんですが、今回の映像では長い編成で走ってますよね。

奥井 あれ、一所懸命撮りに行った、家内待たしておいて……(笑)。

―なんですか、急行に使っていることもあるんですよね。

奥井 ええ、今では考えられんことです。

―急行「たてしな」ですよね。確かに車内には、ドア横の2人掛けのロングシートにも、窓のところに座席番号が振ってありました。何に使うんだろうって思っていたことがあったんですが、こういうことだったんですね。座席指定で使うことがある。座席指定で急行やぁって乗ったら、ドアの横のここですか、みたいな。まあ、苦情が来たかもしれません。(笑)

(編集注:例えば、あるロングシートの扉寄りが「5A」クロスシート寄りが「5B」、その向かいは「6A」「6B」というように座席番号が振ってあった)

奥井 今じゃ考えられん(笑)

―まだこの頃っていうのは、165系にビュフェが連結されているのが写ってますからね。使っていないとはいえ。まだまだ、中央高速道も開通してないし、例えば東京から信州方面への……。

奥井 観光で行くのはどうしても乗らなきゃならなかったですね。

―まだまだメインの時代なんですよね。そんなことがいろいろ映像から見えてきますね。

奥井 面白いフィルムですね。

―そのあとの身延線は、ここも当時165系の急行「ふじかわ」が出てきます。今は特急で走っていますけど、普通列車はほとんど旧形国電が走っていた時代っていうことですか。

奥井 そうですね、あの時はまだ旧形車、全部残っていましたね。

奥井 もっと前に行きたかったんやけど。

―関西系の車両じゃないやので、なかなか馴染みがありません。クハ47とかですね、あんなリベットだらけの2扉の車両とか。

奥井 あれは32系の流れですよね。まあこのころは、カメラを変えるのがやっとの時代ですわ(笑)。

―(笑)。それとマメに東京近辺で、集めてみると結構いろんな電気機関車が、撮られていて。

奥井 ええ、多いですよ。

―前に第2章の時に青梅線を扱ったことがあったんですけれど、まだその続きがあったのかと。EF15はまだあったにしても、今や山手貨物線に貨物が走っていることが一日何本かあるかどうかですよね。

奥井 ああ、そうですね。

―それにEF13にED16、そして黒磯辺り。前のフィルムでは、元気に走っていたEF56とかEF57とかは休車になっていて。宇都宮運転所に留置されています。ああ、ついに休んだかっていう感じですか。

奥井 そうです。あれはもうちょっと、旅客列車を撮りたかったですよね。こっちから行くにはちょっと遠すぎました。

―上越線とか信越本線も前と別の時にいらっしゃったんですか。

奥井 もう一回行ってるね、なんかの目的で。上信(電鉄)かなんか乗りに行った時か。

―完全に183系が主役になっている時代ですよね、この上越線は。

奥井 あの183系を知る人も少ないんだろ。でも、まあ一応撮ってあります。

―当然ご存知のように、昭和57年11月15日の上越新幹線開業、大宮からの暫定開業でしたか、あの時に吾妻線の系統以外は全部なくなっているわけですからね。このタイミングで181系の「とき」は完全に引退したという時期ですよね。

奥井 はい。貨物列車をご丁寧に後ろから前まで撮っているのは少ないでしょ。

―編成も長いですしね、いわゆる幹線としての風格がある……。

奥井 ありましたね。

―新潟県に入ったところで、岩原とか越後湯沢近辺の、奥井さんがお気に入りの地域でも撮影されています。

奥井 確かにあそこ、風土がありますね。沿線も歩きやすいし。

―ええ。僕も一昨年になりますけど、115系を追っかけて行ったんですけど、楽しかったですね。上越線はね。

奥井 楽しいですよ。上手に畦道、歩きますから。

―信越本線の碓氷峠、これも別の時でしょうか。

奥井 ええ。あそこはやっぱり憧れの地ですよね。

―はい。

奥井 親父がやっぱり興味があったもんだから、あそこの5万分の1の地図を残してくれていて。それで余計に興味はありました。

―時代的にちょっとずれたんで、残念ながら奥井さん時代には撮影出来てないんですけど、草軽電鉄もありましたね。「カルメン故郷に帰る」の世界だと思うんですけれど、あれがあったらと。映像がと言うよりも鉄道自体があったら是非とも乗りたい路線の一つだったなと思います。

奥井 頸城鉄道とかね。あそこらへん、乗りたかったな。

―きっと、今だったら結構なね、人気の……。

奥井 路線になってると……。それがね、国道に沿って、全部残ってるんですね。で、こないだね、水郡線、あれ3分の1ぐらい乗りましたけど、途中の駅から横へ出て鉄道が走ってたらしいですね。

―ほう、そうなんですね。

奥井 で、今はJRのバス路線になってて、その跡を丁寧にトレースするんですよ。楽しかったですよ、あれ(笑)。何走っとったんだろ、あれ。

(編集注:途中の磐城棚倉駅から東北本線白河駅へ、白棚線という路線が走っていた。大正5年に全通し、戦時中の昭和19年に不要不急線として休止、そのまま復旧しなかった。戦後路線跡を利用してバス路線に転向、そのままJRバス関東に引き継がれて現在も運行中)

―水郡線自体も、私は乗ってからそれこそ30年とか経っているんで、あんまり印象がないんですよね。しかし近年は、どこの路線でも久々に乗る路線は、絶対楽しいですよね。前に乗った時よりも、何か色んなこと、多少なり見聞きした分しか知らないけど、ここはこうだななんていう見方が……。

奥井 違ってきますよね。

―違っているんですよね。前は何も解らないで乗っていたのが。

奥井 あの、水戸辺りも、もっと乗っといたらよかったし、土浦にもう一回行きたいわ。あれは素晴らしかった。

―残念ながらいろんな路線がなくなってしまいましたけどね。筑波鉄道もなければ、鉾田に行く鹿島鉄道も。

奥井 あれなんか、懐かしいよなあ。

―私は、鹿島鉄道は辛うじて乗りましたが。

奥井 うんうん。

―「よみがえる総天然色の列車たち第3章」には「私鉄篇」に、関東鉄道常総線がまたちょっと出てきます。

奥井 ええ。

―あれはちょっと印象深くってね。すごい都市部の、近郊路線で住宅開発が進んでいて、複線なのに非電化なんですよね(笑)。

奥井(笑)

―ところで碓氷線撮影の時は、一旦軽井沢から電車で横川に移動して、それから車で戻ったんですか。

奥井 いや、あのね、途中で撮ってるんだから、かなり歩いたと思うんだなあ。丸山変電所のちょっと上まで歩いているんだわ。第一トンネルの上まで登ってるから。それで上から、キハ82とED42の4連とやり過ごしてるから。けれどその時はまだカメラがなかったんよ。スチールしか持ってなかったから。

―今回は、熊ノ平駅が写ってますけど、そこも歩いて行かれた、と。

奥井 歩いて行ってますね。

―ということは、過去も今回も、何度も……。

奥井 ええ、歩いて。

―相当な距離ですよね。今でこそ、丸山変電所の先まで、廃止になった線路を使って、トロッコみたいなもが走っていますが、一昨年、車からどれくらい廃線跡が見えるかなと車を運転して行ったんですが。

奥井 明確に残ってますね。

―廃止前には1回ぐらいしか乗ったことがないのですが、碓氷峠ということで、特別な思いで、噛みしめるような思いでしたね。わざわざなんか、水か何か買ってきて、窓際のテーブルでコップに入れて、傾きを見ながら乗っていました。

奥井 碓氷峠は好きでしたね。

―軽井沢の駅で、EF63の運転士と長話になって、出発時間の前になって、しまいに乗っかって行くかっていう話になったんですけど。あれは乗っかって行かなかっていうのが一生の後悔で。

奥井(笑)

―鉄道文化村で機関車の運転体験の取材でキャブに乗せてもらって、短い距離を走りましたけど、ま、それで多少取り返したかなって思いがありましたけどね。今回もまたフィルムに出てきて、よかったなあって(笑)。

奥井 あれこそ、ホントにビデオで撮るべきもんやったと思いますわ。

―はい。いろいろ撮った後でまた行かれて、撮ったんだろうなっていうのが、今回は横川駅のおぎのやさんの前のアプトの歯車レールの再利用までちゃんと撮られてて。

奥井 あれは有名です。

―軽井沢の駅前にもあったとはね。ちょっと懐かしくて……。

奥井 だけど、今の人が見たら、あれ、わからないでしょ、訳が。

―そうなんですよね、絶対わからないですよね、ええ。編集作業しながらグーグルのストリートビューで、この辺変わってるなあ、とか(笑)。変遷が激しいですよね。ちょっと離れると北陸新幹線ができていて、信越本線そのものがないわけですから。いろんなことに思いが膨らんでいきます。

奥井 軽井沢の駅前、大型のバイクしか走ってなくてね。400以下の車だと、なかなか登っていかない、あの峠を。だから、超大型のバイクばっかり。

―小さいのだと、しんどいのですね。

奥井 うん。

           

―話は前後しますが、今回の作品の中でも、最後に天王寺の話をお聞きしないといけないですね。

奥井 あれ、僕はその気はなしに、気軽に撮っているんですけでね。

―てっきり、水害で車両が今こんなことになっているからと、大急ぎで撮りに行かれたのかと思っていたんですが。

奥井 あの時僕は、12系の臨時があったのを、中心に撮りに行ったと思うの。

―「きのくに」の。

奥井 ええ。で、101系が来ると、色が全部違うし。それで思い出して、ついでに撮れるものは撮っておこうと。まさにカラフルでしたもの。

―何しろ、調べたら100両ものが床上浸水して、そのうちの113系は全部復旧したらしいんですけども、101系ばかり60両が廃車になった。大量廃車ですよ、こんなのは、戦災以外ないでしょ、大量被災は。

奥井 工場火災はちょいちょいあったけども、少ないですよね。

―ええ。それで淀川電車区から6両、それから東京から54両持ってきたってね。その東京からのやつは廃車になるやつを延ばしたっていうことでね。

(編集注:昭和57年8月の台風10号による風水害で、王寺駅近くの川が氾濫、113系40両、101系60両は床上浸水の被害をこうむった。113系は快速用に申請した冷房車だったので、各地の工場で復旧工事が行われたが、101系は非冷房車で、数年後に103系に置き換えて廃車予定だったため、廃車を繰り上げ、片町線から6両、総武中央緩行線から54両転属させて補った。そのため、ウグイス色のほかにオレンジバーミリオンやカナリヤ色が混在する状況となった。転属してきた101系は4・5年後に、201系を投入した東海道線から転属してきた103系と置き換えられ、廃車となった。)

奥井 あんなにカラフルになっているとは思わなかったな。

―初めはてっきり、電化の時に転属して持ってきたものかなと思ったのですが、時期的に違いますからね。なんだろうなと。

奥井 見とって楽しかったね。

―国電ファンにはたまらんことでしょ。混結しているは、101系のしかもカラフルなやつがですよ。当然しばらく使うからって、前に黄色い関西線の路線色を巻いているじゃないですか。

奥井 東京の人は喜ぶでしょうね。前のフィルム(第2章)には、113系の混色がありましたね。

―はい。そうですよね。阪和線色とね、関西線色とね。私が小学校5年の時に、悩みに悩んで最初に買ったHOゲージの鉄道模型が、113系の関西線色の4連でした。好きだったんですよ、あれ。永らく快速として環状線に乗り入れしていましたけど、大阪駅で見るたびに、おおっ、ていう感じでしたからね。

奥井 それを思うと、懐かしいフィルムでしょ。

―ええ。しかし現実には桜井線や和歌山線で走っている姿を見た覚えがなかったんです。

奥井 よう、こまめに動いているでしょ(笑)。

―ちゃんと行くとこ行ってはるなっていう感じですね(笑)。まあ、吉野口なんていうのはね、第2章の「近鉄篇」で、吉野線の貨物のフィルムもありましたので、見比べてみたりすると非常に面白くて。ちょうど30年前っていうのは、多分現在40歳以上の人には、おおっ、て言う……。

奥井 フィルムやと思いますよね。

―仕事なのですけれども、そっちのけで非常に楽しませていただき、本当にありがとうございました。第2巻は国鉄時代のディーゼルの方で、そのあとはJR発足30周年に合わせて、JRのフィルムが登場していく予定になっていますので、私も非常に楽しみにしております。ありがとうございました。

                                         <了>


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奥井宗夫のむねのおく第3章1

奥井宗夫インタビュー

「よみがえる総天然色の列車たち第3章1

国鉄篇<前篇>」のむねのおく (その1)


奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって列車を撮影し続けた。松阪レールクラブ会員。


―前回から2年ぐらい間が……。

奥井 空いていますね。

―「よみがえる総天然色の列車たち第2章」の「蒸気機関車篇」からしばらくお休みをいただいた形だったんですけども、まだまだ奥井さんのご自宅の宝の倉庫には、いろいろとフィルムが……。

奥井 残ってるね。

―今まで作品にしてきたものから少し後の時代のサウンドフィルムがたくさんあるので、ひととおり終わってから、また改めてやりましょうっていう感じで温存していたわけです。しかし他にもシリーズを進める間に、「こんなん出てきたよ」とか「こんなんあったよ」とか、逐次奥井さんから別のフィルムが見つかったという連絡をいただいていました。前の時代のフィルムも結構出てきたんですよね。

奥井 ちっちゃいの(短いフィルム)で繋ぎようがのうてね、ほってあったんよ。

―いわゆる端呎フィルムというやつですね。ですので、そんなものも改めてテレシネかけて、何が映っているのかなと点検していくと、いろんなものが出てきたと。それも含めて今回新たなシリーズとして、「よみがえる総天然色の列車たち第3章」として、再びご覧いただくことになったわけです。そして今日、1回目の仮編集を見ていただいたところなんですが、いかがですか。

奥井 そうですね、国鉄からJRに変わる過渡期の頃なんですよね。

―そうですね。

奥井 面白かったですよね(笑)。もう、こちらも忘れてますもん。

―撮ってからご覧になっていなかった。

奥井 そうですね。サウンドフィルムは殊にね、怖かったもんだから、一切、切りつなぎしてないのね。撮りっぱなしで、ポンと(倉庫に)ほり込んであったのね。

―怖かったっていうのは?

奥井 あの、編集すると音が切れちゃうんですよ。

―そうですよね。

奥井 音と画面のズレがあるもんだから。だから、もう撮りっぱなしで全部ポンポンポン(と倉庫へ)。それと、これまでのサイレントのフィルムと色調がね、ニコンとキヤノンの差が出たんです。それが怖かった。

―具体的にどういうことなんですか?

奥井 ニコンはね、暖色系なの、暖かい色。キヤノンは寒色系なの。ニコンの場合はあったかい色、キヤノンの場合はブルーが強調されるというか、中のフィルターの関係なんですけどね。

―確かにちょっと黄色がかって見えるような……。

奥井 シーンもあるでしょ。あれがメーカーの差ですよ。

―黄色がかって見えるほうがニコンということですか。

奥井 ニコン。

―なるほど。最終的には色を補正して近づける形で仕上がることになるんですけれど、ある程度そのフィルムを見れば、感じが違うなっていうのがわかるわけなんですよね。

奥井 わかります。

―もし、カメラを持ってやっていた方だと判る。あ、これはあれだなと……。

奥井 うん、判る。3つの系列があって、エルモの系列の色もね、またもちょっと違う。そうすると結局、同じクラブの所属していてもニコン派とキヤノン派に分かれるわけ。好みで。当時、買うてしもうたらその機械を使わな仕方ないですよね。で、ニコンを使っているもんだから、もうそれでいいっていう満足感があったんだけども、それが残念ながらぶっ壊れてしまった。それで買いかえようかどうしようか思うとった時に、ソニーのTR55とかいうビデオカメラが出たんで、それにしようかなと思っていたら、ちょうど先輩の人が、今から僕はビデオをやるって言って、今の機械はいらないからって譲ってくれたんです。それでキヤノンの一番いい機械を払い下げるような格好で、半額で譲り受けたんです。

―それがあの、キヤノンの1014XLSというやつですね。

奥井 ほな、乗る乗るっていう話になって、お医者さんの方から譲ってもらった。

―憧れの名機ですよね。あの、私も学生時代に8ミリ映画をやっていたんですけど、1014はとても手に入らずに、814XLSっていうやつを使っていました。1014XLSは、手動で巻き戻しができるんですよね。劇映画を撮る時はそれでオーバーラップとかが出来たんです。

奥井 あれはよかったですね、あの機械は。

―大阪の戎橋の南側に、今はCDショップになっているところにカメラ屋がありまして、1980年代の後半か90年代なったころにもまだその店頭に、まるで値下げもせず、いつも誇らしげに1014が飾ってありましたからね(笑)。

奥井 僕も、あのカメラはとても買えないと思っていた。はじめから。

―鉄道を撮る上で、どういうところがよかったんですか、1014は。

奥井 大体バランスが取れていましたよね。それほど重たくなかったし。

―それでその1014XLSで撮り始めたっていうのは、どのあたりからなるんですか。

奥井 音が入っているのは全部そうだから。

―なるほど。今回は音声付きの映像と音声なしの映像をあまり混在させたくなかったので、極力後ろの方に音声付きのフィルムを集めるように構成にしたんですけども。

奥井 それで、正解やと思います。

―ちょうど、国鉄分割民営化が1987年、昭和62年4月1日ですから、その前の11月のダイヤ改正の前後のあたりからサウンドフィルムが、例えば山科とか塚本、あと名古屋の金山、あの辺がその時代ですね。

奥井 そうなんです。

―大阪駅の映像なんかはそのダイヤ改正の前の、昭和60年から61年にかけて11番線の切り欠きホームにEF58150がイベントの告知用に展示されていて。大阪駅の西側の、今はビル街になっている所が昔のコンテナヤードの跡地で、「キャッツ」の公演なんかをやっている頃に、片隅に車両を並べて何かやっていたらしいですけど。(編集注:梅田貨物駅南側の旧コンテナヤードで583系のサロ581とサシ581を数両留置して行われた、「IMPORT EXPRESS OSAKA」という海外製品の輸入販売のイベントで、会期は昭和60年7月29日から翌年3月末まで)

―その頃にカメラを手に入れられたということですよね。

奥井 そうです。

           

―米原機関区でEF58がゾロゾロいる映像も出てきますね。

奥井 そうそう。

―すごい、居並んだ状況なんですが。ほとんど運用から外れかけているから、逆に集められたわけですね。確か昭和61年の4月ですね、あのイベント、撮影会が行われたのは。

奥井 ええ。もうちょっと写しに行きゃよかったな。最後の最後になったら、もういいやと思って、全然写しに行かんかったですね。

―撮るものを撮ってしまったら、逆にそんなに騒がれている時期に、ワサワサしているところに撮りに行ってもという感じですよね。葬式鉄でもないし。

奥井 そうなんですよね。

―北陸本線なんですが、坂田の手前から交流電化で、第2章ではデゴマルなりデゴイチなりが繋いでいてっていうところが、今回はキハ40系が繋いでいます。私は米原に行くと、DD50形の休車が並んでいたっていう記憶はありましたが、あまり40系には憶えがなくて、なんか新鮮でした。そういえば確か時刻表には、彦根発があったよなって思ってたら、ちょうどその彦根発の列車が撮影されていました。木ノ本までの区間運転なんですよね。

奥井 うん。

―本数も今と比べると、比較にならないぐらい少ない。

奥井 木ノ本辺りは行っとって、かなんのですわ。なかなかチャンスがない。あそこまで乗るの。

―いや、木ノ本までやったら近いですよ。

奥井 それはね、ここ松坂から米原までが遠いのよ、意外と。

―(笑)ちょうど鈴鹿山地を挟んで反対側になりますものね。

奥井 そうなの。だから米原っていうと、うんと遠いところに感じる。名古屋から行ったほうが近いか、大阪から行ったほうが近いか。京都回っていったほうがはるかに近いやろ。で、草津線通ると時間かかって、なんともしようがないやろ。

―米原では419系も登場します。寝台列車が少なくなって、583系が普通に転用されていくじゃないですか。九州もそうですけども、北陸本線でも。もうちょっと後の時代の落ち着いた色の時は、割と乗った記憶があるのですけれど、このワインレッドみたいな、あれは不思議な色をしていますよね。

奥井 赤。あれ撮ってる人、少ないと思いますよ。まして3両編成ですから。あれ、撮りに行っとるな。ビデオになってから。無くなるといかんわって。

―ドアは折り戸ですからね。肩幅ぐらいしかないような狭いドアで、それで乗り降りするが、ものすごい時間がかかるんですよ。普通列車の転用されてから。まして、湖西線経由で北陸行くっていうのは、関西発では青春18きっぷで流行りルートですからね。60代以上のシニアの人が結構な数乗ってて。大概、近江今津から先は419系でしたが、ちょっとビックリするような色で。印象がだいぶ違いました。

          

―あの後、国鉄からJRに変わってしまうと、車両の色の塗り替えがこぞって始まりますが、国鉄の最後の次期は、全国統一のカラーをやめ始めた時期にもなりますね。今、思うとあの福知山線113系の真っ黄色は衝撃的でしたが、懐かしさがありますよね。

奥井 僕はそう思わんと、来たやつを何でも撮ってるだけの話で(笑)。

―奥井さんにしてみれば、三重県の松阪から大阪へ遠征みたいな形ですが、僕はちょうど昭和62年、分割民営化した年の秋から宝塚の撮影所の出入り始めたんで、ちょうど福知山線はあれになって間もない時期でした。

奥井 ええ。

―それで、今なら「えっ」となる2両で走っているんですけど。大阪駅の夕方のラッシュ時に福知山線の電車が大阪駅発で2両だった記憶が強烈に残っています(笑)。2両しかないから逆に超満員です。なんでこんな短い編成で、一体どういう運用してるのかなっていう疑問があった時期でもありました。

奥井 なるほど。

―福知山まで電化したのが昭和61年11月の改正ですけれど、それまでの宝塚電化で103系が6連で走ってたのが、これまたガラガラだったんですよね。

奥井 うんうん。

―その先に行く列車は旧客でしたが、それも当然、大阪駅に直通で出入りしていて。当時、よくニュースにもなっていたんですけども、福知山線朝のラッシュ時の上り列車は宝塚まで満員なんです。ここまでは本数が少ない代わりに編成も7両も8両も繋いで長いのですが、乗客はみんなここで阪急に乗り換えていくわけですよ。当然、神戸方面に行く人もいらっしゃるんでしょうけど、ものすごい流れがあって。その一方で、大阪始発の、大阪―宝塚間をひたすら折り返す103系っていうのは、ガラガラの印象しかなくて。スピードも遅いんです。前に張り付いてスピードメーターを見ていた記憶ですけど、いくら飛ばしても60キロくらいしか出してなかったです。何か、ちょうど分割民営化30年ということになりますけど、時間の流れはしっかり流れているんだなと気がしたんですよね。

奥井 僕もあんだけしか撮ってなかったけども、それでも別の意味でも思い出しますね。

―塚本駅から西を向けば、あの北方貨物線への分岐があって、そこに宮原へ回送されて行く列車が出入りするわけです。そこへ出入りする「雷鳥」が583系だったりとか、485系のボンネットのクハ481だったりとかが、まあ何とも……。

奥井 懐かしかったですね(笑)。

―ええ。「雷鳥」なんて、当時は何にも思ってなかったんですけど、えらいもんだなって。

奥井 時代でえらいもんですね、ホントに。

―そういう意味では、東海道本線の東京口でもいっぱい撮影されていて、今回のフィルムの中ではね。それこそ、続々と東京行きのブルトレが……。

奥井 やってきて来ます。

―なんか、待っていたらいくらでも来るっていう印象ですよね。通勤時間帯をちょっと避けて、だいたい朝方の早めに着くグループが、「瀬戸」とか「出雲」。そしてラッシュ時が終わってから「富士」や「はやぶさ」「みずほ」が……。

奥井 それがやっと撮れるっていう時間帯で。小田原まで夜行で行って、それからローカルで行って、着いて撮ってギリギリっていうパターンでしたね。

―それは「大垣夜行」ですか。

奥井 そうです。

―そして、横浜近辺で撮られている映像にしても、長距離は長距離でそうなんですけど、じゃあ近郊形はと言うと113系が……。

奥井 ええ。

―当然、全部113系の時代で、湘南色とスカ色がちょうど……。

奥井 入っていて。

―SM分離って言われる、横須賀線と東海道本線の運転を分離して、横須賀線が品鶴線経由になった直後ぐらいの映像のはずです。それこそ「雷鳥」以上に何にもありがたくなかった113系が、こうもありがたい映像なのかっていう、痛感する感じです。関西の方で言うと、快速にグリーン車がついていましたからね。当時は。考えてみたら、新快速は113系から153系になって、117系が導入されっていう時代であっても、113系の快速にだけグリーン車がついていたわけです。

奥井 あれは貴重な時代ですね。

―ええ。考えたら、117系と座席の乗り心地とか113系のグリーン車とあまり差がなかったんじゃないかなという気がするんですけど。117系が関西の近郊の主役の時代なんですが、丁度、私が高校1年の時にあれがデビューしてきて。それまでは、それこそ東海道本線の普通もガラガラでしたからね。高槻から先、京都の方に向かうやつなんか、だいたい通学しながら横に普通が来たら、お客の数を数えてましたからね。今日は7人とか、6人とかね。本当にガラガラだったんですよね。新快速が153系の時代に、スピード面で結構な力を出してきたんで、阪急は6300系、京阪は3000系を出して、逆に国鉄も対抗して117系が入ったっていう……。

奥井 そうですね、対抗があってこそ新車がどんどん入ってきてますからね。

―はい。あの当時の国鉄にして、この乗り心地で、いいなあって思った印象がすごく強烈で、未だに、湖西線とかで117系に巡り合ったら、やったって感じがするんです。

奥井 そうですね、僕らも117系は好きでしたけども。ほんとに、あとで各車の状況を見ると、かわいそうな気がしますね。

―はい。下関界隈で出会ったときの喜びもひとしおだったんですけど、あっちも居なくなったし。

奥井 広島色もなくなったし。

―今回は国鉄時代に、名古屋地区に投入され、ダイヤ改正前後で6連から4連になっているのがしっかりと記録されています。61年11月のダイヤ改正で、各地に都市型ダイヤが導入されて、編成を短くして本数を増やすという、今に繋がるダイヤになった改正ですね。

奥井 名古屋で12連があったと思うんだけどね。あれ、撮り損ねてしまった。

―ああ、その6連繋いでいるときに2本つないでいた、ということですよね。

奥井 そうそう。昼間、熱田駅においてあってね、ラッシュ時に動き出すんですよね。

―東海道本線は名古屋の次が熱田で、尾頭橋もなければ金山もない時代、中央本線の金山のちょっと名古屋寄りの場所で撮影されていますが、あそこも待ってたら次々と……。

奥井 そうなんです、十分楽しめるもんで(笑)。

―(笑)。あとあと私鉄篇には名鉄の車両もいっぱい登場してくるので今回はカットしていますが、あのナマズ(モ850形)がまだ居る頃ですね。勿論7000系もバリバリ走っているし、楽しい場所ですよね、あそこは。

                             (その2)へ続く

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奥井宗夫のむねのおく 2−22

「よみがえる総天然色の列車たち第2章22

蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その2)



―そして最後の2ヶ月とか、そして最終日のフィルムとか、沢山ショットを重ねて撮ってらっしゃるんですけれど、いよいよって感じの頃ですよね。もちろん全国的にはまだ少しあって、蒸機の全廃は2年先なんですが、もう亀山なり三重県では最後ということになりました。地元の奥井さんにとっては如何でしたか。

奥井 単車で走れるところは、単車で走りました(笑)。125ですから、力がないですからね(笑)。

―(笑)。もう走り回って、とにかくフィルムに収めたるんだって言う感じですか。

奥井 最後の時は、ちょっとコンパーノとかそのへんの、1000ccぐらいの車に乗ってましたが、それまでは全部、125ccの単車で走りました。

―最終日の朝もバイクで亀山駅に……。

奥井 いや、あれはね、最終日は列車で行きました。亀山に着いて、あの列車(821列車)で下庄まで戻って、また戻って、また、最終(826列車)を迎えに一身田まで行って、撮りました。

―今回は、久々に奥井さんの行動を時刻表でたどりました。

奥井(笑)

―つまり、このフィルムはどういう中味なのかを確認したわけです。間違いなくこの下りの821列車に乗って下庄で降りて、この列車のディーゼルで戻ってきて、一旦この列車に乗ってまた一身田に行って、それで826に乗って帰ってきた、と。その上で、昼間亀山にいる間にどういう列車が出入りするかというのを調べていきました。この列車とこの列車と、ここに走っていた荷物列車があったのかどうかとか、皆で調べて、一旦台本に書いたことが間違いないことを確認しながら作っていくという編集だったんです。それ自体が作業として、非常に面白かったんです(笑)。

奥井 それは面白いだろうなあ(笑)。

―ええ。

奥井 僕も大体の検討働かして動いたんですが(笑)。

―最終日は、今までDD51に替わっていたのを、最終日だと言うのでまたD51に戻した列車も何本かあったんですね。

奥井 ええ。そういうことまで、私は知りませんでした。

―予定外だったんですか。

奥井 もう全然、予定外で。来るものは何でも撮ってやろうと、構えていますから。

―でも、分かってる人もいたんでしょうかね。待っていた感じがあって。

奥井 ええ。

―相当な数のファンの人や、ファンでない人も含めて来られていたみたいで。

奥井 いっぱい行くから、どうしても隣のホームへ逃げな仕方がない。だいたいそれで、成功しとると思うんですよ。

◆    

―その、一番成功していると思われたのが、大阪駅!

奥井 はい。C61ですね。あれはホントに、大成功でした。これはもう、人で人で何とも仕方ない……(笑)。

―わかります。僕は京阪100年号の時に大阪駅に行ったんですよ、昭和51年の9月4日。中学1年生だったんですけど。これに輪をかけた騒ぎで……。

奥井 ええ。

―結果的に事故まで起きてしまったんですが。ただ、私は実際には、このC61の白鷺号は見てないんですけども、この大阪駅のC61のフィルムの雰囲気は、すごくわかる感じがしますね。大阪駅にその、蒸機が入って来るっていう、この得も言えぬ感動というか。

奥井(笑)奥井 でしょうね。同じようなのが、さよならの、天王寺のEF52ですよね。

―シリーズ第1作の「電気機関車篇」のラストシーンに登場しましたね。

奥井 あれも良かったですよね。

―あの雰囲気、時代的にも割と近いところで、片や蒸機が、こちらは動態保存されたC61が東海道・山陽本線を走るぞというのと、同じような時代で……。

奥井 設定ですよね。

―EF52がこっちはもう、電機なのに早くも引退するっていう。

奥井 そしたらね、「奥井さんが撮っていた写真のここで、僕は写真撮っていたんだ」っていう人が現れましてね。

―はいはいはいはい。

奥井 「奥井さんが撮っているすぐ前で撮ってたんだ」って(笑)。

―(笑)。あの、私のところにも連絡がありましたよ。奥井さんが撮っているフィルムの車窓風景のこの場所にいたんです、って言う人……(笑)。

奥井(笑)

―それで奥井さんはこの時、大阪駅で入線から出発を撮って、加古川へ飛んだわけですね。

奥井 ええ。

―面白かったのが、加古川を渡るのをPANで撮っていて、そのままカメラは土手の方へPANしていくんですね。そしたら、ファンの人が一杯いるいうとこまでちゃんと撮っているところが面白くて。

奥井 加古川で国鉄を降りましてね、タクシーに乗ったんですよ。そしたら、いきなりグーンと反対の方へ走り出しましてね。一体どうなっとんやって言ったら、いや実は一方通行でこっち行かな仕方ないんですよって言うて。それでズーッと行って、それから折り返してバーッと裏道走ってくれてたんですよ。それでうまいこと堤防へ着けてくれたもんだから、こっちは着とるもの、足ギリギリのところまで脱いで……。それで真ん中の浅瀬に行ったんですよ。

―水の中に入っているんですね。

奥井 はい、入ってます(笑)。

―気合入りましたね(笑)。

奥井 何とも仕方ないと思ったもんで。

―あー、場所がない。

奥井 場所がなかった。こっちはもういっぱいですから。ですからもう、逃げ場がなかったんですよ。

―そんな騒ぎになってたんですね、この時。

奥井 とにかく、どこに行っても人がいるんですよ。もう、あそこの中洲へ行かな仕方がないと思って。で、中洲へ上がって、それで一応、あの距離ではちょっと遠いけど、仕方がないなっと思って、撮ったんです。

―はあ。

奥井 そしたら、後ろをうまいこと撮れましたから。

―却っていいアングルに入ってましたね。

奥井 はい。もう、最後の大型蒸機って言うことはわかっていましたから。

―そうですよね、この本線を走る、しかもC61が山陽本線を走ったのは、これが初めてじゃないですか。

奥井 そうです。ですからね、あれは貴重なフィルムで、C53の時(昭和36年、C5345の東海道・山陽本線の復活運転)とおんなじぐらいのことやったと思うんです。

―この前に、シロクニで同じ白鷺号が走ったことは何度かありましたが、シーロクイチはこの日1回ですね。

奥井 1回です。

―これは貴重ですね!

奥井 面白かったですよ。

―それで、加古川から駅に戻られて……。

奥井 すぐ姫路に行って、姫路城を見に行ったんです。

―もう先に着いているし、取り敢えず姫路城ですね(笑)。「白鷺号」やから「白鷺城」を撮っておけってことですか。

奥井 そうなんです。

―別に姫路城、その日に撮る必要ないと思うんですけど。

奥井 なかったんですけども、行ってないもんですから、ぜひ行きたいな、と。

―あ、そうか。このタイミングを逃したら、なかなかいけないから。

奥井 そうです。

―なるほど。

奥井 それでそこで精一杯遊んで、もう、すぐに帰ってきたんです。

―あの、だいぶカットさせてもらいましたけど、相当なカット数回ってましたね、姫路城で。

奥井 はははっ。

―フィルムを見ていると分かるんですけれど、この後山陽電車で戻ってるんですよね。

奥井 うーん、なるほど、なるほど。

―それで大阪駅へ先行して戻って、それで……。

奥井 1回ね、須磨浦で山へ上りかけたんですよ。ところが上から撮れないってことが判ったもんだから、それですぐまた電車に乗って、戻ったんです。須磨のワンカットが確かあったと思ったんです。

―ありましたね。

奥井 あったでしょ。

―あれは西日本私鉄篇で使いましたけど。それで大阪駅へ戻って、これがまた僕の世代から言うとたまらないんですよ。11番線に雷鳥がいて、10番線に入って来るわけですよ、シーロクイチが。いやあ、いいですよね、これ。

奥井 1日でギリギリ撮ってますから。この後、鶴橋で弁当買って、帰ってる。

―(笑)なるほど。鶴橋なんて、何十回も、何百回も行ってるはずのものが、全部その辺の思い出がセットになっているんですね。

―次に出てくるのが、駅弁のあら竹さんの経営するドライブインに保存された、C11。

奥井 ええ。あれが部品取りになってしまって、残念ですけどね、仕方ないですよね。

(編集注:昭和63年に大井川鉄道に譲渡され、動態復元された。SL急行に活躍したが、老朽化のため平成19年に引退。ボイラと汽笛をC11227に提供した。)

奥井 それで、あれ、かわいそうに、ちゃんとした小屋建ててもらったんですけれど、あれ、非常警報で天井、抜いちゃったんですよ。

―どういうことですか。

奥井 あれを据え付けてしばらくしてから、誰ぞが運転席に登って、非常警報の発煙(信号炎管)、あるでしょ。あれを誰かが悪戯して引いちゃったんですよ。外しておきゃよかったのに、それを残していたんですよ。―アッ!機関車にその非常用の発煙筒が付いてた!

奥井 そうなんです。

―ああ!それでなんかわからんけど、さわってたらシュワッと……。

奥井 出ちゃった。

―炎が上がって屋根が……。

奥井 ええ。それで火事になったんです。 小火ですね。

―あらま、それは災難でしたね。

奥井 あれから1週間ぐらいの事やったかな。

―じゃ、たった1週間で、あの屋根が無くなったってことですか。

奥井 いや、半分燃えてしまって、あとは外したんじゃなかったかな。

―そうなんですか。

奥井 うん。ま、二度と起こらない事故ですけどね。

―そんな物付けたままにしてませんからね。触れないようにしてるし、入れること自体も多くないですからね。しかし、この機関車が、のちのち大井川に行くことになって、動態復活するとは。

奥井 思わなかったですね。

―あら竹さんはよくぞ保存されたことです。

奥井 ええ。先々代の新竹亮太郎さんっていう人。その人の実力やったと思いますわ。

―機関車とか、お好きだったんでしょうか。

奥井 うん、好きでしたね。

(編集注:C11312を保存した新竹商店の2代目社長・新竹亮太郎さんは、駅弁やとして機関車にお世話になったので恩返ししよう、ということで国鉄から話のあった機関車の買い取りを決断。ドライブインに保存した。あら竹のホームページ http://www.ekiben-aratake.com/ より。)

―今の社長は、お孫さんということですか。

奥井 そうです。

―なかなか元気な方で。割と鉄道の勉強もされていて詳しいしね。好い方なんですけど。

奥井 ま、今度出たから、ちょっと格好がつきました(笑)。

―あら竹さんのお弁当には、奥井さんのお店の野菜が使われているんですよね。

奥井 ええ。

―C11312号機は大井川に行きましたが、まだその前の時代の大井川鉄道を、奥井さんはしっかりと撮られています。当時のフィルムと、今とそうそう違う感じはありませんね。

奥井 ええ。

―しかし、国鉄の山口線でSL復活するまで、私鉄の大井川鉄道や西武山口線でしかSLが走っていない時期がありました。今回のフィルムの中ではズバ抜けて後の方のもので、昭和56年の撮影ですが、時代的には国鉄の山口線でSLが復活した後の時期のものです。しかし、蒸気機関車はこの大井川鉄道を足掛かりに、これから逆にまた各地で動態で復活していきましたので、ここは未来に繋いでいく、そういう感じでシリーズを終わらせるように、大井川鉄道をラストに持って来させてもらいました。

奥井 確かにその通りですね。

―何か、格別に思い入れってあって行かれたんですか、当時は。

奥井 そうですね、僕としてはC56が少なかったですから。それが動いているっていうことで、行きました。C11とC56、2台動いていましたから、やっぱり行かなきゃいかんな、と思いまして。

―はい。

奥井 そのあと、旧東海道を11年かけてずっと全区間歩いた時に、もう1回、立ち寄りましたから。

―なるほど。丁度クロスしますからね。大井川鉄道と東海道は。

奥井 しかし(国鉄)山口線は行きませんでしたね。行きたいっていう気はあるんですけれど、客車がどうも気に入らんので(笑)。

―それはね、あるかもしれないですね(笑)。そういう意味では、大井川鉄道というのは、ずっと一貫して旧客で。

奥井 そうなんです。どうも、あの山口線の客車は気に入らない(笑)。

―(笑)。ある意味、この当時からほとんど姿を変えることなく、同じスタイルで大井川鉄道は運転を続けてきて、それはそれですごいことだと思います。

奥井 あれは白井昭君が偉かったんですよね。ポリシーがあった。あの人は。

―そうですね、これはやっぱり白井さんの鶴の一声みたいな……。

奥井 そうでしょうね。鉄道友の会で一緒になった時期があるんです。

―はい。名鉄から大井川鉄道に出向されて、副社長になられたかたですよね。えーと、パノラマカーを作った方でしたか。

奥井 ええ。

◆    

―こうして足掛け5年掛かりで、22巻。とりあえず「よみがえる総天然色第2章」は、一旦これで完結します。ほとんど無駄にしていないというポリシーでフィルムを出し尽くしたら、22巻出来たということです。

奥井 恐ろしいですねえ(笑)。

―(笑)

奥井 いや、恐ろしいですよ(笑)。

―冒頭でもこの話をしましたが、何か、すごい足跡ですよね。

奥井 ええ。

―改めて振り返って、感慨深いものがあります。奥井さんのその、動いた距離と行動力と、それに勿論、好きだからという、思いはあるんでしょうけれど。

奥井 よう歩いたもんです(笑)。 ま、健康だったからこそ、歩けたんです。

―ええ。本当にありがとうございました。お礼を申し上げるわけですが、でも、これで実は、終わらないんですよね。

奥井 はい。まだ、ちょっと残ってますからね。また、別の機会に。

―あの、今回の「よみがえる総天然色第2章」というのは、奥井さんの、実はサイレントフィルムだけで作ったんですが、この後の時期に、奥井さんのサウンドフィルムで撮るカメラ、キャノンの1014XLを買われて。

奥井 そうです。あれはねえ、知っとる人が、自分はビデオに替えるから引き取ってくれって言われて、半額でくれたんですよ、ポーンと。夢みたいな話ですよ。

―豪華なカメラでしたからね。

奥井 豪華です。

―当時、私は買いたくても買えなかった。

奥井 みんなのね、あこがれの的のカメラですけれどね、値段が高くて買えなかった。それを半額で、ポンとくれた。私に譲ってくれたんですよ。

―なるほど。

奥井 常識では考えられない。それで自分はソニーのビデオに替えちゃったんですよ。TR50とか何とか。もう、ソニーの直ぐの機械ですよね。

―でも、結果言えば、当時のフィルムとビデオは比べてどうかと言えば、フィルムの方が圧倒的に色もきれいだし、保存状態もいいんですよね。そこで、これからそのフィルムをまた新たにお借りして、テレシネをして、僕もまだどんな中味があるのかわからないのですが、それを極々近い将来に続編として、また世に送り出したいなと思っています。

奥井 わかりました。よろしくお願いします。

―こちらこそよろしくお願い出来ればと思います。何が出るか、すごく今から楽しみにしております。まずは、とにかく、ありがとうございました。

奥井 ありがとうございました。

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奥井宗夫のむねのおく 2−22

「よみがえる総天然色の列車たち第2章22

蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その1)



―今回で22巻、奥井さんの作品集、一旦、最終巻ということになります。蒸気機関車篇の3本作った3本目です。

奥井 結構、見ごたえあります。

―今回、奥井さんが改めてごらんになったところで、一番のポイントはどんなところですか。

奥井 やっぱり、専用線二つ。

―ほうほう。

奥井 スチールでは値打ちないけど、あの頃は皆カメラ持ってないし、(映像が)あーやって動くと値打ちあるなあ。

―はいはい。

奥井 やっぱり、動く物は貴重だわ。もうちょっと、撮っときたかったんだけどな。

―石原産業さんに聞くと、ときどきそういうフィルムがないかっていう問い合わせが来るんだそうですけど……、

奥井 うん。

―ありませんって答えるらしいんで(笑)。石原産業の人に言っておきました。今度からウチに連絡ください(笑)。

奥井(笑)

―最終日のフィルムがでてきますけども、結局工場と塩浜の駅を行ったり来たり……。

奥井 そうそうそう。

―しているわけなんですね。見学に来た人を機関車に乗せたり……。

奥井 そうそう。あのフィルムの通りです。

―なるほど。

奥井 お祭りみたいなもんやったな。最後はな。

―工場の中だけでなく、いっぱい外からも……。

奥井 外も中もみんな盛り上がっていたよね、みんな。まだあの時はマニアが少なかったのに。

―まだ、1968年、昭和43年ですから、いわゆるSLブームには……。

奥井 ちょっとほど遠いね。

―ま、追っかけてる人は追っかけてるという頃で。まだまだいっぱいあちこちで見られたから……。

奥井 そうそう。東芝にも1台いたし。

―はい。

奥井 僕は、あそこに行きたいなと思ったんやな。小名浜に。

(編集注:小名浜=小名浜臨海鉄道、現福島臨海鉄道。いろいろ謂れの多い蒸気機関車が在籍していたが、最後は旧国鉄のB6形であったC508<2120形2256、昭和38年廃車>・C509<2120形2256、昭和41年廃車>が活躍していた。廃車後、昭和41年に2台とも解体された。)

―小名浜。

奥井 あそこは行きたかった。でも、「行っても奥井さん動かへんよ」って言われた。

―平に行った時に、行きたかったけれど行けなかったという話の所ですよね。

奥井 そうそう。東武にも一回行って失敗したからね、完全に。もう、蒸気機関車はなかったんよ(昭和41年に全廃された)。

―はあ、そうですか。キットソンとかね、あの辺が……。

奥井 ネルソンとかキットソンとか、あれよかったよ。罐は良かったんやけど、いざ走り出すと、もうガッサン、しばらくしてガッサン、何ともしようがなかった(笑)。

―確か、あまりにも哀れでフィルムを回さなかったって、以前言っておられましたね。

奥井 うん。ありましたね。

―でも、割とこの石原産業の蒸気機関車は、状態がよかったんですね。

奥井 良かった。最後まで良かったですね。

(編集注:昭和41年7月に国鉄長野工場で全般検査を受けていた。それからわずか2年で廃車されたことになる。)

―きれいにね、整備されているように見えましたけど。

奥井 尤も、そんなに飾りもなかったし。

◆    

―今回はちょっと冒頭に西武山口線を持ってきたりして、そういう風なちっちゃい機関車から入ってみたんですけど、その西武鉄道の山口線ですが……。

奥井 あの、弁装置がよかった。アラン式でね。

―はい。

奥井 あれがいいから、やっぱり値打ちがあると思って、こっちも一生懸命撮った。

―まあ、何か変わった動きをしていますよね(笑)。

奥井(笑)

―どう説明していいのか、見ていただくしかないんですけど。

奥井 やっぱり、あれ、みんな見ていないからね。あれなんか、絶対見るべきもんや、と思います。

―カムみたいな感じで。

奥井 そうですね。大分位相をずらして、という感じがよう解ると思います。

―はい。非常に面白い動きをしています。

奥井 あれ、お守りするのは大変だったやろうなあ。

―言っても、実際に西武鉄道がその前身の川越鉄道とかの時代に蒸機を扱っていたというような人が、この時現役でいらっしゃるとは思えないので。

奥井 あれ、ようやったと思う。

―もう、手探りで……。

奥井 手探りだったのか、頸城から連れてきたんか……。

―ああ、そうかもしれないですね。技術指導を受けて。

(編集注:西武鉄道の運転士が蒸気機関車運転免許を取得するまでの間、機関車とともに頸城鉄道の運転士が西武鉄道に出向してきて、整備・運転に当たっていた。)

奥井 そこらへんが、やっぱりどこでも苦労してやってるんだと思うんですよ。

―はい。

奥井 シゴイチの最後の頃に、C51が全国で16両残っとるときに全部残せって僕が言ったら、国鉄の人みんなに笑わられて。

―(笑)

奥井 残しとくんが正解だったんだよ、実際。

―はい。

奥井 1両だけでは動かないもの。

―部品取りしながらやるしかない……。

奥井 あら竹のC11も部品取りになっちゃったけどさ。

―でも、この西武の山口線、当時のテレビ映画に出てきたりとか、よくロケに使われていたんですよね。

奥井(笑)

―あの、「ケンちゃんシリーズ」か何かで見たことがあります。

奥井 うんうんうん。

―でも、考えたらその頃って、まだ蒸機の復活運転が始まって間もない頃だったわけですよね。

奥井 そうそう。

―逆に目新しかった。

奥井 ま、強引に突っ込んで正解やったと思うんですよね。

―なんか、回り回って西鉄が球団を手放し、太平洋クラブになり、クラウンになり、西武ライオンズになるんですけれども、西鉄が手放したことが西武山口線を新交通に替える原因になっている、というところに感慨深いものがありますけれど。ご存知のように、新交通システムに替わってしまって、面影は全然ないです。想像がつかないぐらいですからね。

奥井 いっぺん行かないかんね。

―まったく面影がないですから(笑)。初めて乗る線、みたいなイメージしかないかもしれませんが。でも、いいところですからね、あの辺はね。

奥井 行ってよかったです、正解です。

―そしてもうひとつが、長島スパーランド。尾小屋鉄道です。

奥井 尾小屋は、やっぱり松阪が多少関係あったもんですからね。客車をあそこへ持ってったんですよ、2両。だから特に思い入れがあって、一回団体旅行抜け出して、撮りに行ったことがあります。

―あそこへ持って行った客車というのは。

奥井 三重交通松阪線の334と333の2両、行きましたからね。

(編集注:この2両は静岡鉄道駿遠線に譲渡され、同線のハ27・ハ28となった。尾小屋鉄道には、サ331・サ342・サ321・サ322・サ352・サニ403・サニ401の7両が昭和25〜37年に譲渡され、同線のホハフ1〜3・5〜8となった。)

―この時長島で牽かれている客車というのは、井笠鉄道のホハ4と尾小屋鉄道のハフ1と2の3両を引っ張っていたわけですね。

奥井 ええ。

―井笠鉄道のものは、ローカル私鉄篇にでてきたあれですよね。

奥井 あれです。

―尾小屋鉄道もこのシリーズをよく見ていると、「国鉄ディーゼル篇」にチラッとワンカットだけ出てきます(笑)。

奥井(笑)。あそこはもっと撮りたかったけど、1日何便ですからね。撮れなかったですよ。

―それが逆に今回登場してきたわけですね。しかし、いくら鉄道100年の催しとはいえ、かなり大がかりなことをやっていたんですね。

奥井 長島さんね、一時ね、C51の225号機を保存しようという話があったんですよ。

―亀山の最後のシゴイチですね。

奥井 だから、保存してくれるもんやと思ってたら、逆に後になって一回、(長島スパーランドから)ウチに問い合わせが来たことがあったんです。「奥井さん、C51225はどこにいるんですか」と。―えっ!?

奥井 「もう、残ってないよ」って言ったんです。

―はい。

奥井 遅いですよ、何ぼなんでも。

―でも、国鉄じゃなくて、奥井さんとこに問い合わせが来るんですね(笑)。

奥井 国鉄探してないものは、ない(笑)。

―それにしても、鉄道100年記念の当時は、記念切手とかも出て僕も買いましたけど、これだけ大きなイベントをやったりして、それだけ大きなこととして捉えられていたということですよね。

奥井 そうですね。その鉄道100年記念切手の時には、シゴイチの動いとる写真ないかと言われて……。

―切手の図案用の元の写真ということですか?

奥井 はい。後になって、あったことに気付いたけれど、その時は、ないよと言いました。だからシゴイチの切手だけ、停まっている図案になっています。

―このシリーズの監修をお願いしている宮澤先生の写真も、いくつか切手になっていますが、それもまた、すごい話ですね。

―しかし、そういう時期を境に、残り蒸気機関車全廃まで3年というところで、いよいよカウントダウンが始まる時期でしたよね。

奥井 はい。

―その亀山機関区・奈良運転所の機関車を中心に、奥井さんは撮りまくられています。この時期に。

奥井 もう、めちゃくちゃ撮ってますね。フィルム代がえらかったですよ、あの時は(笑)。

―(笑)。前回から引き続き色々出てくるんですが、SLの晩年の時期になりますが、一言でいうと、当時はどんな感じでしたか。

奥井 まあ、フィルムは(現像のために)ハワイまで送らなくなったんが助かりましたね。

―現像が国内で……。

奥井 東洋現像所が出来たもんですから。で、国内で出来るようになって。ハワイだとどうしても現像に25日もかかるのよ。それには参った。

―東洋現像所と言えば京都でしょ。今のイマジカですよね。それで1週間ぐらいで帰ってくるようになったんですか。

奥井 1週間ちょっと。何よりも、それで助かった。フィルムもね、ダブル時代と言って(フィルムを)入換えをせんならん時代があったんです。

―ひっくり返して半分ずつ使うやつですよね。

奥井 あれからうまく早いこと、スーパーに乗り換えたもんだから、よかったですね。

―乗り換えた当時のカメラは何を使われてました。

奥井 キヤノンの、重たいカメラやったなあ、EEEというやつ。ダブルで、それが兎に角面倒と思とった時に新型が出て。それでニコンのX3だったかな、3倍ズームに変えたんです。それで当たったんです。

―カメラがいいと、どんどん撮りたくなりますからね。

奥井 はい。

―そうやって、色々と撮られてるなかで、今回はシゴハチが結構……。

奥井 多かったですね。けど実際はね、期間も2〜3年ぐらいかな、2年間ぐらいやったね。

―松阪方面に乗り入れてきてたのは、短いんですね。

奥井 はい。それで、DE10にすぐに替わるんかなっと思ったらこれが全然替わらずに、DE10は試運転の時に入ってきただけで、こちらには入らなかったですから。

―じゃ、その試運転に入った1回?

奥井 1回です。

―それを撮られているわけですか。

奥井 はい。それもね、C58とDE10と重連で入ってきて、それ1回だけですわ。

―そうですね、後ろにスロ62・スロフ62をつけて。

奥井 ちょっと重たいから2両で来とるんでしょ(笑)。

―なるほど。

奥井 しばらくすると、大体6両ぐらいしか牽かなかったですから。8両って言うのは、例外的です。

―もう、いっぱいいっぱいなんですね。それで結局12系を牽いて……。

奥井 ええ。主に臨時で12系だけですね。他の客車になると、全部シゴナナが牽いてましたから。

―はあ、なるほど。じゃあ、12系の時はシゴハチが牽くっていうのは、これは何故だったんですか。

奥井 客車が軽いですから。

―ああ、12系はスハ43とか比べると軽いから。

奥井 軽いんですよ。

―発電機を積んでても、尚軽いわけですね。10系と比べても。

奥井 そうそうそう。

―そうやって考えると、なかなか大した車両ですね。(笑)。

奥井 長さは長いし(笑)。

(編集注:車体長は、オハ61系・オハ35系が19.5m、10系が20.0mであるのに対し、12系は20.8mである。)

―なるほど。そしたら、運用の都合もあるけれども、シゴハチにはもってこいだと。

奥井 そうです、そうです。もうそのように、現場でも早くから決めていたでしょう。

―なるほど。信楽線・草津線の運用だけでは、手持無沙汰ですよね。役不足というか。

奥井 だから、ちょうどいい仕事やったと思うんです。

―なるほど。で、2年ぐらいしか入ってこなかった、そのあとはどうなったんですか、シゴハチは。

奥井 もう、一緒に無くなりました。

―ああ、最後の2年間ということですか。

奥井 はい、最後の2年間です。

―それとあと、奈良運転所のデゴイチですね。

奥井 あれ、うまいことこっち(紀勢本線)まで入ってくれました。もうちょっとね、混合列車を撮りたかったんですよ、ホントは。参宮線の伊勢市から向こう、鳥羽までの間は、混合列車がようけありましたから。それを撮りに行きたかったけれど、なかなか行く暇がなかった。

―伊勢市から先がパタッとない……。

奥井 ないですよ(笑)。あそこまで単車で飛ばしていくのはちょっと……。

―それは遠いですね。でも、デゴイチの、色々と装飾が見られるのがいいですね。動画で撮られているのは非常に珍しいと思います。

奥井 あの頃、みんな撮らなかったからね。高かったからでしょうね、フィルム代が。

―はい、動画はね。なんでこの時期、装飾をつけだしたんでしょうね。

奥井 結局、(SL)ブームですし、余ってきたのを次々、機関車を替えてきていますから。ですからああいう風に、どの機関車にも付けられるようになってきた。

―あれは、元々奈良にあったものですか。

奥井 奈良にあったものです。奈良の鹿。

―そうですよね。でも、「かもめ」があったり「ピース」があったり「つばめ」があったり、何か色々とあったんですね。

奥井 ええ。シゴイチの、あの3本スジもありましたからね。

―はあ、それは何のデザインですか。

奥井 あれはね、お召専用に使った機関車の印やったと思うんです。それと真鍮のところの磨き出しとね。

―はい。

奥井 あれも、たくさんあります。

―こうやって観ると、前に出た時にはそれほど思わなかった10系の客車が、今回、きれいだなあと思って。

奥井 意外ときれいでしたね。僕は、10系も35系もそんなに、気にはしてなかったですけどね。時々ちょこちょこっと1両だけ入って来ると、ちょっと嫌でしたけどね(笑)。

―そうそう、それは確かにそうですね(笑)。ただ、何両か揃って走ると……。

奥井 きれいですよ。

―臨時列車でデゴイチに牽かれて……。

奥井 もうちょっと活躍してほしかった車両ですね。

―見た目は、そのラインこそないものの20系に近い、前身みたいなものですから。

奥井 そうです。

―すごく美しい姿で、あの加太越えの大築堤を上がってくる……。

奥井 ええ。

―これは良かったですよね。色んな所でちょっと、色んな見え方がして。

奥井 もう12系だとね、加太へ行かなかったんですよ、僕ら。あ、12系かってね(笑)。

―加太越と言えば、一定以上の編成でしたら必ず補機が付いて行くんですけども、重連にはならないんですよね。

奥井 重連にはならないですね。後補機という格好で。姫路快速でもそうですから。あれもやっぱり、先に重連するとお客さんが煙にまかれるから。

―ああ!

奥井 で、どうしても後ろにつけますから。

―どれだけ窓を閉めていても、煙は入って来ますからね。

奥井 で、最後はトンネルで、遮断する幕を使うわけです。

―はいはい。

奥井 何とかかんとか押さえようとするわけですけど。それでも前の罐のは、まともに入ってきますよね。

―ええ、せめと言うことで、後ろにつけているっていう……。加太越えの基本スタイルは後補機だと。

奥井 そういうことです。

―これはデゴイチに限らず、みんなそうやって……。

奥井 みんなそうです。

―シゴハチでも重連は前についてっていうのは、なかったんですか。

奥井 なかったですね。荷物列車の軽い列車ですから。デゴイチは本務で、シゴハチを回送で持っていくときは前につなぐ。

―ああ、なるほどね。回送とかでね。

奥井 その時以外は、後ろですよ。

奥井 上りですと、(蒸機でも)前2両というケースが……。

―亀山行きでね。上り勾配の区間が短いから。

奥井 短いから、トンネル区間が下り(勾配)になっていますから。

―それが、いよいよDD51が付くようになって、前がディーゼルに替わっても後ろはデゴイチでという時期が来て、これはこれで感慨深いものがありました。

奥井 ま、撮っといてよかったな、と今になって思いますね。もう、ホントにアッと言ううちに替わってしまいました。

―はい。後にDD51が後補機でつくということもなかったんですか。

奥井 なかったですね、DD51は。もう、すぐに本務に入りましたから。両数も少ないし、前に本務についた方が自分(乗務員)ら楽ですから。

―ああ、なるほど。そりゃそうですね。逆にしたらしんどいわけですよね。

奥井 そう(笑)。

―それだけ乗務する人にとっては、過酷な路線だったわけですよね。

奥井 そうそう。あれはもう、苦しかったと思いますよ。

―ええ、毎日毎日大変でしょうね。

奥井 (トンネルの入り口で)テントを巻き上げる人まで要ったわけですから。

―窒息しますからね、冗談抜きで。

「よみがえる総天然色の列車たち第2章2 蒸気機関車篇<後篇>」のむねのおく(その2)へ

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「走れ!新幹線」 NHK BSプレミアムで動輪堂製作協力の番組を放映!


動輪堂の新作が不定期で放映中。「走れ!新幹線」。2014年9月放映のNHK-BSプレミアムの東海道新幹線開業50周年特番「まるごと新幹線」で集めた映像素材を元に30分番組4本を製作しました。夜中から明け方の時間帯の隙間を埋める「フィラー」と呼ばれる種類の番組で、ひたすら新幹線が走るだけの内容です。

しかし、見応えは充分! 特番では未使用だった映像や、ちらりとしかお見せできなかった映像を、これでもかと放出した怒涛の30分です。

何しろひたすら新幹線が走りまくるわけですから、好きな人にはたまらない中味です。しかも0系からW7系までの全形式が登場。

たっぷりとお楽しみいただけることでしょう。

初回の放送が決まりましたのでここにお知らせしますが、

以降も不定期に深夜〜早朝の時間帯で何度でも放送される予定です。



<放送予定>

『走れ!新幹線』(NHK BSプレミアム 30×4本)


☆タイトルと再放送予定☆

★(1)懐かしの0系 <2017年4月10日(月)午前4時30分〜午前5時[日曜深夜]

(2)車両アラカルト0系〜800系 <4月11(火)午前2時30分〜3時[月曜深夜]

★(3)車両アラカルトE1系〜E7系・W7系 <4月15日(土)午前5時〜午前5時30分

★(4)空から見た新幹線 <4月16日(日)午前2時30分〜午前3時[土曜深夜]

「鉄道博2015」

2014年1月10日(土)〜12日(祝)の3日間、 大阪ビジネスパーク円形ホール「鉄道博2014」に出展します。
   「鉄道博2015」の情報はこちら
  
http://www.tv-osaka.co.jp/tetsudou2015/

 
12月21日発売の最新作「よみがえる総天然色の列車たち第2章21蒸気機関車篇<中篇>」税込定価4,104円が税込3,000円、
その他の4,104円〜5,616円の全商品は一律税込2,000円(4枚目からは1枚+1,000円)など、動輪堂商品を大特価で販売します。

 その他、最新作「蒸気機関車篇<中篇>」他4作入り福袋4,000円、
 昨年大好評のつかみ取りも2,000円(商品お買い求めの方は+1,000円)で実施予定です。


奥井宗夫のむねのおく 2-21

「よみがえる総天然色の列車たち第2章21

蒸気機関車篇<中篇>」のむねのおく(その3)

―それで、中央本線ですね、C12の話がありましたけど。木曽福島区のC12が上松で、いつも1両来てやってるんですよね、入換えを。

奥井 はい。

―上松といえば、木曽森林鉄道の起点で。

奥井 あれは行きたかったんだけどね。チャンスがなかった。山に登ってしまうから。

―保存用ですけど、赤沢森林公園に行ったら、まだかろうじて面影を感じる……。結構長い距離を1キロぐらいかな、走るんでなかなか楽しめますよ。周辺には色々と廃線跡や鉄橋も残っているし、車両もたくさん残っているんですよね。あのダイヤモンド煙突の……。

奥井 ボールドウィン?

―はい。ボールドウィンも自走はしないけど、とりあえずアントか何かで引っ張って、動かしてくれたこととかあったんですが、散髪屋の車とかの保存車両のことなどを思い出しながら、中央線のフィルムを拝見していました。しかし、やっぱりデゴイチですよね、中央西線は。

奥井 西線となると、やっぱりデゴイチを撮る。

―寝覚の床の場所は、結構名所ではあるんですけども。

奥井 はい。

―車窓からも見えるし上からも見えるんですけど、あそこは、断崖沿いを鉄橋ですり抜けています。

奥井 あそこは撮りにくいですよ。景色はいいんだけどね。

―はい。あの撮影は塩尻から同じ日ですか。

奥井 同じ日です。

―天気が良くなっていくんですね。昼から午後にかけて。

奥井 はいはい。

―ちょっと読み方がわからなかったんですが、臨時の旅客列車が出てきて、「木曽路D51号」(きそじでごいちごう)か(きそじでぃーごじゅういちごう)か判らないんですけども、この頃にはもう旅客列車は……。

奥井 なかった。

―だいぶ早かったんでしょうか。旅客列車がなくなっていったのは。

奥井 1年ぐらい前と違うかな。

(編集注:中央西線の蒸気機関車牽引の定期旅客列車最終日は、多治見―名古屋間が昭和41年6月30日、中津川―多治見間が昭和43年9月30日、塩尻―中津川間が昭和46年4月25日。奥井さんの撮影は昭和46年秋)

―ああ、そうですか。

奥井 うん。だんだん追いつめられていました。

―今回登場しないんですが、別の巻(7巻国鉄ディーゼル篇<前篇>)ではここを走っているキハ181系の「しなの」が既に活躍中の時代ですからね。

奥井 そうそうそう。それにキハ91系。誰も撮っていないです。

―その辺は「第2章7国鉄ディーゼル篇<前篇>」でご覧いただけますね。今回は温存していた中央本線のデゴイチの方を紹介しますが、七尾線でもC58にC11、C56とバリエーション豊かに出てくるんですが、どれも旅客列車は臨時列車です。

奥井 旅客列車はもうなかったですね。

           

―七尾線の「おくのと号」は如何でしたか。

奥井 客車が良かったですよ。半室お座敷で、半室食堂にしていました。

―その食堂は営業していたんですか。

奥井 営業してたんです。

―乗られて、何か召し上がったんですか。

奥井 はい。和食のカウンターでおでんみたいなのを……。

―はあ、よろしいですなあ!

奥井 よろしいですよ!

―この列車は金沢発でしたね。奥井さんは羽咋から乗られたんですね。

奥井 ええ。

―羽咋で「おくのと号」の到着を撮られてますね。そのあと和倉で降りられてますが、列車は能登線の珠洲まで行くんですよね。もし珠洲までおでんを食べながら飲んでいったら、出来上がってしまいそうです(笑)。

奥井 そうですそうです(笑)。だから早く降りたんですよ(笑)。4両繋いでいるし、お客さんも結構乗っているんだけれど、食堂のお客さんというと少なかった。

―はあ。あれなんじゃないですか、蒸気機関車を目的に乗る人は、飲みながら乗るなんてことは……(笑)。

奥井 でも、撮りに行く人もそんなにいないんですよ(笑)。しかし、いい列車でしたよ。オハ35系がほとんどだったけども、その食堂、改造食堂だけはスロぐらいの改造やったな。(編集注:スロフ53形の改造車)

―このために改造されたものなんですか。

奥井 と、思う。だから良かった。なかなか。

―そのあと、どうなったんでしょうね。

奥井 あれ、どうなんたんかな、あれこそ使いようがなかったと思う。

―で、そのあと、車で追っかけて、シゴロクの貨物を撮られていますよね。

奥井 うまいこと、タクシー来たんですよ。「おい、ちょっと待てー」ってな感じで停めて(笑)。

―タクシーで、付け移動ですか。追っかけで(笑)。

奥井 もう、しょうないですよ。そうなったら(笑)。

―当時、そういうSLを追いかけるようなお客さんは他にもいらしたんですかね。タクシーの運転手としてはどうだったんでしょう。

奥井 上手かったよ、だけど。

―ピッタリと(笑)。

奥井 「もうちょっと前、もうちょっと後」(笑)。

―(笑)

奥井 「もうちょっと早よなんないかな」(笑)。

―(笑)

奥井 「もうちょっと前に回ってくれ」(笑)。

―そういえば思い出したのですが、上田交通のフィルムで、NHKのワゴンが付けて走ってましたよね、奥井さんが乗ってる電車を(笑)。

奥井 あれと一緒(笑)。

―危ないことしてね(笑)。

奥井 あんな危ないこと……(笑)。

(編集注:機材車の屋根のキャリアに乗って、命綱無しで撮影していた。「第2章10ローカル私鉄篇<前篇>に収録)

―タクシーの中では危ないことはなかったでしょうけれど。ピッタリと付け移動しているので、お友達と行かれていたと思っていたのですが、この時はタクシーだったんですね。

奥井 ひとりだけです。

―それでまた、七尾機関区へ行かれて。当時というのは、割とどこの機関区でもポッと入れたんですね。

奥井 もう、ホントに自由に入れて。

―そうですね、一言断れば、ですね。

奥井 しかもディーゼルの入換えまで撮ってるもんね。

―はいはい。なんかその、小さなあの程度の規模の機関区であっても、入換えをして、ターンテーブルがあって、すごく華やかなんですよね。

奥井 そう言えばこの間、伊賀上野のケーブルテレビかなんかがね、関西鉄道の番組をやってました。

―えー、そうですか。

奥井 ええ番組やったよ。

―それはすごいですね。

奥井 崩れかけたターンテーブルを映してました。

―それはどこにあったターンテーブルですか。

奥井 柘植の駅です。今の構内の様子も良かったね。それと古い伊勢新聞なんかも出してきてね。うまいこと、まとめていました。いいフィルムでした。僕と同じ年の頃の人が撮った蒸機の写真、良いのがたくさんありました。

―なるほど。手をかけて作っていたんですね。それにしても、蒸気機関車篇の前篇は本線系の大型機がまだまだ活躍してた頃のフィルムで、今回の中編はどちらかというと関西本線・紀勢本線以外の各地では蒸機が無くなってきた時期になってきている頃という内容です。

奥井 だからよう解る。

―C56であるとか、C58であるとか、そっちがクローズアップされてくるようになってきているんですね。

奥井 僕としては、シゴナナは撮ってあるわけだから、そこらへんに目が行っちゃうんですね。だから、七尾線も突っ込んで行った。突っ込んで行っといて、よかったと思いますよ。その代り、信楽線なんか、よう行かんかったけどね。信楽線、全然行ってないの。あれ、残念やわ。

―近かったのに、残念ですね。

奥井 あそこのC12あたりなんか、撮りたかったわね、ほんと。

―はい。

奥井 もちろんシゴハチの時代もあったんやけど、それも行ってないし。ま、ちょっと遠かったんだな。

           

―でも、逆に頑張って、あの、会津若松までは行かれました。

奥井 あれは友達と一緒の慰安旅行を、一人だけサボったんです。

―(笑)

奥井 朝の4時にタクシーを呼べって言うて。

―というパターンですね(笑)。

奥井 うん(笑)。で、駅まで走ってもらって。それで撮りにいたんです。

―ちなみに、どこで別れたんですか。

奥井 東山温泉で別れてね。会津若松の奥座敷ですよ。そこからタクシーで駅まで行ってもらって。

―近いところまで来ていたんですね。

奥井 で、あれだけ遠征したわけです。

―じゃ、まずは日中線に乗られたと。朝。

奥井 そうそうそう、朝。一番で日中線に行って。

―はい。

奥井 男女がね、あれだけ車輌に分かれて乗ってるとは思わなかってね。ビックリした!

―それはどういうことですか?

奥井 男女席を同じゅうせず、ていう。そういう関係でしょうね。

―要するに、朝の通学……。

奥井 パカッと分かれている。

―何となく、あっちの学校は、男子はこっち、女子はこっちみたいな、だんだん分かれるのが習慣になって、別の車両に乗っているという感じです。あれはびっくりしちゃった(笑)。

―うっかり、女子の方に乗ってしまったとか(笑)。

奥井 はじめ乗って、なんか雰囲気がおかしいなと思って、すぐに男の方へ行って……(笑)。

―あ、移動したんですか(笑)。別に言われてないし、そのまま乗っててもいいんですけども。

奥井 そうそうそう。で、行きは熱塩まで行ってしまってさ、帰りは、上りは貨車の入換えをしながら帰って来るんです。

―はい。

奥井 やっぱりちょっと時間かかったし。楽しみましたよ。

―上り列車のフィルムって全然なかったですよね。

奥井 上り列車のフィルムって、とてもとても。お客さんで一杯だから。だから全然撮れませんでした。1日3便の列車でしょ。あれで皆、よう学校へ通ってたんだなあ、と感心しましたよ。ほんとに。

―それでフィルムがないんですね。そのあと、会津若松運転区に行かれた。

奥井 そうそう。同じ日です。その時にしか、行ってないもん。戻ってきてから会津若松運転区をちょっと撮って、それで帰ってきたんだわ。

―なるほど。僕が勝手のコメントを書いたんですけども、いわゆる蒸気機関車がいよいよ無くなるぞって言うんで、この時代には学校の教材にもなってきた、という風に(笑)。小学生が運転区に写生に来てるっていう、多分地元の子どもだろうと思うのですが、そんな微笑ましい姿があって、なかなかいい。大きな運転区ですしね。

奥井 大きくなっているでしょうね、あの人らも(笑)。

―もう、50代(笑)。

奥井 なんでしょうねえ。すごいことだなあ。

―それにしてもその、無くなりかけてはいるんだけれどもまだ蒸機がバリバリ現役の、丁度そういう時代じゃないですか。

奥井 そうですな。

―まだ末期でもないし、その辺の時代のフィルムなんですけども、全体をご覧になっていかがでしたか。

奥井 もうちょっと行きたいところはいっぱいあるんだけれども……。

―ま、言っても、毎度毎度の話になりますけども、お仕事柄(笑)。

奥井 ギリギリ動いています、仕方ないです(笑)。

―平日は近くで撮るか、野菜の箱の中にカメラを忍ばせて近くで撮るか、あと遠征するのは週末か年末年始で、というところで……。

奥井 なんせフィルム代が高かったもの。

―もう一つ蒸気機関車篇が続きますので。ここで何が見られるのかは楽しみにしていただくとして。今回も私自身、作りながら非常に楽しませていただきました。ありがとうございました。

奥井 意外と楽しめたと思っています。私。

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奥井宗夫のむねのおく 2-21

「よみがえる総天然色の列車たち第2章21

蒸気機関車篇<中篇>」のむねのおく(その2)

―話は戻りますが、シゴナナの4次形は、乗務員の方にとっては密閉式キャブってどうだったのかなって。結局、後ろは空いているから、あまり変わらなかったのではと僕は思うんですけど。

奥井 あの罐(C57198)だけ、ちょっと違うって思ったな。石炭もコールバンカーもスッと欠き取りがないし、背が高いしさ。

―え、高いって言うのは?

奥井 あの、石炭の具合や水の具合を見に行くのに、だいぶ登っていかなアカンでしょ。

―あー、なるほど、(テンダの)角が取れてないから。

奥井 そうそう。それで頭をゴチンと打った人、居るんとちゃうかな(笑)。

―とは言え、メカニカルストーカーが付いているわけでもなく。

奥井 そうそうそう。

―あれはC61からですもんね、メカニカルストーカーが付くのは。

奥井 中途半端みたいな、でもないみたいな。まあ、外観的にはまとまっているんだけどもね。

―はい。別にその、シゴナナらしくないかと言えばそうでもない、やっぱり綺麗な形で。

奥井 ボイラも太いしね。

―ボイラ、ちょっと太いんですか!?

奥井 太い。ちょっと太い。

―ほお。パッと見た目に、あまりイメージが変わらなかったので。

奥井 でも、確かに太いわ。あれは。図面見なきゃ判んないけど。

―割と車両ごとに、1両ごとに編集が分かれていて、順に出てくるという形で紹介ができているんですけれど。そういう意味では、つぶさに……。

奥井 罐の違いが分かってよかったね。

―ええ、面白かったなって言う印象があります。だから長呎たっぷりとつないでも全然飽きることが、僕の中ではなかったです。

奥井 僕もやっぱり、思たよりも楽にいったなと。

―はい。

奥井 しかし、まあ、アホみたいによく撮ったもんだな(笑)。

―いや、列車の本数が少ないわけですからね。それなのに……。

奥井 同じ所で撮ってないからね。

―そう、場所を変え場所を変え、撮っていたっていうことですよね、これは。

奥井 はい。

―その後、蒸機が無くなるまでの分は後篇で登場すると思うんですけども、そういう意味では労作だなあと。近鉄特急を撮っているよりも多分、ご苦労の度合いが違うだろうな、と。

奥井 近鉄特急もよう撮ってるでしょ。

―はい。ただ、その運用の数が、多いじゃないですか。それで言うとね、少ない列車をピンポイントの位置で、天気さえよければ撮りに行かれているんじゃないかという気がして。

奥井 あーそういえば、天気だけはよく見とったな。

―ええ。

奥井 まあ、山登っとったから天気だけはよく見とったよ。

―今日は参宮線から、多気を通って、徳和を通って、こちら松阪まで伺ったんですけれど、その途中で、撮影場所を「ここか、ここか」みたいな感じで通って来ました(笑)。

奥井(笑)

―「あ、ここ、線路曲がってるな」って思いながら、気づかなかったなとか、いろんなことを発見しながら来て、すごく楽しかったんです(笑)。

奥井 そうだなあ、僕らでも乗っとって、幸せに思うもんな。

―はい。

奥井 この間から、伊賀上野まで2往復ぐらいしてるけど、やっぱり面白いなあ。

―やっぱり、線路沿いで撮り歩いた者にしか解らないものがありますよね。「あーここで撮った」とか、「ここでどうした」とか。

           

―今回、紀勢本線・参宮線を中心にしているわけなんですが、和歌山線……。

奥井 あれ、良かったよ。

―試しに台本の下書きで貨物の荷物はみかんかな、みたいなことを書いてあったら……。

奥井 みかんです。

―実際にみかんだったということでした。

奥井 ホントに編成が長かったもの、あそこの線は。

―ということは、12月なり、秋からの出荷時期になると編成がぐっと伸びる感じですか、柿とみかんで。

奥井 ええ。

―機関車はというと、シゴハチだったりするんで、とっても北宇智を越えられない……。

奥井 うん。

―あそこの勾配、どれくらいあるんですかね。五条から……。

奥井 25‰、あるんかしら……。

―じゃ、もう立派な勾配ですね。吉野口まで行くと、一段落するわけですか。

奥井 そうそう。

―ですよね。あとは盆地に入ってしまって……。

奥井 そうなんです。五条から先は川沿いやしね。

―はい。

奥井 一遍全線乗りたいんやけど、ちょっと残してますわ。

―あ、そうですか(笑)。言っても電化してしまってからは、105系とかですからね。ロングシートで、何かねえ……。

奥井 落ち着かないねえ。

―落ち着かないですねえ。

奥井 あーいうとこにちょっとでもクロスシートを入れるといいんだけど。

―そうなんです。まだ五条まではね、221系が来るからいいんですけども。紀勢本線もそうですが、ロングシートで103系とかでは。

奥井 今度こっちもキハ25が来て、ロングシートになるでしょ。

―ああ。

奥井 高山線か、あれはロングシートでしょ。キハ25。あれ、かわいそうだよな。

―ま、なるべく特急に乗せようという狙いなのかもしれませんが。

奥井 それにしても、ちょっとひどすぎる。

―せめてキハ11ぐらいでもね、あればまだしも。

奥井 そう。

―それにしても、当時の和歌山線って、客車列車も長大な編成を繋いでるんですよね。ま、どこも昔は客車列車は長大な代わりに、運転本数が少ないというパターンでしたが、それにしても長いですよね。

奥井 長い。

―7両か8両ぐらいつないでいるんですかね、あれ見ていたら。

奥井 だからあれやったら、重連にしても値打ちがありますわな。

―そうですよね。それを牽いているのがシゴハチだっていうのがね。和歌山線の線路の等級でいうと、そうなんでしょうけど。C11が補機で付いて。北宇智のスイッチバックが、つい近年まで、電車になってからも意味なかったんですけど残っていました。ホームの位置を変えて線路をまくってしまえば済む話が、そこの予算が下りなかったんですかね。

奥井 なかったんかな。

―やっと数年前ですよね、確か。

奥井 また、できたら近いうちに、いっぺん行ってきます。

―ええ、是非是非。ロングシートさえ我慢すれば、景色自体はいいですからね。

奥井 うん。

―その、何ということもないのが和歌山線のいいとこですからね。不思議な言い方ですけども、何も期待せずに乗ってみると楽しい線ですから。

奥井 楽しいです。

―見るもの、色々ありますからね。

奥井 はい。

―近鉄と交わったり、南海と交わったり、紀の川は流れているし、和泉山脈は……。あれ、映像は金剛山ですよね。

奥井 そうそうそうそう。

―一瞬、葛城山かどっちかなと思ったけど。

奥井 金剛山です。

―金剛山ですよね。一応、確認はしましたけど、見慣れたのとは反対から見ると、また感じが違いますよね。

奥井 感じが違います、はい。

―神戸からだと、天気が良かったら金剛山も見えているんですけどね。

奥井 見えるでしょうね。

―あんな見上げるような金剛山、しかも河内長野側、富田林側からじゃなくって。いい線だなあって、改めて思いましたね。それと五条駅の雰囲気っていうのは……。

奥井 あー、良かったねえ、あれ。

―いいですよねえ。

奥井 あんだけ撮れているのかなって。しかも上りと下りが一緒になって。

―ええ。何とも言えない良いものが、昔は全国至る所にあって……。

奥井 あったですねえ。地元の人にとっては、貴重な資料やなあと思いました。しかも翌日に五条に降りて、ハチロクが居たもんだから、駅で聞いたら、明日はこの機関車が補機やって言うもんで。

―本来はそこにいる機関車なんですか。

奥井 じゃなくて、向うの機関区に6両のC11と1両だけハチロクが居て、それが共通運用で、だからどっちも使えるんだと。

―なるほど。

奥井 だもんで、翌日、また撮りに行った。その代り、その日は8ミリフィルム代が無かったんで、スチールで撮りました。8ミリではよう撮らなんだけど。

―あっちの機関区というのは、和歌山機関区?

奥井 そこに11両のC11とハチロクが1両。その内の1両を、常時五条に持ってくるんだそうです。

―なるほど。

奥井 だから、翌日はC58とハチロクの重連やったんです。あれ、よかった。

―でも、残念ながら8ミリフィルムではなかった……。

奥井 そう。

           

―その代り8620のさよなら運転、関西本線のものが収録されています。そこで、引退するんじゃない、転属するのにさよなら運転をしたんだそうですが、まずちょっとないぐらいに大々的にやっていますよね。

奥井 あれは「柳生号」を盛り上げるために、ワザとやったんとちゃうかな。

―なるほど。8620そのものというものよりも、転属する機会に折角なんで祭り上げて、イベントにしてしまおうと。重連で。

奥井 12系8両もつないだら、値打ちありますよね。

―ハチロクが重連で、ねえ、前に立ってというのがなかなか、素晴らしい映像で。これ、追いかけていましたね。

奥井 はい、追いかけてました。あれ、誰が運転してくれたんかな。

―結構、追い回しながら撮っていました。

奥井 うまいこと、撮れたでしょ。

―この頃はSLブームになっていましたね。万博以降ぐらいですよね、SLブームって言うのは。

奥井 そうです。

―で、この頃には、いつ頃には全部無くなりますっていうアナウンスはあったのですか?

奥井 無かったね、それは。機関区によって、それぞれの事情で、変わってたでしょ。だから、こっちは最後までDEとかが入ってこなかったもの。だから割に、C58が遅くまでいたんですよね。

―手元に資料がないのですが、確か昭和39年ぐらいにその、無煙化計画で昭和54年に蒸気機関車を廃止にするという目標がたったんですけれど。実際はもっと早く、昭和50年度、50年の12月に室蘭本線の定期の旅客がなくなり、貨物も年内になくなり、あと追分機関区の入換えが3月に無くなったんですよね。だから予定よりも早く無くなったんですけども、今回のフィルムで言うとラスト5年を切っているという時期で、割とSLをみんな目当てに集まるようになってる時期なんですよね。

奥井 そうです。

―ええ、実際に結構な人が亀山機関区に集まっていて、そういう風にハチロクが前に出されて、いわゆる晴れ舞台が用意された感じだったのが、思いを新たにしたところがあります。亀山構内では入換えをしているC50も出て来ますが、何両か居たんですか。

奥井 あそこはね、2両持ちやったと。109と154やったかな。関では154が保存されています。綺麗な罐です。

―SLホテルのあるところですか。

奥井 そうそう。

―あそこもこちらに来るついでに、一回泊まってみようと思っている所のひとつなんですけどね(笑)。このごろSLホテルとか無くなってしまったので。昔はあちこちのあったのですが。

奥井 あそこはちょうどええわ(笑)。僕も泊まりとうて考えてんだけどね。

―近すぎますよ(笑)。

奥井 泊まりに行くんはいいけど、次の日に何しようかと……(笑)。

―帰ってきてもつまらないですし(笑)。

奥井 うん。あそこに泊まって、中仙道を歩きたいんだなあ。草津から順次。

―草津から上に上がって行くんですね。

奥井 そうそう。一応、来年の予定に入れているんですけどね。

―ところで当時、亀山機関区の入換えはC50が全部一手にやっていたのですか。

奥井 ほとんどやっていましたね。割に真面目に。

―この機関車、割りと早目に本線から退いて入換え機に回った機関車でしたよね。全国で見られたんですか、これは。

奥井 割によく、どこでも居ましたね。「蒸気機関車篇」の糸崎でも出てくるでしょ。

―そう、「前篇」で。

奥井 あれにトラ模様の警戒色になってるでしょ。

―トラにしているのは特定の機関区ではなくて、割とどこでもなっていたということですか。

奥井 ねえ。あれ、木曽福島のもなってたしね。でも、トラはトラでもそれぞれに趣が違うんですよね。

―なるほど。当然機関車によって形が違いますから、塗り代が変わってくるというのもありますけれど。

奥井 ま、楽しみましたよ、あれで(笑)。またC11復活しますから、明知鉄道で。

―アッ、そうですか!?

奥井 明知、今狙っています。

―どこのやつをやるんですかね。

奥井 えーと、あれ何番だったかな。JRで直してますから。

(編集注:恵那市内に保存されている2両のC12、74と244をリニア中央新幹線が開業する2027年に合わせて復元して、明知鉄道で走らせる計画がある。現在、明知鉄道明智駅構内にて復元可能かどうかチェックしている段階とか)

―あ、そうですか。

奥井 勾配がエライけれども。

―もしかしたらあれですよ、DCを牽いて、エンジンをふかしながらというパターンかも……。

奥井 そうかもしれないですね。客車、居ないから。

―釜石線のシゴハチみたいに。客車は客車で持ってきたっていいんですけど。

奥井 うん。

「よみがえる総天然色の列車たち第2章21 蒸気機関車篇<中篇>」のむねのおく(その3)へ

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奥井宗夫のむねのおく 2-21

「よみがえる総天然色の列車たち第2章21

蒸気機関車篇<中篇>」のむねのおく(その1)

―蒸気機関車篇も3つに分けて、材料的にはたっぷりあるんですけれど、中味的なことでは割と紀勢本線、この松阪近辺のものが多かったりして、同じような映像ばかりになるのかなと思ったら、並べてみると案外そうじゃない……。

奥井 だけど抜けてるところがたくさんあります。

―あれで、ですか?

奥井 急行が無いんです。「伊勢」「大和」「紀伊」もそうだけど、それが全く抜けてるんです。

―はいはいはい。

奥井 朝5時に多気まで行けばいい訳やけど、それができなかった。

―多分、時間的に暗いから……。

奥井 そう。行くにしても砂利道やし、暗いし、自転車やと危ないし。それに、朝は僕が忙しいし。

―そうなんですよ。奥井さんの商売的には、行くのにも時間的に無理だと思います。

奥井 それで急行が抜けているし、混合列車が抜けているし……。

―「紀伊」は何が牽いていたんですか。

奥井 DF50。DF50が牽いてきて、C57が待機していてバトンタッチして。最初の頃は4〜5両牽いていたけれど、最後はハフとハネの2両編成で鳥羽まで走った。

―どこからシゴナナに? 亀山からですか。

奥井 いやいや、多気から。

―多気から? 「大和」も亀山までDF50で来て、そこからD51ですか。加太越え。

奥井 加太越えはね、C57がやっていたんじゃないですか。あっちの方でのシゴナナの写真を見たことがあります。

―加太越えでシゴナナを使うんですね。時間的にはだいぶ早い時間だから、ますます夜が明けていないですよね……。

奥井 無理無理。だから全急行が抜けている訳です。

―湊町に朝着くわけですからね。

奥井 そうそうそう。

―夜は夜で、上りの時間が遅いし……。

奥井 そう。

―それは、もうどうしようもないですね。

奥井 フィルムの感度も足らなかったし。

―あとあと、能登線とか日中線の車内も撮られているけれど、フィルムの感度が足りずに……。

奥井 ASA10やもん。

―10ですか!? 10じゃ無理ですね。40でも無理ですもんね。

奥井 よう、ASA10のフィルムで撮っとったもんやな(笑)。

―(笑)なるほどねえ。だから、昼間限定となるわけですね。

奥井 うん。

―でも、亀山機関区で残り少なくなってきた機関車の頃の撮影で、昭和45年〜48年ぐらいになるんですが、シゴナナにしても当時3両ぐらいしか残っていない……。

奥井 そうそう。

―その機関車をピンポイントで狙ったものを、フィルムロールごとにまとめている訳ですね。ですので、作品は基本的にそこはあまり変えずに生かした形の編集にしています。このシリーズも巻数を重ねるうちにだんだん元々の形で作るように悟ってきました。

奥井(笑)

―初めの頃の電気機関車篇や電車篇では形式ごとに分けて奥井さんに怒られ……(笑)。

奥井(笑)

―ここはそのままひと塊でいいのに、と言われながらも、申し訳ないですが形式ごとにまとめるためにそういう形にさせていただいていました。でも今回は、元々形式ごとにまとめられていたので、その面白さは……。

奥井 あったよ!かなり!

―ありましたですねえ!

奥井 まさか、ワフ2両を牽いてやってくるとは、思えへんわ、絶対(笑)!

―そうですよね。僕として認識がなかったのは、シゴナナが貨物を牽引する運用があったということ。

奥井 デゴイチは貨物を牽くし、客車も牽く場合があるけどさ、そこら辺はもう、臨機応変で……。

―はい。

奥井 どんどんどんどん入って来るし。

―だから逆に言えばそのデゴイチが、奈良区のデゴイチですかね、伊勢市駅で入換えをやっているのがありますよね。

奥井 あれはあのまま鳥羽まで貨物を牽いて入ったんです。

―そして構内で入換えをする仕業まであった。

奥井 おもしろいよね。

―シゴナナを追いかけている中で、デゴイチがそういう形で出てくる……。

奥井 割り込んでくる……。

―そのデゴイチにしても、シールドビーム1灯が付いてるとか、それから、デゴイチの499ですか、あの、後藤式の……。

奥井 そうそうそう。あれ、499。

―デフ付けて、なんかお洒落な形をしてて。

奥井 今、津に居てます。

―あっ、なるほどなるほど。

奥井 偕楽公園、あそこに保存してます。あれはなかなか、名機ということになってます。

―当時から人気が……。

奥井 当時からです。

―スタイリッシュですね。やっぱりこうして見てると、蒸気機関車の後期の方にはいろいろ、やっぱり手が加えられて形が変わって……。

奥井 そうそう。うん、面白いですね、見ていて。

―はい。亀山区のやつは、出てくるものに関しては全部、重油併燃のタンクが……。

奥井 付いてます。

―付いてますしね。シゴナナが3両、出てくるんですけれども。110と148と198ですね。

奥井 そこら辺の番号、たくさん居ましたね。140も居たし、145も居たし。シゴナナは結構居たんです。

―はい。

奥井 どんどんどんどん減っていきました。最盛期には伊勢(機関区)に6台か8台居たな。亀山はもっと居たと思いますよ(編集注:亀山区には昭和40年〜42年にC57が最大となる10両配置されていた)。名古屋の罐はそんなに入って来なかったな。けど梅小路のが入ってきました。あらっと思ったのは、C54の6番が後押しで入ってきて、ウワーッ、と思った(笑)!

―シゴヨンが来てきましたか(笑)。本来は山陰線で使ってたやつですよね。

奥井 そうそう、それが山陰線のヤードで休んでる時に何かあったもんで、急遽行けってな調子でこっち来て。あれはよう覚えとるわ。けど、写せなかった。

―梅小路のシゴナナといえば草津線の運用で来てて、たとえば、「姫路快速」もそうだったということですよね。

奥井 そうそう。姫路快速は全部、向こうの罐でした。

―そもそも蒸気機関車篇の前篇ではシゴイチが大活躍で。

奥井 うん。

―シゴイチの入っていた運用の後をそのままシゴナナが継いだんですね。

奥井 そうそう。

―貨物の牽引もその流れで、シゴナナに当然引き継がれたわけですね。

奥井 あれはホントに、バラエティ豊かでした。

           

―シゴナナも198になると、もう4次形で……。

奥井 あれは千葉の方に持って行ったでしょ。保存で。

―はい。

奥井 それで、結局、向うで解体されました。維持しきれんでな。

―私なんかでいうと、あまりね、4次形って見た覚えが無くて、馴染みがなかったんですよね。

奥井 いやって言うぐらい、出てくるでしょ(笑)。

―いわゆる、密閉式のキャブで。

奥井 よかったよ、あの機関車は。見栄えがして。テンダ、欠き取りないし。

―はい。あの、四角のね。

奥井 そう。

―羊羹みたいな(笑)。あれですか、乗務員さんの話とか、聞いたことはあるんですか。

奥井 乗務員はね、シゴイチの時代に聞いたことあるけれども、やっぱり苦労してたんですよ、彼らは。

―はい。

奥井 なんせ、宮川の鉄橋で重連で走ったら、前方の信号機が見えへんだって言うんやもん。ふわふわして消えていく(笑)。

―宮川って言うたら、こんなトラスのね。

奥井 そうそう、あれ。

―径間が長くて補強はしてるんでしょうけれど、なんかいびつな十字になっている……。それで補強しているけどたわんでるんですか。

奥井 たわんでる(笑)。「それでな、奥井さん、前の信号、見えたり見えんだりするねん」「えーっ!」って(笑)。「重連の時だけやけどな」って。

―それは初耳でしたね。

奥井 それと言うていいんか悪いんか知らんけど、下庄にカーブしながらぐーっと下がってぐーっと登っていく坂があるでしょ。あれを、ブレーキ掛けんと走ったことがあるとか。

―はあ。どうなりました?

奥井 確かに片方、浮いたって言うんです(笑)。

―(笑)。蒸気機関車時代の人に聞いたら、たまに浮いたとか側線突っ込んだとか言う話、笑い話として出てきますけど……。

奥井 浮いたって(笑)。

―(笑)、あるんですよね。

奥井 やっぱりみんな、あそこで、田丸辺りで、みんな走り放題で走ったらしい。100キロ出すんですって。

―参宮線の田丸城跡の横ですよね。

奥井 そうそう。近鉄と対抗してるわけだわ(笑)。

―なるほど、向こうは参宮急行時代から飛ばして100キロで走ってるから(笑)。並行して直線で見通しもいい。お互いに見通せる……。

奥井 そういうとこでないと……(笑)。

―あれですよね、特急つばめと阪急京都線が競争したみたいな……。

奥井 そうそう(笑)。やっぱりそういう対向意識があったんで、良かったんと違いますか。そこらへんは。

―ええ。参宮線っていうのは昔から線形もよかったですしね。

奥井 しかも、あの松阪駅というのは、国鉄と近鉄の仲がいいんだもの。

―なるほど。

奥井 お互いにお客さんを待ってて(笑)。

―なるほど。

奥井 すごく仲良くってね。「おい俺とこ5分遅れてる」ってね、向こうから連絡が来るんですよ。駅に居ると。「5分ぐらいやったら待っとるわ」って待って、7分遅れで上って行ったこと、しょっちゅうあるんですわ。

―なるほど。今みたいな会社同士の協議みたいなのあるわけじゃなくて、現場レベルで……。

奥井 そうそう現場レベルで。しかも、近鉄は伝統的に松阪駅に駅長が居ないから。

―あ、そうなんですか。

奥井 うん、駅長不在なん。で、「駅長出せ!」って文句言うてくると、駅長は居りませんねんって(笑)。中川の駅長が兼任やもん。

―なるほど(笑)。

奥井 わざとそうしたんでしょうね(笑)。

―置いておくと、却って色々と……。

奥井 そのほうがええんでしょ。あれ(笑)。

―なるほど。参宮線は、一時国鉄としては見放したようなところがあったじゃないですか。今はまた快速「みえ」が走り出してから……。

奥井 安定してますよ。しかも料金は安く割り引いてるもん。

―結局、特急にせずにわざと快速のままにしているんですね。料金を押さえ、割引切符もあるし、近鉄と充分対抗出来る……。

奥井 そういうことですね。

―今日も鳥羽行って快速「みえ」に乗って来たんですけども、お客さんの数を見てると、結構乗っているんですね。閑散期の昼間でしたから4連じゃなくて2連で走っていましたが。でも、鳥羽で近鉄特急の車内を見ると、乗客の数は快速「みえ」の方が遥かに多いっていう感じだったんです。それなりに乗っているんですね。それとやっぱり、南紀方面から多気で乗り換えして伊勢方面に行かれるお客さんが結構多いんですね。

奥井 あるある。あれは昔から不思議なことでな、だから特急「くろしお」が最初に登場する時、松阪駅には停車せんということになって。その時は、国鉄に堀木鎌三さんという人が居て、この人が上手いこと松阪に停めてくれたんですわ。30秒停車で(笑)。

―あれでしょう。確か、松阪駅を通過させないことには表定速度が60キロを切るとか……。

奥井 49(笑)。

―50キロ切って49になる!? 50キロ切るんですか(笑)。さすがに当時でも体面としてはあれで、まあ何とか30秒停車で何とかして、それで50キロを切らないようにしたという……。

奥井 そうなんよ。それで松阪に停めてみて、どれだけお客さんが乗るか見たら、松阪が一番多かったんです(笑)。それで松阪にマルス101を先に持ってきたんや、津より先に。

―ほおー!

奥井 今は津の方が遥かに多いけれどね(笑)。

―なるほど、当時は津よりも松阪の方が……。

奥井 ところが、それは東京では解らんわけですよ。

―ですよね。遠い本社ではね。

―前に仰ってましたけれど、いわゆる松阪っていうのは、名古屋と大阪の文化が混ざって……。

奥井 そうなんです。同時に天王寺管理局の松阪支局があったので、それで大きいですわな。

―はい。

奥井 しかもここで記念乗車券を第1号を作ったんですよ。

―はあ。何の時のですか?

奥井 天王寺管理局何とかの記念乗車券という名前のものを作ってね。内部関係で配っているんです。

―はい。

奥井 それは結局、戦後の記念乗車券の第1号になっています。

―戦後の第1号!

奥井 うん、戦後の第1号。

ーはあー!

奥井 昭和25年前後やったと思います。それで、僕が東京へ行くとね、マニアの人たちが、記念乗車券が出るかもしれないと思って、ものすごく接待してくれてね。飲めや歌えやの大騒ぎして(笑)。「一体何でこんなに接待してくれるんかいな」って。「それは奥井さん、あいつあれを狙ろとんねんや。万一出たらあいつにやったって」(笑)。

―なるほど(笑)。いや、でも、そんな時代から飲めや歌えやするぐらい、切符が欲しい人がいたわけですか。

奥井 うん、そうそうそう。

「よみがえる総天然色の列車たち第2章21 蒸気機関車篇<中篇>」のむねのおく(その2)へ

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東海道新幹線開業50周年「まるごと新幹線〜昨日・今日・明日 夢の超特急の50年」

放映局 NHK-BSプレミアム

「まるごと新幹線〜昨日・今日・明日 夢の超特急の50年」

再放送のお知らせ

2015年6月17日(水) 午後3
〜459分


仙台駅を出発する0系

動輪堂が創業5年目にしてようやくテレビ番組を製作しました。

もちろん鉄道番組。しかも東海道新幹線開業50周年のNHKの特番です! 機会をいただき、そして力を貸してくださった関係者の皆さんに感謝、感謝です。

鹿児島中央駅を出発した初代0系新幹線車両による「ドリーム新幹線」が、バーチャル世界をワープしながら九州新幹線、山陽新幹線、東海道新幹線、上越新幹線、北陸新幹線、東北新幹線、さらには北海道新幹線を巡り、新函館北斗駅へと向かうというのがこの番組の目玉のひとつ。

乗車するのは700系トイレのネタを知らぬ人はない中川家礼二さん。もちろんこの「ドリーム新幹線」の車掌として乗務していただきました。そして新幹線大好きアイドル、SKE48/乃木坂46の松井玲奈さん、そしてNHKきっての鉄ちゃんアナウンサー・別井敬之さんです。

その車内で、次々と新幹線にまつわるゲストやアイテムが登場。貴重なVTRやトークを交えながら、新幹線の各路線と車両、そして過去・現在・未来について多角的に紹介するという内容です。

この『ドリーム新幹線」には、6人のゲストの方にもご乗車いただきました。私のたっての希望がかなった、新幹線50周年にふさわしい、選りすぐりの皆さんです。

まずは新幹線とは切っても切れないミュージシャン・向谷実さん。九州新幹線の車内チャイムを手掛けた音楽界きっての鉄道好きに、チャイム作曲の極意を語ります。

次に登場するのは、かつて食堂車のコックとして腕をふるった、現・九州鉄道記念館副館長の宇都宮照信さん。100系食堂車で、売れ筋だったメニューを実際に再現していただきます。

そして、昭和39年10月1日、東海道新幹線開業上り1番列車を運転した大石和太郎さん。一番列車の車内で繰り広げられた伝説のエピソードを披露します。

亜細亜大学講師で、交通評論家の佐藤信之さん。整備新幹線やミニ新幹線などについて、学術的視点から分析していただきます。

そして北海道から新幹線を到来を待ち望む、フォトライターの矢野直美さん。ひと足早く彼女が体験した北海道新幹線とは?

そしてもう一人、はるか宇宙のかなたから来た、新幹線にまつわるスーパーヒーローをゲストにお迎えします。さてその正体は!?

左から 別井敬之アナウンサー 松井玲奈さん 矢野直美さん 中川家礼二さん

0系車内は某所にある本物を借りて撮影。番組全体の約半分を占めるVTRはほとんど全編が、貴重な昔の映像から撮りおろしのロケまで、新幹線とその関連の映像です。つまり番組のほとんど全部が新幹線づくめなのです。

幻の弾丸列車計画から開業間近の北陸新幹線、そしてリニア中央新幹線まで全路線と、ドクターイエローを含む歴代全前形式を紹介。タイトル通り、これほどまでにまるごと新幹線の番組は史上かつてなかったのではないでしょうか。

中味の部分もさることながら、是非とも目を凝らしてみていただきたいのは目玉の「ドリーム新幹線」の走行ショット。たとえば桜島を背負っての鹿児島中央駅出発、八代海バック定番お立ち台ショット、品川駅到着、青函トンネル通過などなど。往年の16連のフル編成の0系がまさに「夢の超特急」たる前代未聞の雄姿を披露します。

所々に、おやっ?と思わせる「遊び」(=まちがいさがし)もわざと作ってありますので、是非それも見つけて楽しんでください。

ナレーター:平野義和 鈴木まどか

2015年6月17日(水) 午後3〜459分 BSプレミアム 「まるごと新幹線〜昨日・今日・明日 夢の超特急の50年」(再放送)。

どうぞお見逃しなく!

NHK公式HP↓

http://www.nhk.or.jp/hakken/tokyo/program/141004.html

https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20141004-10-08010

奥井宗夫のむねのおく 2-20

「よみがえる総天然色の列車たち第2章20 蒸気機関車篇<前篇>」のむねのおく(その3)

―そのあと、関西本線の加太越えの映像があります。

奥井 あれだけしか、行きませんでしたけどね。

―いや、あれだけと仰られても、相当たっぷりと撮られていますけど。

奥井 加太の信号場の職員が、僕が平気で草履掛けで行くもんだから、お前蝮に噛まれへんかいなって(笑)。

―(笑)

奥井 みんなが心配してくれて。「もうちょっとしっかりした履物履いて降りなよ」。(笑)

―奥井さんにとっては、地元の庭みたいなところで、気軽に出かけて(笑)。

奥井 いつかは蛇取りに間違えられたこともあって(笑)。

―中在家まではどうやって行かれたんですか。

奥井 自分の単車で走って行って。

―じゃあ、割と広い範囲を、勾配区間の所を縦横無尽にカメラを置かれているのは、バイクだからですか。

奥井 そうそう。125ccの単車に乗って。

―最初の方のフィルムで、加太トンネルのあの……。

奥井 シャッターですか。

―ええ。

奥井 あれ、面白いでしょ(笑)。あれを撮るバカはいないもの(笑)。スチールで撮っても仕方ない(笑)。

―ちゃんと動くところが、横から……。

奥井 横からね。

―私が知っているのは、幕だったはずなのが、金属的な物に……。

奥井 いや、あれは幕ですよ、あれ。

―幕ですか。電動式の……。

奥井 ええ、電動式です。電動の幕です。

―僕の知っているフィルムでは、係員が手動で幕を垂らしていたように思いましたが。

奥井 電動になってましたね。

―しかし蒸機がある限り、電動になってでもそれは必要だったという。

奥井 そうなんですね。あそこに居ると、スゥーと吸い込まれるもん。

―吸い込まれるということは、ピストンのあれと一緒で、列車が入っていくと空気が吸い込まれていくから、煙もまとわり付いて……。

奥井 ええ、そうなんです。

―蓋を閉めることによって一旦煙がその場に残って、列車が行ってから幕を開けて風で煙を吐かせるという仕組みですね。

奥井 そうです。

―ナレーションで言うには秒数が足りないものですから、ここで説明させていただきました。それにしても、加太越えというのは蒸気機関車の、デゴイチの撮影名所ですね。この近辺では。

奥井 あそこしかなかったですね。

           

―紀勢本線では、シゴイチが、貨物を……。

奥井 ええ、もう昭和30年までは、ホントに客車も貨車もシゴイチしか牽いてないですから。

―亀山機関区では、シゴイチの天下だったということですか。

奥井 そうなんです。ただ、1本だけねC10が、参宮線の伊勢市と鳥羽の間だけ1運用あったぐらいです。それがC10で運転していました。松阪にも時々来ていましたね。初午の臨なんかになると、松阪までC10でやって来ましたね。あとはもう全部シゴイチです。

―東海道本線で、時代はかなり古い話になりますが、シゴサン・シゴクと本線用の後継機が出てきて、その辺りから関西本線や紀勢本線に入るようになったんですか?

奥井 そうなんですね。あの、ここら辺はね、昭和8年ぐらいからシゴイチがやってきたらしいですね。

―はああ。

奥井 お召列車を引くためにですね、特にここは早くから入って来たみたいですね。

―結構早い時期に、割と東海道本線から外れて……。

奥井 一部は流れて来ていたみたいです。後は逆に、日本でここが一番多かったでしょう。

―結局、あれですか、使い勝手が良かったんですかね。馴染んで。

奥井 馴染んでいるし、お召には使わなあかんし、先行(先導列車)は要るし。

―ああ、それはありますね。

奥井 ですから、ごく気軽に化粧(している罐)をそのまま使っている。飾りを残して。そういう列車が多かったですね。

―飾りもサイズとかがあるんでしょうね。

奥井 ええ。

―そうするとほかの機関車には使いにくい……。

奥井 まあ、それはあると思います。全部、サイズは違っていたと思います。

―なるほど、じゃ、シゴイチ用の飾りがあるからシゴイチでいこう、みたいなことだったわけですね。シゴイチが元気で動いている限りは。

奥井 そうなんですよね。それと、つけっぱなしのやつも多くありましたからね。

―なるほど、そういうことなんですねえ。

奥井 普段は、真っ黒になっているけれども、磨いたらピカピカになる……(笑)。

― 一度磨けば、たちどころに輝きを取り戻すという……(笑)。

奥井 あの(お別れ会の)シゴイチのフィルムはいいでしょう。素晴らしいですよ。

―シゴイチのカラーフィルムというのは、それこそあまり見たことがないですね。

奥井 しかも仁左衛門さんのテープカット、俳優がそろっているよね。テープ切るのがうまかった!

―はい。(テープを)スパッと!

奥井 サッと持ち上げてね、チャッと置いた(止めた)後、サッと切っている!(笑)さすが千両役者だね!

―素晴らしいですねえ!(テープカットの)前のカットから顔が映っていたからわかりましたが、後姿だけでしたら、誰やこれってなっていたかも。あれだけスパッときれいに切る人……!

奥井 ないない。サっと持ち上げ、スパっと切る!あの間というのは、素人ではちょっとできないね。

―当時、名古屋の御園座かどこかで公演があったんでしょうか。

奥井 いや、たぶん大阪から来てるんでしょうね。

―はあぁ!

奥井 だから、彼としても精一杯の努力をしているんだと思う。

―行きたくて仕方がなかった……(笑)。

奥井 そう(笑)。

―なるほど。別の作品で近鉄18200系ブルーリボン授賞式のフィルムにも、顔出ししているものがありましたけれど。

奥井 うんうん。

―何かそのあとの話があると伺いましたが。

奥井 シゴイチ最後の重連の、「姫路快速」の機関士に花束を渡してくれって言う話になってね。それで僕のカメラ、取上げられたんよ。そのあたりで(笑)。

―「撮影している場合やないから、とにかく花束を渡せ」と(笑)。

奥井 そうそうそうそう。

―「カメラはこちらで預かっておくから」(笑)。

奥井 「地元代表で、お前やれ」と(笑)。

―それで、そのあとの「姫路快速」の重連のフィルムが残っていない(笑)。でも、花束贈呈も仁左衛門さんがやったら良かったんじゃないですか。

奥井 仁左衛門さんは自分の舞台に穴をあけるわけにはいかないから、(テープカットの後)すぐに帰っちゃった(笑)。

―ああ、なるほど(笑)。

奥井 だから、花束を渡す者がいないから、「お前やれ」(笑)。「地元やからお前がやらないかん」ということで、私が渡したんです。

―じゃ、当日花束を渡したのは、仁左衛門さんと奥井さん。

奥井 そうそう(笑)。

―面白い伝説が、またここで一つ増えましたね(笑)。

奥井 そんな馬鹿な事言うてもさ、カメラを取り上げられたらこっちもしかたがない(笑)。

―ホントですよね。本来あったはずの貴重な映像がなかったというのも……(笑)。

奥井 まあ、ちょっと薄暗くなっていたからね。撮れたか撮れなかったか、わからないけれど(笑)。兎に角、カメラは取り上げられてしまったんです(笑)。

―そういうことですか(笑)。

奥井 あのね、あのあと座談会があったんよ。で、そこに出んならんからって言って、強引にそれに引っ張られてしまってさ。その座談会で僕は、C51を全部残せって言うて。16両ほど居ったんかな。そういうたら、国鉄の人がみんな笑うんよね(笑)。16両残しても5年たったら残るのは1台しかないって僕は言い切ったんよ。

―全国に16台、ですか。

奥井 そうそう。みんな僕の冗談やと思うて笑って、国鉄さんも(笑)。絶対1台しか走らんようになるって。で、その後本当にそうなったら、聞きに来たんですよ。「シゴイチ残そうと思うんやけども、残っとんのは新津の、ボイラの中を改造したんしかない」って。そんなんこっちに聞かれてもわからへんやんか(笑)。

―(笑)新津の「ボイラを改造されたやつ」って言うのは?

奥井 ボイラの側面をカットして、中を見せてたんよ。

―あー、展示用ですか。

奥井 そうそう、展示用。教習用というか、あれしか残ってなかったんよ。あの(C51)225、長島温泉に入れるって言うとったね。それが途中でおじゃんになってしまって、全部解体されてしまった。だから、僕はそこまでは責任持たへんよ。全部残せって言うたのに(笑)。シゴイチは車両が1台ずつ違うんよね。だから国鉄でも、2台ずつ組にして全国に配置してたんよ。パーツを確保するために。それと昔の人の方が賢かったね。三重県(亀山機関区、山田=後の伊勢機関区)にも100番、101番、203番、205番、206番などが居って、ある程度番号を揃えていた。あれはメーカーによって寸法が少しずつ違っていたと思うわ。

―ということは、番号が近いものは同じメーカーの車両で、部品の互換性があったと。

奥井 そうですそうです。だから番号を揃えていて、全国を回していたと思う。やっぱり、昔の人の方が偉かったと思うわ。

―蒸機の場合、ホントに寸法が一つ一つ違っていて、現物合わせで直したりしていましたからね。

奥井 だからね、残すんやったら2台か3台残さないかん。まして16台おったら全部残しておく。「全部部品取ってもね、それでも寸法は合うとらへんから」って言うたんですわ。(座談会の様子は)後になって亀山機関区の新聞が何かに載ったんかな。みんなに配ってくれたね。あれ、どっかへやっちゃったわ。

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奥井宗夫のむねのおく 2-20

「よみがえる総天然色の列車たち第2章20 蒸気機関車篇<前篇>」のむねのおく(その2)

―次に出てくるのが、北陸本線のデゴマルを中心に撮った映像です。

奥井 あれは、1日で行って帰ってきているので、あれぐらいしか撮り様がなかったですね。その代り、彦根に回って、近江鉄道をだいぶ撮りましたから。あれが結局、他の巻(「ローカル私鉄篇」)でだいぶ役に立ってますが……(笑)。

―短いフィルムで最初、昭和37年に北陸に旅行された時に写されたフィルムが入っています。これにチラッとE10が写っている……。

奥井 ええ、写っています。

―大部分は、E10はもう退いて、入れ替わってD50が入った後ですか。

奥井 そうです。まだ残ってるかな、と思っていたんですが、残っていなかったですね。本来はE10を撮りに行ったつもりなんですがね。

―その当時、北陸本線では交直セクション用のつなぎとしてこれが入ってきているのですね。蒸気機関車がしばらくここで、活躍することになるんですが。

奥井 スチールで1回、E10の重連があってね、それを写してあるんですよ。ホームからですけどね。

―スチールだけ撮っておられるのですね。

奥井 団体旅行で入ってたもんですから。振り回せなくて(笑)。

―田村駅は今でこそホームがあるだけで、その間には何もないのですが、今もホームの位置は変わらないですね。

奥井 そのまま残っています。

―上下線が点対称に、要するに斜向かいに設置されていて、今は捲られていますが当時はその間に留置線があって、蒸機が待機していました。

奥井 良かったですよ。わりに見やすいし。

―ただ、機関車を切り離して、例えば上り列車から下り列車につなぐときに、つなぎやすいような配置になっているんですね。

奥井 そうなんです。ED30があそこにいたんだなあ。あれも撮りそこなったなあ。

―EF30ですか? 関門の?

奥井 いやいや、関門じゃない。交直両用の電気機関車が居たんですよ。デゴマルと同じ運用で。それを撮り損ねたんですよ、あそこでは。

(編集注:ED30形(2代)は、昭和37年に試作された交直両用電気機関車。形式は凸型の車体で、中央部の運転台屋根が前後に張り出していて、パンタグラフが2基乗っている、独特の姿をしていた。北陸本線米原―田村間で使用された後、鉄道技術研究所で実験に用いられ、昭和51年に廃車された。)

奥井 松阪からでは、ちょっと遠い、あそこは。

―確かに日帰りで行くと、撮影時間帯が限られますからね。富山のやつは、何かのついでなんですか。

奥井 あれは、何かのついでやと思います。

―はい。

奥井 あれはね、団体旅行かな。

―あのう、ついでにしたらしっかりカット数があったりするんですが(笑)。

奥井 はい(笑)。

―富山港線で活躍していたとは、驚きましたね。そこに直流の電気機関車を置くわけにはいかないからでしょうね。

奥井 そうでしょうね。

           

―そして、今度は九州のフィルムが出てきます。若松と直方機関区。若松はシゴゴで、筑豊本線の旅客列車は、全部若松で持っていた。

奥井 割に行きやすかったですね。

―はい。一方で、直方で一番多いのはデロクマルですか。デロクマルの一番の天下だったのかなって言う気がしますが。

奥井 そうでしょうね。

―機関車そのものより、直方機関区の風景の方が、これぞ蒸気機関車の基地というか、凄い映像ですよね。

奥井 運が良かったんですよ。

―奥井さんから見られた、当時のこの場所というのは、どんな感じだったのでしょう。

奥井 あそこは割に上から覗きやすい、跨線橋がありましたからね、だから撮りやすかったですね。それと天気が良かったし。ここも、団体旅行の流れから逃げたんですよ(笑)。

―そうですか(笑)。

奥井 大分に泊まった時に、食事を摂る代わりに市内電車を追うて……。

―別大線ですね。

奥井 そのあと、直方を通る時に、降ろしてくれ、言うて降ろしてもうて。それで撮ったんです(笑)。

―筑豊電鉄もこの時ですか(笑)。

奥井 それは、また別(笑)。

―直方機関区の規模というか、機関車の数って、どうでしたか。

奥井 多いと思うた。出ていくと入って来る、出ていくと入って来る、という感じで、そして右も左も注意しなきゃいけないし。撮りにくかったですね、そういう意味では。

―当然筑豊本線があり、伊田線が出ていて後藤寺の方へも行っていて……。

奥井 そこら辺が僕らもわからへんから、兎に角来たやつを何でもいいから一生懸命撮るのが精いっぱいで、時間をギリギリまで計算して、そしてタクーで走ったんですよ。

―短時間で、いくらでも撮影ができる。

奥井 ですから、撮った時間はホントに短いんですよ。瞬間を切り取ったていう感じで。

―時代は1971年、昭和46年ですから、新幹線はもう博多まで行ってるんですよね。その時代に、直方はこんな感で、すごいなあ! 濛々たる煙が上がっていて、街中煙だらけみたいな……。

奥井 こう、顔が真っ黒になっちゃったですよ(笑)。

―そうでしょうね(笑)。戻ってきたら、何してテン、みたいな……(笑)。

奥井 そうなんですよ(笑)。周りから、顔洗って来いって(笑)。あそうって(笑)。

―バスのシートカバーも真っ黒だったでしょう(笑)。

奥井 うん(笑)。

―そうですか(笑)。昭和46年2月に筑豊に行かれて、同じ年の5月に今度は伯備線の方に行かれているんですね。

奥井 はい。

―これは、「あさかぜ」に乗って行かれたんですか。

奥井 と、思いますね。

―名古屋から乗られて……。

奥井 行ったと思います。

―丁度、倉敷から伯備線を下って行くんですが、結構上りの通勤列車とかがデゴイチの牽引で……。

奥井 ま、撮れるものは何でも撮りますから。

―伯備線の列車も、当時は岡山へ直通していた訳でしょう。

奥井 ええ。

―岡山に着いたら新幹線ですものね。そんな時代なんですね。すごいなあ!

―で、伯備線の目当ては。

奥井 ホントはね、電話をかけて聞いたときは三重連あるよっていう話で、出かけたんです。ところが行ったら、「今日は運転無い」て言われたんです。で「こらあかんわ」。でも、あんだけ撮ったら満足しました。どうしても三重連を撮らなきゃならないっていう気は、僕は無かったから。

―はい。奥井さんの場合は、どちらかと言うと何かにピンポイントで集中するというよりも……。

奥井 何もかも撮るっていう格好ですから。

―だから、それほど三重連に対するこだわりはない……。

奥井 なかった。

―むしろ、伯備線のデゴイチが撮れた、ということですね。

奥井 そうです。一応、満足して帰ってきましたね。

―なるほど。それと、この機関車の時も、定番とも思える程、各地の機関区に訪問されていると思うんですけれど。

奥井 ええ。やっぱり行かんことには、解りませんもん、内容が。

―この新見機関区の場合は、どんな感じでした。

奥井 新見の場合は、割と、みんなゲームして遊んでいますよね(笑)。なかなか和気あいあいの機関区で、どうぞどうぞってな調子で、みんなぞろぞろ入ってきていますよ(笑)。

―やっぱりコースなんですか、布原で撮影してから……。

奥井 そうでしょうねえ。

―新見機関区を訪問するという……。

奥井 他にすることがないでしょう。だから、みんなあそこに行くんでしょう(笑)。

―伯備線を撮っている人たちには、姫新線とか撮りに行くには若干物足りなかったりするんでしょうか。奥井さんの場合は、行き帰りの行程の時間の関係で、そこまで足を伸ばすのは大変でしたが……。

奥井 うん、そうそう。まあ、あんだけ撮れりゃ、良かったですよ。

―はい。ここはここで、また違う機関区の姿があって、平・糸崎と色々出てくるんですが、それぞれちょっとずつ味わいが違って、非常に面白いなと思います。

奥井 ま、ホントにいい時期に、遊ばしてもらいましたね。

―それは言えますよねえ! 全部とは言わないまでも、手の届く範囲の所、時間的に行ける範囲の所で言うと、相当いいタイミングで……。

奥井 努力はしたと思います。

           

―この蒸気機関車篇<前篇>の後半は、割と地元・三重県松阪の周辺はどうなっているか、という感じで編集しています。お召列車がシゴナナ牽引で出てきますけれど、「臨貴列車」でしたか。

奥井 ここら辺を「臨貴列車」が走ってくれたんで、助かりました。一般の人たちは、ほとんど知らないですよ、「臨貴」は。

―「臨貴」は、またお召とは別ですからね。お召だと事前に案内があって、沿線に人が出て、というのがありますけど、こちらはほとんど知られていない。それこそ、踏切警手の方から情報を得たり……。

奥井 はい。

―どんな感じでしたか。「今日、何か走る?」みたいな感じで訊いたのでしょうか。

奥井 そうですよね。「臨貴」って書いてある。「臨貴」の「貴」は何なのって訊くと、「実はこうや」っていう話で。一番最初に行った時は、警備がどうのこうのと思うて行ったんですけどね、別に警備も厳しくないし、誰もおらへん(笑)。そんな感じでしたね。

(編集注:オランダ、ベアトリクス王女の来日行程は以下の通り

昭和38年4月2日〜11日に来日、午後5時すぎに迎賓館にて記者会見。

5日午後6時20分から歌舞伎座にて「京鹿子娘道成寺」を観劇。

5日夜10時10分発「金星」にて関西旅行に出発。

6日朝9時7分鳥羽駅着、御木本真珠島を一時間あまり見学された。

6日10時45分同駅発で京都へ向かわれる。

6日午後3時18分着の特別列車で鳥羽から京都入り。大宮御所で休憩された後、仙洞御所にて野点を楽しまれ、午後6時45分から都ホテルでオランダ総領事主催のレセプションに出席。

7日は京都観光の後、「都をどり」を観劇。

8日午後3時15分大阪国際空港から全日空特別機にて長崎県大村空港に到着。自動車で午後4時20分、長崎入り、出島を見学。本国から取り寄せたシャリンバイとバラを記念に植樹された。

9日は長崎市内を見学後、午後1時15分大村発のフレンドシップ機で東京に帰られる。同夜、浅草国際劇場でSKDの「東京おどり」を観劇。

11日夜に羽田から次のホノルルへ向かわれる。

以上、朝日新聞中部版より抜粋)

―お召列車の方の映像も入っているんですけれども、紀勢本線内はDF50の牽引だったんですね。

奥井 はい。

―それで、後の普通列車にシゴナナのお召機が……。

奥井 くっ付いて。

―回送されて行ってる。松阪駅で上りを撮られているのは、また回送で……。

奥井 回送です。

―お召列車自体はDF50牽引で先に行ってるんですね。国鉄ディーゼル篇に入っていますから。機関区の方で、ここは折角ディーゼルの新しいのがあるんやから引かせてやろうとか、そんなことはあるんでしょうかね。

奥井 車両の運用の都合やと思うんです。

―そうですか。

奥井 僕ら撮りに行って、あれ今日は蒸機と違うてDF50やなあ、と思うことがようありましたからね。

(編集注:昭和37年5月のお召列車の牽引機関車は以下の通り

1962(昭和37)年5月19〜26日の昭和天皇三重・和歌山巡幸に伴うお召列車

使用編成:新1号列車

5月19日

原宿―名古屋、EF5861(東京区)

名古屋―亀山、C57139(名古屋区)

亀山―伊勢市、DF5023+DF5024(亀山区)

5月21日

鳥羽―多気、C5779(奈良区)

多気―熊野市、DF5023+DF5024(亀山区)

5月25日

和歌山―王寺、DF5023+DF5024(亀山区)

王寺―名古屋、C5779+C57139(奈良区+名古屋区)

名古屋―岐阜、C5779+C57139(奈良区+名古屋区)

5月26日

岐阜―原宿、EF5861(東京区)

岐阜到着後、高山線側にある岐阜駅の転車台には東海道本線からは直接入線できなかったようで、大垣機関区まで回送されたらしい。

奥井さんが撮影された5月21日のお召列車は、鳥羽―多気が伊勢機関区乗務員、多気―熊野市は伊勢機関区多気支区乗務員が、それぞれ担当した。

C5779は伊勢市まで回送されて、新1号編成を牽引して鳥羽まで回送。鳥羽で天皇陛下をお乗せしてお召列車を運転。多気でDF50重連に交換してお召列車は熊野市へ。大任を果たしたC5779は一旦亀山へ回送され、C57139と共に改めて奈良へ回送されたものと思われる。鳥羽駅には転車台があったので、方向転換もできた。)

―逆にこの時代は、参宮線にDF50は入っていないんですね。

奥井 ええ。

―そこはシゴナナで行く。なるほど。奥井さんこの時は、意地悪な質問ですが、参宮線には撮りに行かれなかった。

奥井 いやあ、行かないです。あのころは割と忙しかったもんだから、他所へ行く余裕は全然なかったですね。

―それはもちろん、配達の途中とかだったり……(笑)。

奥井 それもあります(笑)。

―僕の想像では、奥井さんにとってはシゴナナのお召よりもDF50のお召の方が見たい……(笑)。

奥井 でもない(笑)。

―そういうことはないですか(笑)。ちょっとそうかなと思ったんですが(笑)。面白いのは、そのシゴナナとですね、シゴイチとの重連が非常に多い……。

奥井 ええ。

―そうですよね。

奥井 シゴナナはあくまで補機ですから。

―ええ。じゃ、あくまでもシゴイチをメインに。

奥井 まあ、そういうことですね。あったらシゴイチは撮る。シゴナナが来たら当然シゴナナも撮る(笑)。

―当然そうですよね。シゴナナなんてそれほど珍しいものじゃない、ということですよね。でも、名松線が割と早くから、転車台がないということもあるかもしれませんが、C11がバックで走ったり、面白いものがいろいろと出てきます。C11が単に客車を牽くだけでなくて、混合列車を引いていたり、気動車をくっ付けて回送していたり……。

奥井 いとも簡単についているでしょ(笑)。故障したやつですよ、絶対に。

―なるほど。すると、臨時工事列車も。

奥井 はい、いとも簡単に一緒にしちゃいますから(笑)。

―編成としては非常に面白いことになっていて(笑)。

奥井 ええ。

―蒸機があって、貨車があって、客車繋いで、貨車繋いで、そして蒸機という……。

奥井 はい(笑)。


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奥井宗夫のむねのおく 2-20

「よみがえる総天然色の列車たち第2章20 蒸気機関車篇<前篇>」のむねのおく(その1)

                       聞き手:ディレクター&プロデューサー・宮地正幸

―最初の部分ですが、今回は飛行機の映像から始まります。

奥井 あそこにコンベアが入っているとは思わなかった(笑)。

―フィルムがあるのはわかっていましたので、どこかで使いたいなあと思っていたので、今回、ちょっと変化球から入ってみようかな、と。

奥井(笑)

―「まつかぜ」がですね、松江止まりだったのが昭和39年春に博多まで伸びたので、それ行けっということで……。

奥井 そうだ!そうだ!(笑)行っとかなあかん!(笑)。

―(笑)

奥井 逆に僕らは思ったんよ。これはいずれ無くなる可能性が高いから、と(笑)。

―延伸された時から、無くなる可能性が高いって言う話ですか(笑)。

奥井 こんな無理して走らせても、無くなる確率が高いから。ま、大体合うてましたけど(笑)。

―合うてましたね(笑)。それでまあ、乗り換えて普通列車にも乗ったりされていて、別の時の旅行のフィルムと今回のとをつなげて一緒にしてみました。その1年前の昭和38年のフィルムでは、下関方から山陰本線を辿っておられますが、この時の目的は何だったんでしょう。

奥井 あれは、C54、パシフィックが見たいと、やっぱりここへ行かなあかんと思って行ったんです。あれ、良かったですよ。

―狙いはC54だったと……。

奥井 C54です。

―浜田機関区で結構、バッチリとC54が再生されていて。

奥井 はい、あれでよかったですね。丁度うまいこと入換えされていて。

―これこそ、カラーで見たことがないフィルムですね、C54の。

奥井 そうでしょうね。僕もシゴヨンはやっぱり、気にはしていましたから。やっぱり撮りに行きたい!

―当時、この山陰線あたりでしか走っていなかったのですか。

奥井 もうあそこ(浜田機関区)しかいなかったですから。仕方なかったですよね。昔、C546はね、「姫路快速」の補機で、こっち(松阪)に入っておるのを覚えているんですよ。後を走っているものだから、見ていて全然気が付かなくって、目の前に来て、「あー!シゴヨンやー!」(笑)。ですから、余計に気にしていたんでしょうね。

―その当時、「姫路快速」で来たって言うことは、何処に居たんでしょう?

奥井 たぶんね、補機をつけるのは梅小路からですから、その時は梅小路でちょっと都合が悪くって、代わりにほり込んだんやと思いますよ。

―なるほど。じゃ、その時は梅小路に所属していて、山陰線回り運用についていたってことですか。

奥井 そうそう。元々福知山かどっかに居てたんだろうけれど、たまたまそこに居てたもんだから、廻したかなって思います。そんな感じで、アレッと思って。ビックリしましたよ。

―昔、NHKのSLの番組をやっている時に、シゴヨンのフィルムを探したら、余部橋梁のものが出てきまして、余部駅が設置されるという時のものだったんです。それまで、そこの地元の住民が余部橋梁を歩いて渡って、トンネルをくぐって隣の鎧駅まで行って列車に乗っていたっていう映像なんです。余部橋梁を一杯人が歩いていて、そこを通過するのがシゴヨンでした。しかし後年は、なかなか不遇な機関車でしたね。活躍の場も限られて。

奥井 DD54と一緒ですよ。

―そうですよね。

奥井 ここからじゃ追いかけるのが不便でね。山陰線は、ちょっと、よう行かんですね。

―蒸気機関車篇に出てくるフィルムは、割と早くから奥井さんが撮影されたものですね。

奥井 はい。

―やっぱり蒸気機関車から撮り始められた……。

奥井 そうですよね。ただ(当時の8ミリカメラの)フィルムの巻き上げがゼンマイだったので、兎に角6フィートぐらいしか走らないんですよね。

―6フィートといいますと、大体30秒ぐらいになりますか。

奥井 列車の後ろまで撮っていないフィルムが何ぼもあるでしょ。

―はいはい。

奥井 あれ全部ね、エルモの旧型の、8Aという機械で撮ったの。

―はい。

奥井 ですから、映らないんですよ、後ろまで。

―終わってしまうんですね。

奥井 だから嫌気がさして、初めて自分のカメラとして買ったのが、次のキヤノンの8EEEという機種でね。電動で巻き上げる、電動で露出計が作動する、という機械だったんですよ。

―それはダブルエイトですか。

奥井 ダブルです。

―はあ。そうすると、長く回せるようになったんですか。

奥井 はい。キャノンさん作ってくれたのはいいんですが、まるっきりダイキャストの塊みたいなカメラで、弁当箱みたいでね、重たかったんですよ!(笑)

―(笑)なるほどね。

奥井 あれ、1.5キロ以上有ったんちゃうかな。頑丈に作ってくれたのはよかったんですけどね。もう、往生しました(笑)。レンズはよかったんですけどね。

―今回の蒸気機関車篇は、そんな時期に撮影されたものが多いわけですね。

奥井 そうでしょうね。(撮影時期が)集中していますし、あれよあれよといううちに、蒸機がなくなっていった時代ですから。

―C54にしても、ホントに無くなる直前で……。

奥井 どれもこれも、無くなる直前ですよね。

―昭和38年に撮れていますからね、実に大変なものです。同じことでいうと、まだ山陽本線が全線電化をする前という……。

奥井 そうです。

―全線電化が昭和39年で、その前年のです。考えてみたら、昭和50年には山陽新幹線が開業している訳ですから、山陽本線が全線電化されてからでは、全盛期はたったの11年しか実はない……。

奥井 そう。

―圧倒的に長い時間、山陽本線を支えてきたのは、蒸機だった訳ですね。

奥井 そうなんですよ。

―最後まで非電化だったのは、広島の横川から小郡までの間でしたね。

奥井 (東海道)新幹線が割と早くに出来たものだから、余った車両が全部向うへ入ってきたんですよね。ですから、瞬間的な話ですよ。

―はい。

奥井 新幹線開業と同時に、「しおじ」クラス(181系)の特急が全部向うへ入って来た時代ですからねえ。まあ、いい時期に道楽させていただきました(笑)。

―はい。

奥井 それだけ見ることが出来た、幸せな時代やったと思いますね。

―私も10年ぐらいもっと早く生まれていればよかったと、つくづく思いますから。

奥井 ほんとそうなんですよ。みんな、もう1年でも2年でも早く生まれていたらって。機械の進歩が全然違いますからね。

―そうですよね。私も山陽本線のホントの全盛期を知らないですから。

奥井 そういう意味では、山陽本線の全盛期を見た方に、僕らは入るかもしれないですね。

―「さくら」とかをシロクニが引っ張って下関駅に入ってくる所を見てこられている……。

奥井 ええ。

   ◆    ◆    ◆

―瀬野八では、デゴニがまだ補機で……。何とも言えないですね。そのD52も、御殿場線でバリバリ現役の頃に撮りに行かれている……。これが昭和42年ですね。

奥井 はい。全部、ギリギリで追うていましたからね。

―これは、昭和30年代から撮り始めて40年代に入って、奥井さんとしてはそれでもまだこの当時は、結構な遠征ですよね。

奥井 ええ。大分無理しています(笑)。

―(笑)。御殿場線のD52、印象としては、いかがでした?

奥井 あの、美しすぎた。まだ、何もついてなかったですからね。ボイラー関係もストレートできれいだったし、しかも正面の印象が素晴らしくきれいでしたね。客車もヘビーウエイトのものがズラッと揃ってたでしょう。あれもよかったあ。

―当時、御殿場線の普通列車はPCのみの運転だったという……。

奥井 はい。スハ32系が多かったですね。ですから割と揃っていましたから、非常にきれいな列車が続々と走っていましたね。良かったと思いますよ。

―そして、この後には常磐線のC62が出てきます。夜行列車で朝早くに平に着いたんですか?

奥井 いや、あれはね、郡山から磐越東線で行ったんですよ。9時過ぎに着いたんかな、そいで機関区覗きに行こうって。客車のデッキを乗り越えて。ロクニ(C62)を見に行ったんですよ。

―え、夜にですか。

奥井 ええ、夜中に。うわあー!って皆(笑)。

―(笑)

奥井 3人連れて行きましたね、松阪の連中が。これがロクニやで、て教えて。それでその後、湯本に泊まって、朝タクシーで走ってました。

―あまり睡眠時間はなかった感じですね。それで草野付近まで行かれたんですか。

奥井 はい、タクシーで。

―そこで、急行「十和田」とか「ゆうづる」の上りとかが来ますから……。

奥井 ええ、走ってきますから。

―いいですね。シロクニ牽引で20系が……。どんな感じでしたか。この時は昭和42年になっていますので山陽本線も電化された後ですから、唯一蒸機牽引の特急だったんですが。

奥井 そうなんです。ですから、あれはやっぱり見とかなあかん、てね。ちょうど上手い事絶気する直前で、アッと思ったら、スイッて行った……(笑)。

―(笑)何とかギリギリいいところが撮れた……。

奥井 はい。

―絶気してしまったらあとはもう……。

奥井 惰行ですよ。

―惰行でそのまま平まで行ってしまうのですか。

奥井 ですからね、途中で煙が、スッと消えるんですよ。バァーっと……(笑)。

―明るくなってから、改めて機関区に出直して行ったんですね。

奥井 そうなんです。ま、一応カッコだけ。念願の「はつかり」も撮れましたし。「はつかり」も別な意味で憧れがありましたから。

―はい。

奥井 後で、「くろしお」で来るとは思わなかったですけどね(笑)。

―ああ、そうですよね。キハ81の平駅での発車シーンがありました。これは「国鉄ディーゼル篇」でも収録したもんですけど。

奥井 フィルム巻き上げて、あれだけしか写せなかった(笑)。

―でも地元ではなかなか見られないものを……。

奥井 あれだけ、撮ることが出来たんです。磐越東線から入って来る列車もかなりありましたからね。逆行もあったし、2台背面で連結していたかな、そんな列車もようけ(沢山)ありましたし。良かったですよ、あそこも。

―奥井さんのフィルムを見ていると、なんかその、D形はそれほど重要視していないようで、映っているのはもっぱらC形の、本線用のものばかりで……。

奥井 そうなんです。でも、もう1日、欲しかったけどね。

―そうですね。撮りに行けないですものね。

奥井 もう、無理ですわ。で、小名浜も行きたかったんです。あそこには、参宮(鉄道)のお古のA8が居ましたから。600形かな、1B1の蒸気機関車。

―それが、入換え用か何かで、居たんですか。

奥井 はい、残っていたんです。

―シロクニはこの時、平で撮られていますが、その後改めて呉線の方に行かれて……。

奥井 やっぱりロクニは、それぐらいは……(笑)。一応、さよなら列車、うまいこと入ってたでしょう。

―はい。さよなら列車ですね、あの……、なんとまあ……、何というか……、シロクニの17にシゴクの164の重連という……(笑)。

奥井 豪華な列車でしょ(笑)。

―まあ、いまだに破られてないらしいですね、狭軌の蒸気機関車の世界最高速度……、シロクニの17がマークしたという……。

奥井 はい。

―シゴクの164は梅小路に、シロクニの17が名古屋のリニア・鉄道館にそれぞれいますが、保存が決まっていたんですかね。

奥井 うん。C61の2号機もおりますしね。

―70年の8月ですから、梅小路入りすることは決まっていたんでしょうね。

奥井 でもなかったと思いますよ。

―C6217の方は、長らく名古屋市内で保存されていました。

奥井 ええ。

―呉線は電化直前で、前にEF58が付いていて……。

奥井 逆にですね、私みたいにムービーですから、電機を気にせずに撮ってますからね。だから撮れたんですね。

―はいはい、そうですね。

奥井 スチールで撮ろうとして、みな悪戦苦闘していますから。

―特に、後ろにぶら下がっている客車から前を撮ろうとしても、なかなかうまくいきませんし。その点動画はいいですよね。

奥井 一応、カッコだけ撮れてるでしょ(笑)。

―呉線は今も本数の多い所ですけれど、蒸機時代の昔も本数が多く、編成も長いですね。映像も貴重で、SLはC59にC62がバンバン走っているし、その前にEF58が付くし、普通列車、ローカルは気動車だし、72系の試運転は入って来るし……。

奥井 言う事ないと思います(笑)。

―糸崎機関区は当時、西日本では最後のシロクニの……。

奥井 基地でしたよね。一応、まだ、入りやすい時期でしたから、あれだけ撮ることが出来ました。

―割とほかにも撮影している人の姿が映っていますが、一言断って、撮らしてください、ああいいよ、ていう感じなんですか。

奥井 そうです。その時は割と気楽に、ホントに気楽に行けましたので。ただ、末期になって一回、人は写してくれるな、というところがあって……(笑)。SLは撮ってもかまへんけど、という機関区がありましたね(笑)。

―なるほど。でも、入っている人もヘルメットを借りて被っていますね。貸してくれるんですね。

奥井 そうなんです。


                  (つづく)

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奥井宗夫のむねのおく 2-19

よみがえる総天然色の列車たち第2章19 路面電車篇<後篇>」のむねのおく(その4)

伊予鉄道は、逆に今とあんまり変わらない感じですね。

奥井 変わらないですね。

―車両も一緒だし。ただ、京都市電から来た2000形が塗り替え(改造)前で、まだ車庫の片隅に並んで待機していて……。

奥井 なるほど。

―そんな時代ですが、先ほどお好きだといわれていた松山の、印象としてはいかがでしたか。

奥井 あの当時は、広告電車が多かったですよ。今はもう、単純になりましたけどね。だから、ちょっとは気にしていましたね。それと、鉄道とのクロスがありますし。

―そうですよね。

奥井 鉄道線には、まだ古いモハ100形が残っていましたからね。

―ローカル私鉄・西日本篇と分けて収録しています。同じ会社内での軌道線と鉄道線の平面交差があって、西鉄の薬院と同じような感じで、今残っているのはここだけです。

奥井 ええ。だから行きたいんです(笑)。

―最後に長崎ですが、ここは今も元気に走っているところです。

奥井 大方残っていますね。車両としてね。

―ええ、そうなんです。

奥井 新しいのは特に何も入らないし。

―いや、長崎は、新しい車両は結構入っています。

奥井 そうですか。

―逆に古い車両は、保存用の車両ものしかないのかな。

奥井 そうなっているんですか。

(編集注:映像にも登場する長崎電気鉄道生え抜きの201・202・211・300・360・370・500形が健在で、この後に他都市の車両機器を流用した1200・1300・1500・1700・1800形と、低床車両の3000・5000形が製造されている)

―ええ、都電の古いもの(2000形→700形)が行ったりするんですが、(映像は)新しい車両が登場する前の時代ですよね、撮影当時は。

奥井 ええ。あの後で、もう1回行ってることは行ってるんですが、駅前の高架だけでどこにも行かずに来る車両だけ撮っていましたから、役に立ちませんわ、あのフィルムは。

―あのう、今も動態保存か、静態保存かな、九州電気軌道の1形、西鉄発祥当時の車両(160形162・168)が車庫に普通にいてて。この時は走っていなかったんですかね。

奥井 あのね、走っていたと思うんですよ、あれ。ただ、僕が行ったときはもう、時間がなかったから、よう撮らなかった。

―朝のラッシュ時(に運行)のパターンですかね。走っているのは。

奥井 と、思いましたよ、あれ。ごくごく当たり前に、側線に待っていましたからね。

―(車庫の)奥に引っ込んでいる感じではなかった、ということですね。

奥井 直に動いていくような感じでしたね。

―鹿児島の時もそうだったんですが、奥井さん、石の橋に異様に執着がおありのようで、大変関心が深い。

奥井 そうですよね、この辺に石橋ていうのが全然ないから、余計執着があったんでしょうね。それでつい、鹿児島でも撮って。しかし、今となっては貴重な映像ですよね。

―中島川にいくつも架かっているのを片っ端から撮っておられて、これらもほとんど水害(昭和57年長崎大水害)で流されたんですよね。こちらは復元されましたけれど。

(編集注:鹿児島の石橋は、残ったものを移築して保存された)

奥井 別の場所でしょ。

―いや、同じ場所に集めて戻したみたいです。

奥井 へえ。

―長崎は同じ場所に戻しましたが、どっちの水害に遭ったという……。前の時(鹿児島)もそうでしたが、やっぱりしっかり撮ってらっしゃるなあ、と思いまして。

―余談ですけれど、大浦天主堂の横の脇道、8ミリ映画のドラマを撮りに行ったときに、現場で見つけてここで撮った思い出がありまして。その思い出の場所をしっかり撮られておられて。さすが奥井さん、なんかいいなあ、と思いました(笑)。ただ撮るだけじゃないよなあ、って(笑)。

奥井 それはそうですね(笑)。

―やっぱり、いい場所で撮っておられるしね。電車もねえ。奥井 それは、やっぱり考えて考えて、考え抜いて撮っていますから(笑)。

―蛍茶屋あたりも、だいぶ感じが変わっていますからね。

奥井 ええ。

―僕はこのシリーズを作っていて、楽しくて楽しくて仕方がないです。

奥井 皆さんがどのように理解してくださっているのか、わかりませんけれどね。

―路面電車篇、非常に楽しい作品だったと思います。いい映像を、僕としては、伝えることが出来たらいいなと思っています。撮影、お疲れ様でした。また、蒸気機関車篇が続きますので、楽しみにしていただけたら、と思います。

奥井 ありがとうございます。

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奥井宗夫のむねのおく 2-19

よみがえる総天然色の列車たち第2章19 路面電車篇<後篇>」のむねのおく(その3)

―そして、同じように今でも元気で走っているところでは、岡山もそうなんですが。ここで、1両だけイベント用に残っている東武日光軌道線の車両が、当時はメインで走っています。

奥井 そうそう、そうですね。

―ここの撮影に、昭和48年と52年の2回、訪れています。

奥井 何かのついでに、ちょっとね(笑)。

―当時の、駅前通りの広いところに、すでに広い電停が出来ています。逆に言えば道路が広い(今もですが)ので、ある時期各地で路面電車の廃止の嵐が吹き荒れて、悪者にされて渋滞の原因にされて苦労したところもあるんですが、そういうところと比較して少なかったのでは。今に至る岡山電気軌道、両備グループの伝統的な社風というものが出来たような気がするんです。

奥井 ええ。

―当時は、今とガラッと車両が違って、呉と秋田から来ている車両があったり、大分の別大線から来たものとか、いろいろと面白いものが走っています。

奥井 また撮りに行きたいですね。

―当時の印象としてはいかがでしたか。

奥井 行きやすかったので何回か行って、しかも行ったらどんどん色(塗装)が変わって来ますからね、同じ車両でも。だから割と撮った方ですよ。

―この後に出る蒸気機関車篇と照らし合わせてみると、撮影時期が一緒だったりしているんですね。

奥井 ええ、そうなんです。ですから、蒸機を撮って市電も撮って、尚且つなんか撮ってることになります。

―岡山駅前は、新幹線ができる前からいろいろと写っていて、そのあたりも面白いですね。でも、私にとって面白いと思ったのは、土佐電気鉄道ですね。大好きでしてね。

奥井 鉄道線に乗り入れていたのが3重連だったでしょう。あれがよかったなあ!

―市内線から直通する車両が、ローカル私鉄・西日本篇に収録されています。600形ですよね。

奥井 あれはもっと撮りたかったよねえ。

―ええ。逆に言えばあの電車が、市内線をジャンパ栓をつけて走っているていうのが、面白いですよね。

奥井 また行きたいな、と思うところは、やっぱり岡山・土佐! もう1回行きたいなあ! それから松山にも行きたいなあ!

―松山はあとで触れますが、高知で面白かったところで桟橋線があります。岸壁通停留所と終点の桟橋通五丁目停留所の位置がどこやねん、という謎が出てきまして、いろいろ問い合わせをしたりして突き詰めていくと、ものすごく近い距離にあったことがわかりました。目と鼻の先に、およそ20mの距離にありまして(笑)。僕が乗った時は、岸壁通停留所は交差点の北側に移っていて、今はさらに北寄りの桟橋車庫の前に移っていますが、なんていうことはない、ホントに目と鼻の先にあったんです。当時、撮影されていて奥井さん、なんか気が付いたこと、「降りてください」とか言われませんでしたか。

奥井 そんなことは言われなかったですよ。

―周りはみんな降りてしまって、誰も終点まで行かないでしょう(笑)。

奥井 ええ。料金払って、こっちは最後まで乗っていった(笑)。ただ、「降りよ」と言われたら、降りなきゃしょうない(笑)。

―私が乗車した時は、聞いたんです。交差点の北側の時ですけれどね。周りは手前で降りてしまうから。見たらもう一駅あるし、「終点ですか」って聞いたら「あります」って言われて(笑)。ガラガラガラっと終点まで行ったんです。その時交差点を渡った距離よりもまだ近い! ビックリしますよね!

奥井 ほおっ!

―それと、当時の国鉄駅前にあった停留所の位置も今は違っていて、JRの駅に直結しています。高知駅の軒先に乗り入れていましたが、駅が高架になったのでまた北側に延長しています。この延長した区間には私がまだ乗っていない3路線のうちのひとつなので、気にしているんですがね。

奥井 ははあ。

―西の伊野線の方に行くと、鏡川から先、朝倉駅前までの区間が大好きで、僕ばかりしゃべっていますが(笑)、単線で道路の東行車線を通っているんですね。

奥井 あそこは単線で、よう間に合ったことやなあ、って思いますよね。今でも単線でしょ。

―そうです、はい。秋葉線みたいに車が無かったらいいんですけど。バイパスが出来ましたが、それでも結構通行量があるところを逆走するわけですから、当時はもっと大変で……。映像を見ていると分かるんですが、電車が走り抜けた後、車がウォーッていう感じで殺到していて……(笑)。

奥井 まあ、よく撮れました(笑)。

―よく撮られていて、非常に昔の雰囲気を残している映像です。

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奥井宗夫のむねのおく 2-19

「よみがえる総天然色の列車たち第2章19 路面電車篇<後篇>」のむねのおく(その2)

―貴重といえば、時代的にはもう少し下るのですが、昭和46年の名古屋市電、何度も行かれて撮影されているのですが。名古屋市電はいかがですか。

奥井 名古屋市電はもう、僕らは2600型や3000型というような大型の連接車がどんどん走っていた時代を思い浮かべますね。だから、ほんとに哀れなもんだなあ、という気がして。車両は新しいけれどね。全盛期を知っているもんだから、車両がじゃんじゃん走っていたから、もう寂れた感じだなあ、という気はしましたね。

―このころはもう、あんまり姿は見えていないですから、2600型や3000型は引退した……。

奥井 ええ、あとですね。

―ああ、そうなんですか。見るからに路線は減ってはいるものの、まだまだ全盛当時の雰囲気を残しているのかな、と思っていたのですが……。

奥井 僕らに言わせると、もう完全にピークを過ぎているなと。(中心部の路線が廃止されて)支線だけ残ってしまっている感じでしたね。

―やっぱり中心部がね、栄町とかへ行く線がね。

奥井 私らが行くと、栄あたりでうろうろするものだから、あのあたりを連接車がどんどん通っていましたから。それを思うと、逆に寂れたなっていう気がしましたね。

―そのあたりには、もう地下鉄が走っていましたから。むしろ、その他の路線が廃止されてから地下鉄が通るまでに時間がかかっているようで……。

奥井 ええ。

―その間、輸送を支え切れたのかなあって。その当時でも、まだ相当の路線網が張り巡らされていて。でも、港湾部というのは、なんとなく東京都電と似た雰囲気があって……。急勾配を上がっていって、運河を渡って、という感じがよく似ているな、と思います。

奥井 もっともっと、街の中を撮りたかった。下之一色線ですか、あれももうちょっと街の中を撮りたかったな、と思いますね。あの独特の港町の感じをもうちょっと撮りたかったなあ、と今になって思います。車両ばっかり撮っていましたから。そのあたりが残念ですね。

――当時、名古屋駅前のロータリーの中を突き抜けていくところがありましたね。

奥井 それ、撮っていましたか(笑)。

―はい、あれは面白いですよね。

奥井 もうちょっと早く行かなきゃアカンかったね。

―それでも当時は知っている車両は、独特なものがありますね。

奥井 そうですね。ドラムブレーキやったし。

―最初、何かなって、不思議な形のものがしっかり写っていて。(名古屋市電)独特で、あんなものは(ほかに)無いでしょう。

奥井 あれは日車ですか、ね。あそこしか知らなかった。

―そうかと思ったら、2000型とか1900型とかがですね……。

奥井 新しいのは残っていたんですよね、あそこは。

―あの、スカートでね、全部(足回りが)覆われていて。

奥井 覆ってます。

―あれも独特ですよね。どんな感じなんですか、各地の路面電車を撮ってこられた奥井さんにとって名古屋市電というのは。

奥井 名古屋はちょっとクセがありましたね。やっぱり日車さんの影響ですか。

―なるほど。逆に受注も多いし、「こんなん試してみたい」「じゃあやってみて」みたいなことでしょうか。

奥井 そうなんですよね。

―だからこそ、地元の名古屋でできたっていうことでしょうか。

奥井 そう、思いますよ。基本的には、車体構造は変わっていませんからね、そんなに。だから、変えようと思ったらあの辺しか、変えようがない、と思いますね。そう思うと、防塵みたいな関係で、スカートで覆ったのかも。

―それともう一つ、国鉄の貨物線との平面交差が至る所にありますね。

奥井 もっと丁寧に、時間をかけて待って、撮ればよかったんですけど、そこまではなかなかいけませんよ(笑)。一日で全部回りますから(笑)。

―いろいろな意味で、独特なものが多いような印象ですよね。私は正直に言って、名古屋市電は見たことがなかったもので。

奥井 皆さんはどのように思われているのか、わかりませんが。

           

―同じ愛知県でも、豊橋鉄道はどうでしたか。

奥井 豊橋はね、僕らにしてみたら名古屋(市電)のお古が皆入っている感じでしたから、別に見慣れた車が多かったです。だから、それほど撮る気はしませんでしたね。

―近年、駅前に路線が伸びたと思っていたら、元々あった路線が、駅前の再開発とか言って切られていたんですね。映像を見たら、ちょっとビックリしました。ゴンと車止めが置いてあって、線路があるのに終点になっているんですよね。

奥井 今日の試写を見ていても、かなり前から名古屋市電の車両が入っていたことがわかりますよね。もっと他都市の車両をもっと入れてもよかったんじゃないかな。高知や広島みたいに。

―そういう意味では、北陸鉄道からも(車両が)結構来たりとかしていますよ。

奥井 そうですよね。北陸(鉄道金沢市内線)はね、撮り損ねましたよ。本数が少なかったし、色が地味だったし。

―カラーフィルム向きじゃなかった(笑)。

奥井 それで、待っても待っても来ないんですよ、あそこは(笑)。あそこもそうやし、下関の山陽(電気軌道)もそうやし。下関も、待っても待っても来ないんですよ(笑)。

―もっと来ないところを知っていますよ。阪神国道線(笑)。

(編集注:阪神国道線は晩年、上甲子園―西灘が日中1時間毎、野田―上甲子園が日中36分毎に運転され、上甲子園―西灘は昭和49年、野田―上甲子園は翌50年に廃止された)

奥井 阪神国道線は、撮っていたでしょう(笑)。

―あの、浜田車庫から先は無かったけれど、そこまではたっぷり撮られていましたが(笑)。あれは西日本私鉄篇<前篇>の方に入りましたけど。

―豊橋鉄道では、あと、柳生橋支線がまだある頃でしたね。

奥井 まあ、専用車両が走っていましたから。

―あれは専用だったんですね。モ3700形ですか。

奥井 柳生橋支線の運用に入ったら、一日行ったり来たりしていました。

―そしてあと、中京圏でいえば名鉄岐阜市内線の映像があります。名鉄篇には入りきらなかったので、ここに収録しました。長良線ですか、徹明町の交差点から上に上がっていくところもこちらに入っているのですが、岐阜市内線も時期がいくつかにわかれて撮影されています。

奥井 札幌の車両が行ったから、面白いでしょ。

―今思うと、当時、途中から札幌市電の電車が入ってきているんですけれど、昭和40年製の名鉄モ870形、これはモダンですねえ!

奥井 モダンです。

―当時からすると、ズバ抜けて新しい発想である……。

奥井 あんなんよう造ったなあと思いますね、札幌は。それをいとも簡単に、ほっぽり出したんですね。もったいないといえばもったいない。

―今、札幌はもっと古い型の電車が走っていますからね(笑)。

奥井 そうなんですよ(笑)。札幌は、あとになって撮りに行ったことはあるんですが、そんなにいいフィルムはないわ。ビデオでちょっと撮っているんです。札幌・函館は、うんと後になりました。

―いずれ、奥井さんのフィルムは、サウンドフィルム篇を計画していまして、そのあとビデオ篇まで構想がありますから、楽しみにしておいてください。

―美濃町線や谷汲線・揖斐線は名鉄篇に出てきますが、それとぜひ合わせて観ていただきたいと思います。

奥井 そうですよね。

―今回の撮影は昭和48年と52年ですが、この52年の方に札幌から来た電車が映っているんですね。でも、(この当時も)タブレット交換をしていて、続行の電車も丸い標識を掲げて走っています。

―そして、富山です。富山はどうなんでしょう。案外、今と雰囲気は変わらないような気がしますが。

奥井 変わらないですね。

―いろんなことは、今とは違いますが……。

奥井 車両も変わりませんし、ちょっと色が違う程度で。

―当時は、西町からまだ東部線が走っていたころで、今はこれがないんですね。

奥井 ええ。

―逆に今は、セントラムと呼ばれる富山都心線が出来て、まあ西部線が復活した形に近いんですが、循環系統が出来たりしています。当時の富山の印象とかはいかがですか。

奥井 あそこは、やっぱり富山地方鉄道(鉄道線)が中心になってしまうからね。よく、あれだけ撮ったと思いますよ。乗るのも一通り乗ったし。あれで、精一杯ですね。

―逆に言えば、今も元気で走っているし、ニュートラム(富山ライトレール)もできたりしています。JR富山駅の高架が出来て下が通れるようになったら、乗り入れできるようになるらしいですし。

奥井 そうね、それを楽しみにしています。

―ホントに、目が離せないところです。好きなところなんで、食べ物は美味しいし……(笑)。

奥井 富山駅前郵便局へ行きたい。

―何があるんですか。

奥井 郵便局のね、スタンプが……(笑)。

―あー、そっちの方の、郵便局のハンコ集めですね(笑)。

奥井 そう、駅前がつく局を気にしているの(笑)。あと、兵庫の西宮とね。

―西宮はなんですか。

奥井 西宮駅前局というのがあるんです。それでその2つは気にしてるんです(笑)。

―まだ、ゲットされていないんですね。

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奥井宗夫のむねのおく 2-19

「よみがえる総天然色の列車たち第2章19 路面電車篇<後篇>」のむねのおく(その1)

                   聞き手:ディレクター&プロデューサー・宮地正幸

―路面電車篇の後篇ですが、冒頭、仙台市電から入らせていただきました。1976年1月の撮影ということで、これは「国鉄電車篇」に登場する仙石線を撮られたのと同じ日ですね。

奥井 そうです。

―早朝に松島に行かれて……。

奥井 ホントはC57、いやD62か、あれを一回撮りに行きたかったんですよね。ところが正月だから(貨物が)動いていないし、こちらは(店を休める)正月しか動けないし。その時は一関まで行ったんですがね。スチールを少し撮ったんですけどね、あとは撮れなくて。だけど、あれもいい機関車でしたよ!

―それで動画は残っていないんですね(笑)。

奥井 残っていないんですよ。あの時は動画のカメラを持たずに行きました(笑)。

―そのあと月日が流れて、再度仙台に行かれたんですね。奥井さんにとっては、北限ですよね。

奥井 ハイ。もう、完全に北限です。あそこの牡蠣はうまかった(笑)!

―(笑)イヤ、おいしそうですね(笑)。

奥井 正月でどこの売店も開いていないものだから、駅の食堂で酢牡蠣をとって、ビールを飲んだかお酒を飲んだか。うまかったぁ(笑)!

―お正月の仙台なんですね。この時狙っていたものは……。

奥井 結局、仙台ですから、まず最初に鹽竈神社に参って、それから撮影に掛かったんです。ところが仙台市電はモハ100型を中心に動いていて、呉から来たモハ2000型とかの大型車は全然動いていないんですよね。これも弱ったんですが、撮るとこは撮らなきゃ仕方がないと思って。ですから、大型車は全然動いていないんです。

―お正月なので、そんなにお客さんが多くないから大型車が動いていない訳ですね。

奥井 (車庫の人に)全然動かないよ、と言われて。あ、これは仕方ないわと思って、あきらめて。

―なるほど、バサッと全線がいきなり廃止される直前の、最後のシャッターチャンスだったんですか。

奥井 はい。これはもう、今行かなきゃ仕方がないっていう気がありましたから。強引に突っ込みました、よかったんか悪かったんか。撮ってる人は少ないでしょう、仙台市電は。

―そうだと思いますけどね。何かに収録された、というのを見たことがありませんので。

奥井 そうでしょうね。でも、ギリギリのとこでしか撮れなかったですよ。呉から(車両が)行ったということは、わかっていたものですからね。早く(撮りに)行きたかったんですけれど、その正月が唯一の旅行だったんです。

―再訪もかなわず、路面電車(仙台市電)もその姿がなくなりましたからね。常に路面電車もある程度無くなる前に追っかけていく、という旅でもある気がします。

奥井 そうですね。

           

―次に東京都電が出てきます。これにしても、今でこそ荒川線が残っていますが、中央区や江東区界隈を色々と走っているころで……。

奥井 ちょっとバラエティがあって、面白かったですね。次から次から(車両が走って)来ますから。とにかく来たやつに乗らなきゃいかん、(このあと)東京の日本橋の方へ行かなきゃいかん、それがありまして、あれだけしかフィルムが残せませんでした。

―東から都心に向かって、という感じで、錦糸町からスタートしたんですね。錦糸堀交差点あたりから。

奥井 はい。向こう(葛西橋方面)へは行かなかったですわ。

―錦糸堀交差点あたりはどうでしたか。

奥井 車両は何ぼでも来るし、後ろの建物があまり大きくなかったので、撮りやすかったですね。

―なるほど。

奥井 なんでこんなに撮れるんかな、っていう感じでしたね。

―数珠つなぎで信号待ちしていましたね。

奥井 面白かったですね。あんなに(車両が)あったんかなって。

―さすがにあの物量というか輸送量があるというか。

奥井 お客さんもあったんでしょうね。

―時間的に(朝の)ラッシュも終わって、(車両が)車庫に帰る頃かもしれません。

奥井 それにしても凄い車両の数でした。

―5両も6両も連なって来る。それと、専用軌道と併用軌道が入り混じりながら、小松川線から砂町線に入っていって、洲崎線に出る。

奥井 水につかりながらね。

―えーと38系統ですか、この系統(の電車)で都心へと向かって行くのですね。水につかる、ってなんでしょうね。

奥井 さあ、何でしょう。

―昔あのあたりに洲崎球場があって、満潮のために浸水してきて試合が中止になったという記録があるそうですが。

奥井 あの水はちょっと訳わからんね。

―門前仲町あたりにまた交差点があって、東西と南北の路線が交差しています。門前仲町の角からちょっと上がっていったところに小津安二郎の生家がありまして、生誕の地の碑が立っています。

奥井 あー、そうですか。

―こんなところで、松阪と奥井さんにご縁があったのかなあ、と思っています。

奥井 いっぺん行かなきゃあかんね。

―この後、永代橋を渡って日本橋の方へ入っていくんですが、都心の街の風景は今とはそんなに大きくは変わらないですね。

奥井 ええ。

―そこに東京都電が走っている様というのは、凄いなあ、と思います。

奥井 それはそうですね。あんなに簡単に撮れたもんかな、と思うぐらい。もっとゴミゴミしていているのかなと思っていたんですが、それほどでもなくて。やっぱりそれだけ写真を撮らなかったんですね、みんな。

―でも、あの取り合わせというのは、非常に驚きでして。フィルムに映っている街の風景は大きく変わるモノではなく、そこに昔の東京都電が走っている映像っていうのが、カラーで不思議な感じがしたものです。

奥井 あそこまで東京都電を撮りに行くやつは、ちょっとバカでしょう(笑)。

―その一方で、今でいう荒川線、当時は別の路線名で三河島線・荒川線・滝野川線・早稲田線と違っていて、系統も別で直通では走っていなかったんですが。もちろん車両も、今は更新されて違う姿(7000形)で走っているものありますが、いろんなところが今とは違うんですね。

奥井 そうですね、あちこち違いますね。また、いっぺん行きたくなりました。

―三ノ輪橋の王電の本社ビルとかあの界隈の雰囲気が好きで、割とそんなに変わっていないような気がしますが、停留所の周りは全然違っていて……。

奥井 うーん、なるほど。

―今あるところは、逆に整備されていますからね。(撮影されたのは)ちょうど赤羽線が廃止された直後ぐらいなんですね。(王子駅前の赤羽方向へ)曲がる線路はなくて、今と同じ京浜東北線の下をくぐって入っていく方はある。あのう、雑司ヶ谷の辺りは住宅がいっぱい、アパートなんかが密集していたんですが、今は(荒川線の)両側が震災・防災対策で立ち退きになって道路になっているんです。

奥井 ああ、そう。

―あのあたりは、よく鶴田浩二が歩いているシーンが、通勤シーンとして路面電車の線路を歩いているシーンがドラマであるんですよね。

奥井 女の子二人が歩いてましたね。

―そうなんですよね。それを見て、当時レコードのジャケットでどれだけあの辺が出てきたか、思い出しまして。学習院下から南側の区間が多かったんですが。よく(雑誌などに)取り上げられていて、このあたりを歩くのがおしゃれみたいな……。

奥井 あったんかもしれないね。

―映っていた二人は歩くのを楽しんでいるようで。

奥井 面白いですね(笑)。

―今だったら、さすがにちょっと怒られるやろう、と思いますが(笑)。当時の早稲田停留所は、なんか汚いというか荒れているというか整備されていないというか……(笑)。その先の線路は捲られたままみたいな感じがして。今はきれいになっていますからね。

奥井 そうでしょうね。

           

―そのあと、静岡鉄道が出てきますが、確か同じ日に駿遠線も行かれたのですね。

奥井 ええ。

―秋葉線、これは……。

奥井 貴重ですよ。

―どのあたりが印象に残っていますか。

奥井 うーん、そうですね、やっぱり最初の袋井駅かな。あそこ、ステップじゃなくて箱みたいなものに乗って乗り降りしていましたかね。

―新袋井駅ですね。

奥井 あれは大したもんですね。

―(笑)ホントにあれは箱ですもんね。

奥井 なんでこんなところに箱があるんだろうと思っていたら、あれがステップ(の代わり)なんだわ(笑)。

―駅を出ると、商店街の中をカーブして、狭いところを通っていくんですが、撮影場所を確認する作業をすると、今は逆にがらんとして道は整備されていますが商店があまりなく、凄く変わっているんですね。

奥井 うんうん。

―その先はほとんど未舗装でしょう。

奥井 そうそう、それが事実です(笑)。

―すごいですよね。車でも走っていたら、轍でえぐられて線路もだんだんむき出しになってくることもあるのだろうなと思うのですが、そういうこともない感じで。

奥井 ええ。

―通っている車も少なかったから、当然舗装もされてないんでしょうけれど。昭和37年のフィルムですが、すごいなあ、と……。

奥井 思いますね(笑)。スタフを箱に入れたりね。

―そうなんですよね、こんな棒みたいなスタフなんですね。あれ、箱に鍵とかかかってないんですよね。

奥井 ないですよ。

―持っていかれたら、どうなるんでしょう。

奥井 知らない(笑)。

―子供がなんかいたずらしそうですよね。

奥井 いとも簡単に置いていくんですもの。

―子供ならあんまり意味も分からずに触りそうな気もしますが。それと、車内の映像が出てくるんですが……。

奥井 ハンドブレーキですか。

―あれ、予備につけているのは、現役時代の阪急のP−6などでも見た事がありましたけど。あれを使って停めているのは……。

奥井 あれしかないの。

―映像でも見たことがなくて。強いて言えばローカル私鉄・西日本篇で、別府鉄道のところで……。

奥井 巻いています(笑)。

―一番後ろの緩急車(客車)で車掌さんが(ハンドブレーキを)巻きながら、後ろから引っ張っている映像がありましたが。

奥井 あれは連結器(の遊間)を空けるために引っ張るんですよ。

―あれとは違うし、正味これでブレーキをかけていますしね(笑)。

奥井 そうなんです。かけています(笑)。

―えー!凄いものを見たなあ!っていう感じですよね。駅舎の下に貼り紙がしてあって、廃止のお知らせで、見ると5日前の撮影なんですね。で、そのあと静岡市内線に回られて、こちらは最終日なんですね。

奥井 ええ。

―今でこそ廃止と言ったら、いっぱいファンが訪れて混雑したりするんですが、このフィルムを見たいる限り静岡市内線の最終日当日、それがあるんですね。どんな感じでしたか。

奥井 どうでしかたね、意外とあっさりとしたお別れ、と思ったね。

―私が見た限りは、結構人がいっぱい乗っていて……。

奥井 あれ、無料だったんでしょう。

―あ、無料ね。

奥井 じゃなかったかな。

―お手製の横断幕みたいなものが車体に掲げられていて、私の印象では、ここも最終日はえらいことになっているなあと。

奥井 もう2日前に行きゃよかったかな(笑)。

―いやいやいや(笑)。最終日でないと、ああいう風情は撮れなかったと思います。日没後も撮影されていましたね。

奥井 もうギリギリまで、フィルムが残っているのをありったけ使って(笑)。

―街の中、意外と大きな市街地の中を走る様子で、市街地となると車の量も多くなって……。

奥井 たったの2キロですからね。よう、運転しとったな。

―繁華街の両サイドに目一杯車が駐車していて、オート三輪とか古いものでね。

奥井 あのお茶屋さんがいいですよね。だからあれだけ車が多かったのでしょうね。

―お茶を運ぶために。

奥井 お茶問屋ですからね。

―それで地名も茶町だったりするわけですかね。

奥井 お茶問屋さんが、がんばっていたんでしょう。

―呉服町から茶町にかけての界隈ですよね。

奥井 まあ、今となっては貴重な映像ですね。

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私と小型映画

奥井宗夫

奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。


奥井宗夫インタビュー『よみがえる総天然色の列車たち第3章1国鉄篇<前編>』のむねのおく」へ

◆ ◆ ◆

奥井宗夫インタビュー『よみがえる総天然色の列車たち第2章6名鉄篇』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章7国鉄ディーゼル篇<前篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章8国鉄ディーゼル篇<中篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章9国鉄ディーゼル篇<後篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章10ローカル私鉄・東日本篇』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章11ローカル私鉄・中日本篇』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー『よみがえる総天然色の列車たち第2章12ローカル私鉄・西日本篇』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー『よみがえる総天然色の列車たち第2章13近鉄篇1』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章14近鉄篇2』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章15近鉄篇3』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章16近鉄篇4』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章17近鉄篇5』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章18路面電車篇<前篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章19路面電車篇<後篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章20蒸気機関車篇<前篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章21蒸気機関車篇<中篇>』のむねのおく」へ

奥井宗夫インタビュー「『よみがえる総天然色の列車たち第2章22蒸気機関車篇<篇>』のむねのおく」へ



 私は現在、9ミリゲージの模型をしばらく休んで、8ミリ映画の方に熱中している。そのためにかなり他の方はおろそかになる。スチール写真もそうだし、記念乗車券は足を洗ったし、切符、切手に至るまでほとんど休止の状態である。

初めて映画を撮ったのは昭和33年からだが、鉄道はあまり撮らなかった。原因は初期のテストフィルムであまりにも横から撮したためにチラチラと走る列車が気に入らなく、山行記録が中心でした。

8ミリのシャッターは円盤の回転と開度で決まり、当然毎秒16コマ開度調節ナシでは鉄道はどうしても無理と思ったからである。

当時はダブルラン(16ミリ巾フィルムを片側半分撮して途中で反転して片側を撮り現像所で半分に裁ちつなぎ合せた)方式で最初はカメラ店の借物のエルモ8Aというゼンマイ式の機械、ところがレンズがニッコールのf1.8、13ミリというとても良く写るので感心してしまった。

でも或る日、C51225がオールダブルルーフのオハ31系の列車が近づいてきてゼンマイを巻き忘れて逃がしてしまった苦い失敗から電動式のキャノン8EEEというEE式の撮影機を初めて購入しました。

これはレンズもズームで露出もEE、お天気を見ながら絞りのリングを回さずになりとても助かりました。古いものを一生懸命使っていただけに感激もしました。

これで関門の旅(∗1)や静岡鉄道の森町線や駿遠線(∗2)へ行くことが出来たのです。しかしこのカメラも永く使うこともなくなってしまいました。技術の進歩なのでどうしようもありませんが、「私にも写せます!!」の一語で代表される、マガジンポンの時代になってしまいました。シングル・スーパー時代になってしまったのです。

まず画面が50%大きくなったのです。当然これまでのレギュラーサイズ(ダブルサイズ)より画面は美しくなるのは当り前。しかもサウンドに対するサウンド帯も更に磁気を塗り、片側に負担のかからぬようバランス帯も考えてあります。カメラの技術誌を見てからしばらくは様子を見ていましたが、発色や退色のことも考えスーパーを採りました。

そして撮影機は最初から憧れたニコンスーパー8を購入しました。f1.8、5倍ズームよりニッコールレンズへの信頼と24コマのスピードがあったからです。

8ミリは18コマが標準になりましたがサウンドにするのには24コマと決定したからです。しかし24コマで撮影すれば画面のチラツキは減少しますがフィルム代はかなり高くなります。一本50ft(15m)フィルムで18コマなら3分40秒、24コマなら2分40秒くらいしか持ちません。雑誌をかたっぱしから拾い読み、種々の条件を検討しました。丁度この頃に松阪レールクラブが発足したのです。そして無理は覚悟で鉄道24コマ、マイホームは18コマと決定しました。

このあたり皆それぞれ迷うようで18コマオンリーの人やSLは大切だから24コマ、市電は遅いので18コマとそれぞれあるようです。

第1回の遠征は大型SLを訪ねての御殿場線のD52と平のC62・61・60を見に前田氏、清水君と出発した(∗3)

               

第2回は秋の米原へD50(∗3)を見に前田氏の運転でマイカー撮影に出かけた。……

私のフィルムは大体200ftリールにまとめてゆく。約10分でそれ以上長くまとめない。足りないのは100ft、更に小さく帰ってきたままの50ft、不足のところには適当なものを足しておく、秋の米原も不足だから富山区の9600を足す、といった調子である。長ければ2つに分けるがこれはほとんどない。理由は予算がないことが第一原因であるが、他テレビのコマーシャルからコマーシャルの一区間的な気持ちもあり。下手な映画は短いのに限る。と同時に一時はやされた自動映写を配慮していたからである。50、100、200、400ftの特別なカセットに入れるとリーダーを引出してほとんど全部映写機がやってのける方式である。

特にここに書くまでもないが映写機だけはかなり外国製が進んでいるような気がしてならない。欧米の機械が気になってしかたがない。

最近日本ではテープレコーダー同調のパルス信号を入れてテープレコーダーと併用してゆくシステムが発売されているようだが、映写機とテレコは面倒でかなわないだろうと思う。やはり磁気でフィルムに入れることが理想だと考えられるが、パルス式なら18コマでも充分だし難しい問題だ。

これらのことからも、私はサウンドに対してはかなり気にして早くからテレコのカタログも取りよせて研究はしているのだが、予算の点でまだ全くの白紙である。

本当はフィルムのバランス帯にも音を入れ2chステレオサウンドの8ミリが目標なのだけど、そのように映写機が進むにはまだ5年くらいかかるのであろう。

しかし困るのはサウンドコレクションで、私のムービーの中にもぼつぼつ消えてゆくものがあり、何とか考えなくてはいけないようである。

さて映画に話をもどそう。あれから5年以上の年月が過ぎてしまった。蒸機ブームも異常ではあったがすでに10本以上のフィルムになり嫌気がさし今はどちらかと言えば私鉄が気になりED級の電機が一番気になった。そして5月に関東の秩父、西武のデキを見にゆき(∗4)、8月の末、なつかしの近江のED14(∗2)と米原のDD50を目的に米原に行ったのである。

米原のDD50はすでに一休となり全車雨ざらしとなっていた。交直接続区間の田村までの短い間なのだけど私の見たE10からD50、D51からED30更にDD50、今DE11にバトンを渡してしまっている。とってもがっかりしてしまった。近江の電機も東武のE4001が増えていたがED31がたくさん休んでいた。前に立ち寄った時にはフィルムがなく撮れなかったからである。しかし思ったほど撮らずに大阪セメントの電機とまぼろし(=蒸気機関車の廃車体)見に彦根を後にしてしまった。

私のフィルムは紀行的でほとんどカットしない。予算のせいもあるのだがSLのフィルムにもDCやECがどんどん出てくる。私の欠点でもあるだろう。国鉄のELにも興味があるがとてもそこまではゆかない。でも電車あり、市電あり、ナローあり、30本に近くになり時々切ったり継いだり好きなように楽しんでいる。

(松阪レールクラブ会報「Rail Mates」10号<昭和47年10月発行>より転載)

(∗1)「よみがえる総天然色の列車たち第2章1国鉄電気機関車篇 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」に収録。

(∗2)「よみがえる総天然色の列車たち第2章 ローカル私鉄篇 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」に収録予定。

(∗3)「よみがえる総天然色の列車たち第2章 蒸気機関車篇 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」に収録予定。

(∗4)「よみがえる総天然色の列車たち第2章 関東私鉄篇 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」に収録予定。

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奥井宗夫さんの息子・奥井淳司さんのHP「鉄道CAD製作所」        

「よみがえる総天然色の列車たち」テレシネの秘密

「よみがえる総天然色の列車たち第2章」DVD発刊によせて

映画フィルム修復・テレシネ

吉岡 博行

 「鉄道」を撮った8ミリフィルムは30年から40年を経た今日、その映像の発掘に情熱を傾けたプロデューサーの手によりDVDとして蘇り、私たちの目を楽しませてくれる。

 8ミリは昭和の初め頃にアメリカのKODAK社が開発し、日本に入ってきた。戦中は事情から中断せざるを得なかったが、昭和30年頃になると経済、生活も落ち着き復活の兆しが現れてくる。「鉄道」を趣味とする人たちの間で8ミリは脚光のアイテムとなり、汽車や電車は格別の被写体となった。そうして撮られた鉄道映像は撮影者の熱き思い出として大切に保存されてきた。

 2010年春、三重県在住の奥井宗夫氏撮影・所蔵の鉄道8ミリ280本がひとりのプロデューサーにより持ち込まれた。鉄道アーカイブのDVD出版をするためフィルムをビデオ素材に変換する必要があったからだ。

 一般にフィルムをビデオに変換することをテレシネと呼んでいる。テレビとシネマを合わせた造語であると思われるがかなり昔から使われている言葉である。8ミリは標準的に1秒間に18コマが撮影できるように作られているが映像のクオリティーを上げたり、後の録音の精度を上げるために劇場映画と同じ24コマで撮影できるカメラも多くある。ひとつのフィルムは18コマ撮影の場合3〜4分撮れるようにできているのだが、これを24コマで撮った場合2分40秒位しか撮ることができない。

 奥井氏のフィルムのほとんどは24コマで撮られている。撮影コストとして18コマに対し、ほぼ1.5倍の費用がかかる計算になるから、これは余程思い切らなければならない。

ここで、この280本の内訳について説明してみたい。

■ 撮影時期

 1963年(昭和38年)、C62・C54・呉市電が280本のリスト上では、はじまりとなるが、昭和34年に8ミリを始めてからそれまでの4年間のものについては、明確に記載されていないものも多い。

 最終は1982年(昭和57年)、紀勢本線のD51となるが、それ以降についてもリストに記載されていないフィルムが多く存在する。そして、その後はビデオ撮影となる。

■ 撮影したジャンル

  1. 蒸気機関車    日本国有鉄道

  2. 蒸気機関車    専用線

  3. 電気機関車    日本国有鉄道

  4. 電車       日本国有鉄道

  5. ディーゼルカー  私鉄

  6. ディーゼル機関車 日本国有鉄道

  7. ディーゼルカー  日本国有鉄道

  8. 電気機関車    私鉄

  9. 電車       私鉄

  10. 路面電車

  11. その他(貨車、地下鉄)

■ フィルムの編集形態

  スーパー8、カラー 1巻 150feet(45m)200feet(60m)

  撮影・映写速度は毎秒24コマ 録音なし、上映時間 1巻 8〜10分。

  1巻ごとにタイトル画面が付けられていてすべて編集済みである。

 フィルム全280本(巻)として総時間は約40時間、総延長15kmの長さとなる。フィルムの状態は多少、カラーの褪色が見られるものもあったが全体

に良好である。カラーフィルムは白黒フィルムに比べて経年変化が少なく、このことが幸いしたと思われる。1本毎に編集済みのものであるため10ヶ所から20ヶ所の接合箇所がある。当時のフィルムセメントによる接合は変化して盛り上がっている所もあるのでこれがテレシネ作業時にフィルムを傷めることになりかねない。奥井氏に了解を得て全接合をスプライシングテープに貼り直したが、この総数がなんと3,000ヶ所近くを数えた。

 かくして、テレシネ作業は約3ヶ月で終了し、その映像はプロデューサーの手により再構成・編集されDVDシリーズ「よみがえる総天然色の列車たち第2章 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」として順次発売が開始されている。

 鉄道8ミリ界巨星の奥井氏が情熱をかけて撮った昭和30年から50年代の貴重な鉄道映像が今、蘇ってくる。その作業の一部を担わせていただけた者として誇りに思うこの頃である。

2011年1月 記

吉岡 博行 略歴

京都市在住。昭和30年(1995)年、京丹後市生まれ。13歳で8ミリを始める。

写真専門学校を出て、TVCFの撮影助手として映像業界に入る。フィルムからビデオの過渡期を撮影技術で携わる。

近年は3DやHD制作にも関わる。

1998年から小型映画のテレシネ・修復技術を独自に開発し、フィルムアーカイブの一端を担う。

株式会社 吉岡映像 代表。

株式会社吉岡映像さんのホームページ http://www.oldfilm-saver.com/

近鉄プロファイル製作リポート その2

近鉄プロファイル製作リポート その2

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<2011年7月11日〜16日>

7月16日()

 撮影17日目は奈良線富雄駅前の旧変電所の撮影からスタート。近鉄ではもう唯一という煉瓦造りの建屋は現存最古、大阪電気軌道(大軌)開業の1914年当時からのもので、現在もレストランとして現役で活躍している。

 続いては生駒ケーブル宝山寺線の撮影。ご存知「ブル」「ミケ」の愛称で親しまれるユニークな車両が活躍しているほか、ケーブルでは全国唯一の複線、車が通る踏切、そして全国最古と、ネタが尽きない路線だ。終点近くの宝山寺もこのケーブルは勿論、大軌創成期の歴史と密接なかかわりがある寺院であり、外すこことはできない。参道の石段を寅さんとマドンナの松坂慶子のシーンが撮影された、私の中でも特別な場所。食堂で、珍しく寅さんがビールを残して席を立ったことも印象に残る。

 このあとは生駒線撮影に突入。近鉄では最近特に私のお気に入りの路線だ。郊外住宅地と農村の性格を併せ持ち、しかも一部には単線区間も残る。緑も豊かで撮影をしていても気持ちがいい。特に東から観る生駒山がとても美しい。本当はこの山を背負ってカーブで切れるいいポイントもあったのだが、この時は山容がかすみかけていて、心残りだがここでの撮影は断念する。

最後に萩の台―元山上口間の旧線を探すが、線路の移転に伴う大規模な土地改良で跡形もない。これほど形跡が残らない線路の付け替えは、他には同じく土地改良に伴い移転した飯田線天竜峡―時又間ぐらいしかないのではないだろうか。

7月15日

 撮影16日目は西大寺車庫の全景とそれをバックにした橿原線の走りから。立体交差の国道に上がれば歩道から俯瞰できると思ったら、北側に新しい橋が増設されていて、こちらには歩道が付いていない。俯瞰は断念して、線路沿いの道路から撮影する。

続いて尼ヶ辻近くの垂仁天皇陵がらみの走り。さらに薬師寺入れ込みの走り。この付近は沿線に文化財が密集していて、橿原線独特の空気感を醸している。このような線は全国でも少ない。次に郡山に移動して金魚の養殖池を前景に置いて伊勢志摩ライナーの走りを撮影。先日取材を済ませた金魚のセリのシーンにつながるショットだ。

ファミリー公園前付近などを撮影しながら南下。新ノ口短絡線に向かう。かつては分岐部分で橿原線と短絡線に挟まれた空間は空き地になっていて、進入した下り列車は次のカーブを左に曲がって行く辺りまでずっと見通せたものだが、何年か前にその部分に住宅が建ってしまい、とても撮影が難しくなってしまった。とにかく二手に分かれて分岐点と、西側のカーブ地点で撮影する。

7月14日

昨日に続き駅撮日。少しでもラッシュから遠ざかるために丹波橋からスタート。最近とみにお気に入りの美しい26600系2連×2の下り特急の発着を押さえると、贅沢にも特急で京都まで移動。しかしこれで10時発の特急の出発も撮ることができるからこの出費は高くはない。

伊勢志摩ライナーの出発など所定の撮影を終えると京都から大久保へ移動。特急の通過を撮ると、それを退避していた急行に乗車。続く新田辺では下車した急行の発車を撮影し、次の急行の到着を撮影するとその列車に乗車という、実は私がよくやる得意のスケジュールでこなしてゆく。

そしていよいよ本日のメインディッシュ・大和西大寺駅の撮影となる。奈良線・京都線・橿原線が平面で接続し、各線各種別の列車がひっきりなしに発着するうえ、西大寺車庫からの入出庫の列車も加わるこの駅の忙しさは、恐らくは日本一ではないだろうかと思う。ストーリーの本筋に沿って必要な列車を確実に撮影していくのは勿論、その他に予定外のものまで色々と撮れてしまうという面白味もある。そのうえ駅のリニューアルに伴って誕生した展望デッキからの俯瞰も狙えるようになったので、この駅の編集は一体どうなることか、私でさえももはや想像もつかない。1時間ほど目一杯撮影したあと、遅れを取り戻すために構内の立ち食いそば屋で簡単に昼食。しかしNカメラマンはあまりの目まぐるしさに食欲を喪失し、昼食をキャンセル。

次に西大寺車庫へと移動。ここでは5820系の車内撮影を行う。シリーズ21の中でも、ロングシートにクロスシートにと自在に座席を変換できるLCカーの代表選手だ。驚いたのは車端部にあるパネルの操作で1編成全部ではなく、1両だけでも座席の転換ができる技があったことだ。

続いては近鉄奈良。色々とターゲットはあるが、西大寺に比べれば撮影自体はもう落ち着いたもの。しかし阪神と京都市交のコラボなど、特殊な狙いのものは限られた時間の中ではなかなか難しいことを痛感する。

更に近鉄郡山、平端、天理へと移動。堂々としたターミナルの風格を漂わせる天理駅の良さを今日再発見する。私が「近鉄式」と呼ぶ美しいアールのベンチも最近めっきり少なくなったが、ここでは健在なのも嬉しい。

今回のロケ全日程の中で、最もハードだと予想されたこの日の撮影を無事に終え、撮影の大きなヤマを越える。すっかりへとへとではあるが、それでも、終着駅の場内信号が遠くに見えたような気分だ。

7月13日(水)

 本日は駅撮日。ウォーミングアップを兼ねて瓢箪山で上りアーバンライナーを撮影の後、電車で東生駒に移動。ここでは準急の退避、通過線を行く優等列車などの他、けいはんな線列車の東生駒トンネル進入や、東生駒車庫も撮影する。

 続いて学園前に移動。ここでは特急の着発など。特急停車駅では特急の停車する様子をなるべくしっかり見せる。これが「近鉄室ファイル」の基本設計のひとつだ。

 次は生駒駅。生駒線列車の発車、奈良線の特急と快速急行、そしてけいはんな線と忙しい。そのけいはんな線の下りに乗って次の白庭台で下車。本来は学研奈良登美ケ丘の予定だったが、先日の沿線ロケで、これ以上ないという撮影が駅の外からできたので、ここに変更となった。お陰でここでは近鉄第3位の長さを誇る東生駒トンネルの走りも納めることができた。

 けいはんな線で新石切へ移動。ここでは駅の着発の他に吉田方面からの高架上の走りと、新生駒トンネルへの進入も撮影する。

 さらに奈良線の石切へ。ここでは準急と普通の緩急接続。このような事象をなるべく紹介するのも基本設計のひとつであるが、呎の都合で言ってることと変わることもなくはない。しかしここは是非もの。

石切駅から徒歩移動で旧孔舎衛坂(くさえざか)駅へ向かう。ここは新生駒トンネル完成の際旧ルートとともに廃止となった駅だが、まあ、数ある廃線跡の中でも断トツに素晴らしい部類に入る。複線の線路敷きを挟んでほぼ完璧な形で相対式ホームが残り、そのカーブの先に旧生駒トンネルが口を開いている。廃線好きの私としては思わずテンションが上がってしまう。

次に東花園に移動。ここで待ち受けたのはモワ24系電気検測車「はかるくん」だ。私も初めて見たが、奈良線に入るのはなかなか珍しいのだそうだ。退避時間利用して、色々と外観を撮影。

最後は東花園車庫。ここでは21000系アーバンライナーPLUSと30000系VISTA−EXの形式撮影を行う。改造後のビスタカー1階席の様子を初めて見る。大きなテーブルがしつらえられてなるほどグループ専用席にふさわしい内装となったが、これまでビスタカー乗車の際は必ず1階席を指定していた私にとっては、少し複雑な思いを残す撮影となった。

<2011年6月30日〜   >

7月12日(火)

 撮影13日目は昨日取りこぼした京都線から。竹田駅そばで撮影中に気付いたことだが、京都市交の電車には2つのタイプあったのだ。前面が額縁デザインのものと丸みを帯びたもの。烏丸線用の車両は開業以来1形式しかないと思っていた。それは間違いではなかったのだが、3次車以降デザインが変更されていたようだ。

 次に丹波橋に移動すると、京阪との絡みの撮影。なかなかタイミングが合わず、苦労する。かつてここで京都線の線路は京阪の丹波橋駅へとつながっていて、相互直通運転が行われていたのだ。勿論、廃線跡の撮影も怠らない。

そしてデイタイムに下りは1本しかシャッターチャンスがない伊勢志摩ライナーを捉まえるために小倉へ移動の上撮影。

 午前中で、ホーム撮影分を除いて京都線の沿線撮影は一応終了。橿原線へワープするのだが、昼前から予報に反してどうにも雲行きが怪しい。列車の撮影は諦めて廃線跡の撮影に切り替えることにする。平端に到着するとしっかり雨。それでも待ち時間を利用してロケハンを行う。伝説の法隆寺線だ。西へと向かい、JR大和路線の線路が近づく辺りのため池に見事な築堤が! そして富雄川を挟んだ西側にも緩やかなカーブを描いて築堤が続いている。ああ、ここは去年、特急「まほろば」を撮影するためにここに来た時に、駅からカメラを担いでとぼとぼと歩いた所ではないか。全く気付かなかったが、これが法隆寺線の廃線跡だったとは!

7月11日(月)

撮影12日目。順光のうちに巨椋池干拓地バックの走りからスタート。線路の向こうの農地のインサートは午後回し。続いて桃山御陵前の御香宮の鳥居越しショット。奈良電開業当時の高架橋建設と御香宮、つまり酒どころ伏見の地下水との関係は重要で、ここは外せない部分だ。

次に琵琶湖疏水を跨ぐ伏見―近鉄丹波橋間、さらに上鳥羽口―竹田間の鴨川と徐々に北上し、京都駅付近の新幹線との交差部へ。11時になるのを待って近くの京都プラザホテルを訪問する。ビコムスタッフの京都での定宿であり、私も利用することがある便利で安価なビジネスホテルだ。ここの非常階段に上がらせてもらうと、東寺駅と東寺が一望のもとに。今日は空気もきれいで、洛西・西山に広がる緑の竹林まで見渡せて、まさに絶景である。

昼になると、天気予報通り雲が店を覆うように広がり始めたので、効率は悪いが予定を変更して、木津川まで一気に南下。まだ青空のあるうちに橋梁を渡るシーンを撮影。インサートで「流れ橋」こと上津屋橋を経て、寺田へと向かう。この付近で走りを撮影しておかないと、城陽市を素通りしてしまうことになるからだ。

そして有名な澱川橋梁へ。午後の柔らかい日差しがその美しくも堅牢な、橋桁なしの164.5の巨大なトラスを浮かび上がらせる。

夕暮れ間近となったが、明日の撮影のために、桃山御陵駅前後の高架橋を俯瞰するポイントとなる日能研さんに交渉に訪れると、タイミング的には今がありがたいということで即撮影させていただくことに。折しも上りの伊勢志摩ライナーとも離合して、本日の撮影の憂愁の美を飾ることができた。

7月6日(水)

結局天候不良やスケジュール都合やらで、11日目の撮影は今日となった。まずは撮り逃がしていた菖蒲池駅周辺のショットから。遊園地があった頃からの変貌ぶりは凄まじく、池以外にオーバーラップするものは何もない。子供の頃にもよく連れて来られたのだが最後は確か1980年オフの近鉄バファローズのファン感謝デーがここで開かれた時だったと記憶している。

次に学園前方面に少し移動して、アーバンライナーの車両紹介用ショットなどを撮影したのち、平城宮跡に移動。ここで下りの快速急行やら、沿線紹介としての平城宮跡を走る伊勢志摩ライナーなどの走行シーンの他、再建された朱雀門や大極殿等のインサートも撮影。昨年の1300年際の時の大変な人出と比べると、平日とは言え余りに閑散としていて、警備の方も余りのヒマさに気が抜けてしまったと言う。広大な遺跡の中を電車が駆け抜ける場所など全国にもそうないので、ここはオススメスポットだと思うのだが。

その途中で一旦平城宮跡を抜け出して橿原線西の京―九条間で先ほどの返しの伊勢志摩ライナーの走り。この付近はついつい間近にある薬師寺の入れ込みを取りたくなる区間ではあるが、それを無視して縦位置狙いに行くとなかなかいい場所ではある。我々が撮影するに当たっては、沿線からの撮影とは言えども、事前に撮影区間を協力していただいている近鉄ステーションサービスに連絡し、そちらから列車区に連絡が行っている。だから、勿論軌道内には絶対入らないが、線路近くでの撮影でも安心感が全然違う。一般の方が線路近くで撮影する際には、一層の注意を払って、とにかく安全に撮影を行うようこの場を借りてお願いしたい。

午後からは奈良公園と東大寺の撮影。今日初めて気付いたが鹿の角は柔らかい。ベルトなど革製品のような感触だ。大仏殿周辺には外国人の姿も多く見られ、海外からの観光客も戻りつつあるのかと一安心する。

今日は夜から雨の予報だったがぼつぼつ天気が怪しくなってきた、と思ったらざっとひと雨。何とか今日中に奈良線は撮り終えてしまいたい。奈良駅と、トンネル進入部、そして新大宮駅を撮影して本日は17時前で終了。奈良線関連も駅撮りを除いて一応所期のものを無事撮り終えることが出来た。

6月30日(木)

 撮影10日目は奈良線生駒駅東方での快速急行10連の撮影から。続いては東生駒―富雄間のヒキのポジション。奈良線らしい丘陵地に広がるのどかな住宅街を走る電車をロングで撮れる場所を撮影中も探していたが、今朝になってようやく見つけることが出来た。マルーンのツートンとライトグレー双方を狙ってみたが、マルーンの方がこの風景によく映える。作品中ではこちらを使用することになるだろう。

 続いて京都線へと移動し、昨日に引き続き高の原―平城間の丘陵地帯へ。これが奈良市内の近鉄沿線かという田舎の雰囲気の中、築堤の上を一瞬、列車が通過する。これから移動する北隣の高の原駅周辺には大規模なニュータウンが展開し、今は全くの別世界だが、かつてはここと同じような景色だったのだろうと想像する。

 高の原から北へと移動すると、丘陵地帯に挟まれた南山城の盆地へと入る。田植えからまだ日の浅い田園風景と、蒼き山々。この辺りは以前から結構お気に入りの場所だ。車両よりも風景を見せるショットが多くなる。

 撮り進めながら木津川までたどり着いたが、日も傾いた上に雲に覆われたため、撮影はせず本日はこれまで。いや、新田辺駅の外観と、駅前の一休さんの銅像だけは押さえておく。今朝までの天気予報とは一転、明日の天気は芳しくないようだ。さて、どうするか。

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近鉄プロファイル製作リポート その1

お詫び

「近鉄プロファイル第3章・第4章」につきまして、作品の中味の方の製作に少人数で目一杯取りかかっており、「製作リポート」のUPは非常に困難な状況ですのでご了承ください(これを脱する頃には製作が終わっています)。

その代わりと言っては何ですが、分量的にはそれほどではないものの、私のtwitterの方には、近い内容のものが時々含まれておりますので是非ご覧ください。

  twitterはこちら 

近鉄プロファイル製作リポート その1

執筆者:プロデューサー&ディレクター 宮地正幸

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<2011年5月31日〜6月29日>

6月29日(水)

撮影9日目1番手は奈良線東生駒西方から再びアーバンライナーの撮影。線路の北側のポジションだったが下り列車のかぶりもなく無事終了。しかしこの後がいけない。予定していた菖蒲池―西大寺間の縦位置正面のポジションは思惑と違い、カメラが入れる場所がなく断念。続く学園前の街の雰囲気が解るような横位置ヒキのポジション、これも適当な所が見つからない。

あきらめて金魚の街大和郡山に向かう。ここの郡山金魚販売センターにお邪魔してセリの様子を撮影させていただく。池の中央に設けられたセリ会場には中央に水路が通っていて、ここに次々と金魚の入った木箱が流されてきて、買受人たちによって品定めが行われ、落札されてゆく。番号札が貼られた木箱は、今度は外の池に細かく区分けされた水路に、落札者ごとに仕分けられて流されてゆく。まるで昔の貨物ヤードのような風景で、金魚好きでもある私には大変興味深かった。理事長の永井さんには炎天下で汗だくになりながらインタビューにも答えていただいた。ありがとうございました。

続いて大和西大寺駅西方の踏切付近からの撮影。奈良線や京都線の列車が次々と来て、カメラが止まる暇もない。しかし一歩京都線に入るとすぐに田園や丘陵地帯が近づき、がらりと趣が変わる。

京都線の撮影はこれからが本番だ。

6月28日(火)

撮影8日目は奈良線からスタート。まずは富雄付近で上りのアーバンライナーを撮影。その他は学園前、東生駒と移動しながら下りの列車を中心に追うが、10連の快速急行は撮り逃がしてしまった。それにしても、この辺で見る阪神の車両にはいまだに嬉しい違和感がある。「三宮」の行先表示器然り。

生駒―東生駒間の奈良線・けいはんな線併設区間。架線き電と第三軌条き電の双方が並ぶ区間は日本ではここだけではないだろうか(あったらスミマセン)。ここを皮切りに、午前中の光線のうちにけいはんな線の下り列車の撮影を進める。この作品では各線下り列車を軸に路線を見せるという構成が中心となるからだ。北生駒、学研奈良登美ケ丘とも駅をいい位置から見おろすポジションがあり、助かる。特に後者はけいはんな線の定番ポイントだ。

続いて沿線ネタのけいはんな学研都市のインサート撮影。夕方閉館後からの撮影をお願いしていた国立国会図書館関西館の外観撮影中に挨拶に伺うと、一番キモとなる部分は開館中に撮影した方がとのアドバイスをいただき、急遽館内へ。

けいはんな線のヒキのショットをふたつ撮った後、閉館時間に再び図書館に戻り、残りの部分の撮影。広報の田中さんにご出演いただき、面白おかしく撮影を進めた。さてこのシーン、どんな編集になるか。呎が伸びそうな場面である。

6月26日(日)

今日は臨時列車や団体列車が運転される天理教の祭典日にあたるので、天理線を中心に撮影を行う。まずは通常ダイヤの橿原線からの直通急行。これを京奈和道直下のエスカーブで。その後は撮影隊は二手に分かれて、シャッターチャンスが少ない臨時列車に対応する。

最初は京都発天理行の臨時特急。2200系4連による運転だ。続いては15200系4連の「新あおぞら供廖そしてこれの回送。3本目は名古屋発特急への増結車で、これは22600系2連による。これらを田園風景でのヒキ画や受け、平端でのスイッチバックや新ノ口短絡線への進入など、可能な限りの場面を撮影。勿論この間、臨時の直通急行のも走るほか、通常運転の急行や普通もあるので、天理線の全貌が判るようにこれらもバランスを考えながら撮影。名古屋行きの臨時特急の天理駅発車の映像まで押さえると、天理線はホーム撮影を除いて投了。橿原線に移動する。

JR大和路線との交差部を目指すが、これが車を置ける場所からカメラ位置まで遠いこと。農家の方に断りながらあぜ道や休耕田を進むと、最後は昨夜の雨でぬかるんだ荒れ地へ。靴やズボンまでドロドロになりながらも何とかやり遂げる。

車まで戻ると、さっきその置き場所を提供していただいたおじさんが収穫したばかりの赤ジャガイモを我々にプレゼントしてくれた。今年試しに植えてみた名前も知らない品種なのだそうだ。便宜を図っていただいた上におイモまで頂戴するとは。お味は保証しないと言うが、これを賞味する際には炭水化物ダイエットは勿論中止だ。しかし本当に、こうして色々な形で皆さんに支えながら、作品づくりは進むのだとあらためて実感する。

6月24日(金)

撮影6日目。「よみがえる総天然色の列車たち第2章6名鉄篇 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」の仕上げに追われていたのと、天候不順もあってまた中断していた撮影が再開。今後はピッチを上げて撮影を進めてゆくことになる。

一番手は奈良線河内花園付近。下り線だけが高架線に上がり、上り線は地上の仮線の区間の途中。この周辺でそんな上下線の退避をいくつか見せる必要がる。2カット程撮影してけいはんな線へ移動。

荒本―吉田間で地下から阪神高速との共用の高架橋へ駆け上がるポイント。絶好の位置に立つビルのオーナーさんとテナントの会社さんに前日ようやく許可を頂き、ビル3階の窓から撮影。

次に向かったのは石切神社。石切駅最寄りの沿線紹介のインサート撮影。参拝者の肖像権に配慮しながらお百度参りの様子を中心に追う。参道の撮影では丁度地元のゆるキャラ「いしきりん」のイベントに遭遇。急きょこの子にも出演していただく。今年一番の暑さと言う状況でへとへとになりながらも頑張ってくれたいしきりんに感謝。そのあと門前の食堂で昼食におでんを頂く。

次に向かったのは石切駅近くの高台。駅や奈良線越しの大阪平野が望める場所だ。曇り予報だったのが一転、素晴らしい好天となり、奈良線有数のビジュアルを撮影。けいはんな線のロングショットもここでものにする。

次は若江岩田で、仮線&高架線の撮影。針路を西に取りながら、以前からの高架線上の走りを取り進めようとするが、最近はこれが非常に難しくなった。線路沿いのマンションから撮影したいのだが、なかなか許可が下りないのだ。事前の準備でもこれだけに数日を要したりするのに、当日すぐに撮影にこぎ着けられるはずもなく、交渉を後日に残して移動。後日空撮も行う予定だが、それだけではなく、適宜違うアングルの画を繋ぎ込んで変化を付けたい。

俊徳道でもマンションの管理会社との交渉を宿題に残し、大阪線沿いに南下。高架線取付部を降りる列車を数パターン撮影する。路線順の走りショットの他に、車両紹介用の映像も必要だからだ。続いて長瀬駅の通過シーンの撮影。この作品では、近鉄の全駅を紹介することは到底できないが、ここは近畿大学の最寄り駅で利用者も多く、作品上も無視しづらいのでサラっとでも見せておく必要がある。

次に向かったのは長瀬―弥刀間に広がる耕作地。東大阪市内では貴重な線路沿いの農耕地だけに何とか撮影したい。古い集落の路地を抜け(東大阪にはこのような入り組んだ狭い道がとても多い!)、ようやく畑にたどり着くと、丁度農作業中の方がいたので交渉。快諾を頂くが、時間的には丁度西日の逆光で、今日の撮影は難しい。後日勝手に来て撮影させていただくようお断りをしておく。ここはスイカ畑だそうで、7月下旬が撮影の好タイミングだそうだが、うまくスケジュールが合わせられるかどうか。

続いては弥刀駅。優等列車は通過するが、2面4線の構造なのでこの駅もパスできない。準急の通過を敷地外から撮影して駅舎の雰囲気を押さえると、本日の撮影は終了。    しかし仕事はこれで終わりではない。プロデューサーでもある私は、この作品のアドバイザーを引き受けてくださるという山辺誠さんとの打ち合わせに、大阪市内へと向かった。

6月13日(月)

5月31日のイン以来今日は久々の撮影日。例年にない早い梅雨入りによる天候の不順や、「よみがえる総天然色の列車たち第2章6名鉄篇 奥井宗夫8ミリフィルム作品集」の仕上げ作業とのバッティングでなかなか近鉄の方の撮影スケジュールが確保できなかった。それでも桜関係先行ロケを含めると、本日で撮影5日目を数える。

朝1番手にけいはんな線新石切駅に集合。大阪府下明り区間の撮影ポイントをサクッとロケハンして回る。集合場所まで電車の先頭部に張り付いて見て来たので、まずは大体見当を付けていた荒本駅西側の掘割区間へ。丁度カメラの入れる駐輪場があったので係員の方にお断りしてセッティング。開口部一面に金網が張られていて、その下を電車が走るという、けいはんな線東大阪市な区間らしいショットとなる。

次に大阪市営地下鉄長田駅へ。ここが京阪奈線の始発駅だが、駅は大阪市交通局の管轄なので、この日はここ1か所だけ別日程での駅撮となった。交通局の担当者N氏と合流すると早速ホームへ。N氏はつい先日もビコムの展望作品「大阪環状線」でも撮影に立ち会われたとか。各駅で接続する路線の紹介ということで地下鉄の駅でも撮影が行われたのだ。芸が細かい。そんな話もそこそこに、下り学研奈良登美ケ丘行きの近鉄車両の発着と、コスモスクエア行き市交車両の発着等を撮影。予定の30分間で無事終了する。

今日は雨こそ上がったものの天候が思わしくなく、どんよりとした鈍色の空。なるべく都市部を中心に撮影を進めることにする。移動した先は地下線から高架線へと駆け上がる区間。全体が見渡せそうなビルを見つけてロケ交渉(ロケハンをする日程がなかったのだ)。突然の訪問に決済をできる方が対応できず、交渉は後日に繰り延べとなる。

次に向かったのは阪神高速東大阪線の直下を走る吉田駅付近。高速道路のコンクリート橋の下にけいはんな線の巨大なガーダーが渡されている。

 餃子の神様がいるという噂の大阪王将で昼食の後、新石切駅を見渡せる新生駒トンネル入り口付近へ。駅の撮影はまた別途行うので、その時のカット割りを確認しながらわずか2分で撮影終了。沿線ネタで後日撮影にお邪魔する予定だった石切神社が直ぐ前だったので、ついでに申請に立ち寄る。

 次の番手は奈良線の額田付近。4月にも桜がらみでこの付近では撮影済みだが、その前後を埋めるカットを撮り足してゆく。瓢箪山を出るなり続く33‰の急こう配区間。建設当時の労苦が偲ばれるが、それを伝えるナレーション分の映像呎が必要なので、ある程度丁寧にショットを積み重ねる必要がある。その上瓢箪山駅すぐ東の踏切は国道170号。直ぐ南北の区間は国道上が商店街になっており、何とアーケードが架けられている。これの説明は是非とも入れなければならないので、しっかり撮影。そこへヘリテックエアロサービスさんから電話。この作品でもプロファイルシリーズの定番である空撮ショットが入る予定だが、その撮影をお願いしている会社だ。依然ビコム作品として私が監督した「東急電鉄プロファイル」でもお世話になったが、最近はテレビ東京の「空から日本を見てみよう」の空撮をされていて、私はこの番組に完全にハマっている。とにかくムチャムチャ面白い異色のバラエティ番組だ。

 それにしても東大阪市東部、旧枚岡市域は正直道が狭く車では全く走りにくい。狭路に備えてロケ車にはビッツを使用しているが、それでも到る所で相当に苦労する。逆に言えば、古くからの歴史ある集落が繋がって都市に発展していったのであろう、東大阪市の横顔が垣間見える。

夕方が近づくにつれ天気は徐々に良くなり、結局今日は10か所ほどで撮影を行った。まずまずの成果だ。

6月11日(土)

「第2章大阪線篇」の台本作成。先週末から「「よみがえる総天然色の列車たち第2章6名鉄篇」の仕上関係で、近鉄ロケのスケジュールが思うように取れず、折角天気がいいのにこれの作業で編集室にこもったり、ロケに行く気満々の日もあいにくの天気だったりで、今月はまだ1日もロケが出来ない。

13日(月)は天候関わらず、大阪市交通局管轄のけいはんな線長田駅の撮影は実施するが、今の所の予報では、実施を決定した昨日までと打って変わって雨傘マークが出てしまった。地下の長田駅だから天候には関係ないのだが、効率から言えば同じ日にその他の近鉄線の走り関係を撮れるだけ撮らなければ効率的にかなりしんどい。晴れとは言わないまでもせめて曇天なら、大阪府下で同線や生駒線、大阪線の走りくらいは撮るので、天に祈るばかりだが、インする直前に梅雨入りという最悪のタイミングになってしまった以上、こればかりはもはや文句も言えない。

6月3日(金)

今日は元々撮影の予定はなく、ひねもすデスクにかじりついて駅撮のスケジュール作り。行程4・京都駅〜西大寺駅〜天理駅間の主要駅と奈良駅で撮影をする日だ。

最大の難題は大和西大寺駅。何をどこから撮るか、日本一複雑とも言われるダイヤと線路配置の駅だけに、スケジュールまで複雑で頭の中までこんがらがりそうになる。PANにするか切り返すか。奈良線と橿原線の同発はあるか。阪神と京都市交の2ショットは撮れるか。西側から入線を取るか、停目付近でしっかり受けるか。基本的に下り列車の順で構成する作品上、上り列車の扱いはどうするか。ブラウン管の案内表示器は実際の列車と同時に撮れるか。コンコースのパノラマスペースは? カメラは2台。撮影時間もわずかだ。

更にその後の西大寺車庫での撮影時間も確保しなければならない。そこから移動して奈良駅ではトンネルを走行する様子も撮りたいし、地下ターミナルの終端部付近の描写も重要だ。京都市交の電車がこの時間帯に来てくれるだろうか。奈良線快速急行のシメとなるショットはやはり近鉄車両で……。

結果、実際の撮影でどのような獲れ高になるかは、鉄道の神様だけが知っている。

6月2日(木)

 昨日、本日と天候思わしくなく撮影はなし。駅撮り関係のスケジュールを作成。第1章・第2章だけでも駅や車両基地などの近鉄関係の施設の撮影場所は57か所にも及ぶ。これを7日間の日程でこなさなければならないので、事前に綿密なスケジュールを用意しておく必要があるのだ。

 込み入った日だと1日分のスケジュールを作るのに1日かかることもあるが、沿線からの走行映像の中に織り交ぜて全体の何分の一かを占める重要な部分なので、効率よく、しかも大事なものをきっちり押さえるためにはここで力を抜くことが出来ない。

 しかしとりあえず数日分をちゃちゃっと作って、第2章の台本執筆も急がなければならない。こちらの方が、全ての元になる更に重要なものなのだから。

5月31日(火)

動輪堂の新作「近鉄プロファイル」がついに本格クランクイン。春先に桜がらみのショットをいくつか先行して撮影していたが、事実上今日が初日。何も梅雨のこの時期にインしなくてもと思うが、梅雨の方が気まぐれに前倒しして来たのだから仕方がない。曇りの予報ながらも雨が降ることはなさそうなこの日が幕開きとなった。

駅のホームでの撮影を進める。この作品は近畿日本鉄道さんに全面協力を仰いでいるので、この春誕生した近鉄ロケーションサービスのFさんが立会い、情報面や安全面でベストの状況を作っていただきながらの撮影となる。最近知れたところでは「高校生レストラン」の「相河駅」のシーンなどの撮影は、このロケーションサービスの成した仕事のひとつだ。

まずは今里駅での撮影。撮影班は二手に分かれ、複々線の走りや、ホームでの発着を撮影。奈良線を収録する第1章(第1巻)と、大阪線を収録する第2章(第2巻)それぞれの内容に沿って台本をもとに次々に来る列車を撮り分ける。尤もブルーレイ版では1巻に収録されるのだが。

続いて電車で移動して布施駅での撮影。4階に奈良線、3階に大阪線のホームを配した2層構造の巨大駅。小さい頃に高架工事が始まった頃に通ったかすかな記憶がある。いずれ阪急の淡路駅もこのような姿に生まれ変わるのだろうか。ここでも上下2班に分かれての撮影。スケジュールの都合で特急の停車が撮れなかったが仕方がない。

大阪難波駅に移動。事前の調査不足で近鉄車両狙いの奈良行き快速急行が2本続けて阪神車両で来る。どちらか1本で撮れるだろうとの目論見がもろくも崩れ、ここで予定に遅れが生じる。しかし次の日本橋での撮影を少し縮小し、続く上本町はスケジュールに少し余裕があったのでここで挽回。

次の鶴橋では下りホーム先端で2台のカメラを背中合わせにするようにして撮影。外側線から駅を出ると内側線に入るアーバンライナーなどを押さえる。奈良線・大阪線列車の同時発車も撮り終えると、焼肉定食の昼食。だってこの駅は常に焼肉のにおいが漂っていて、既に口が焼肉になっていたんだもの。

食後は高安まで移動して高安車庫での撮影。23000系伊勢志摩ライナー、12200系、22600系「ACE」の外観・車内の様子を納める。撮り始めれば記録しておきたくなるディテイルが一杯あるが、時間が限られているのでそうもいかない。車内は運転室、タイプごとの客室、あとはそれぞれ特徴的なところの要点だけを撮影していく。

スタンダードな12200系がこれまで以上に愛おしくなり、最新の22600系の洗練されたパーツに改めて感動を覚える。撮影につきあっていただいた、私と同い年の高安検車区N助役と、年期の入った12200系にしみじみと感じ入る。

現役だけでも100形式を越える近鉄車両。「近鉄プロファイル」は路線・車両・駅・歴史・沿線などを多角的に紹介するので、車両だけに多くの呎を使うわけにはいかないが、これからも形式を厳選して車両基地での撮影を駅撮りとあわせて進めてゆく予定だ。

ここで予定を1時間以上も超過。この後の香盤(スケジュール)に入っていた西信貴ケーブル関係の撮影は後日に延期となった。撮影を終えて広い構内を横切って引き上げる頃には重い機材を抱えたNカメラマンは少々へばり気味の様子。しかしこの撮影は4巻分で約50日も続く予定だ。苦労をかけるが、コンディション維持も重要な課題の一つとなる。

高安駅のホームに戻ると、下りの鮮魚列車が軽快に駆け抜けて行った。

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近鉄プロファイル製作リポート その3

近鉄プロファイル製作リポート その3

執筆者:プロデューサー&ディレクター 宮地正幸

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<2011年7月21日~8月1日>

8月1日(月)

 4月〜5月に撮影予定だった「近鉄プロファイル第1章・第2章」は、東日本大震災の影響でクランクインが遅れ、その後順調に撮影は進められたが、ついに8月の声を聞くこととなった。この日は駅撮第4日目。橿原神宮前で第1章奈良線・京都線・橿原線篇と第4章南大阪線・吉野線篇の撮影を併せて行う。橿原線や南大阪・吉野線特急の発着を中心に撮影を進めている途中に、「あおぞら供廚突如現れる。大抵の場合近鉄ロケーションサービスを通じて臨時列車の情報は事前にいただいて把握しているのだが、これは回送のスジのようで、対象とはなっていなかったようだ。

 大和八木に移動してアーバンライナーと伊勢志摩ライナーの接続や、阪伊特急と京伊特急の連結などを撮影。この間にノンストップ特急の通過や橿原線の特急などの撮影も行わなければならず、目まぐるしい。

 桜井、榛原、名張、伊賀神戸と移動。この間、この日はどういうわけか「あおぞら供廚烹嘉戮眩遇する。突然の珍客の登場に、地元の女子中学生たちが「あおぞら号や〜!」と一斉に写メを向ける。えらい時代になったもんだ。

 伊賀神戸では伊賀鉄道の撮影。実は先日、860系の「忍者列車」が隣の比土駅構内で解体されているところを目撃していて、もう「忍者列車」は存在しないと思っていた。ところがロケーションサービスの担当者Fさんが、「忍者列車を」撮影予定列車の運用に入れるよう頼んでおいてくれていたという。おや、まだ生きていたのか? と思った矢先、そこに現れたのは旧東急1000系による「新・忍者列車」だった。車内は一部を固定式クロスシートに改造、東横線・日比谷線直通用に活躍していた頃とは大きく印象が変わったが、860系の網棚に潜んでいた忍者の姿が見られなくなったことは残念で仕方がない。

しかしその一方でまだ現役を続ける860系はかつての近鉄塗色のグリーンや、マルーンにステンレスのラインをあしらった姿に復元され、なかなか味わい深い装いとなったが、訊くとこの車両の活躍も、あと1年ほどで終わってしまうのだそうだ。

撮影と伊賀鉄道のロケハンを終えると、明日も続く駅撮に備え、伊勢志摩ライナーで伊勢市に移動し、宿泊。

7月30日(土)

 今日のように撮影のない日は編集にかかっている。主に第1章の大阪難波駅の部分を進める。これまでの所スーパーを入れながら、台本も詰めながらの作業でおおよそ30分ほどの呎が出来上がったが、だいぶ遅れ気味だ。夕方から今年初めてひぐらしが鳴き始めて、〆切が迫りつつあることを風流に告げている。もう少し夜も追い込みたいところだが、週明けにはまたロケがあるから、早起きモードにしておく必要があり、本日はこれまで。

7月28日(木)

撮影24日目は生駒線の残部から。信貴山下駅ではケーブルの廃線跡も撮影する。

田原本線に移動して新王寺東側のJR関西本線と交差し、和歌山線と並行する区間では見事1発目で大和路快速と交差。和歌山線列車との共演はあっさりあきらめる。

大輪田付近の小俯瞰、佐味田川の縦位置と味わい深い区間でのショットを重ね、箸尾では離合と葛城川越えのセリ上がりショットを撮影。この付近は条里集落が見られる地域だが、それを列車の走りと絡めて表現することは難しく、断念する。黒田―但馬間では東の空はどんよりとしているが西の空は青空だったので、そちらを向いたバックショット気味のヒキで処理。

続いて八木西口最寄りの今井町の撮影。日本最大規模で古い街並みが保存されている地区で、その風景は他にはないもの。時代劇撮り放題という感じだ。今井町町並み保存会会長の若林さんにご出演願い、この街の素晴らしさを語っていただいた。

7月26日(火)

宿泊ロケ6日目。松阪のビジネスホテルに投宿したので、今日は早朝から鮮魚列車の撮影に向かう。宇治山田を発車し、上本町まで鮮魚を運ぶ松阪の漁業組合の貸し切り列車で、ファンの間ではよく知られた存在だ。車内の撮影はNGだが、今後走りのカットをいくつか重ねられるよう何度か撮影していく予定。

今日の三重県の天気予報は最悪。雨雲が低く垂れこめ、普通なら中止にしたいような天気だが、宿泊ロケだとなかなかそうもいかない。それに今日は団体列車の運転もある。そこでピンポイント天気予報を信じて撮影場所を伊賀地方中心に切り替える。するとどうだろう、当地は見事に快晴。今まで一度も撮れていなかった18400系「あおぞら供廚盡事キャッチ! 

午後は一転松阪に戻って松阪駅で弁当を販売するあら竹さんの取材。松阪牛を使用した安くておいしい駅弁「モー太郎弁当」の秘密が明らかに?

7月25日(月)

 22日目一番手は宿泊していた「伊勢シティホテル」の客室からの山田線の撮影。区間が短く撮影が困難な伊勢市―宇治山田間にあって、ラッキーにも撮影場所を確保できたこの喜びは大きい。

 続いては伊勢市付近の近鉄とJR参宮線との並走区間。時刻表の上では、午前中に両者が伊勢市に同着する3度のタイミングを抜き出して競演シーンの撮影に挑んだが、さて結果は如何に。

 伊勢電の廃線跡の撮影を絡めながら、その後は山田線の撮影を進める。前日からの予報に反して、本日も好天に恵まれながら撮り進める。しかし松阪市内に入ると同時に天候は悪化。撮影続行は困難となる。とはいえ三重県北部では豪雨で大変だったらしく、むしろ幸運だったと言わざるを得ない。

 せっかく松阪に来たので、市内にお住まいの奥井宗夫さんのお宅に伺う。動輪堂制作の「よみがえる総天然色の列車たち第2章」の撮影者として、ご存知の方も多いはず。今回は廃止となった伊勢線関係写真をお借りするための訪問だ。伊勢線の廃線跡や奥井さんの写真は第3章「名古屋線篇」で紹介する予定。

7月24日(日)

 撮影21日目。本日は一昨日に続いて宿泊した国家公務員宿舎「いそぶえ荘」の部屋での撮影から。ここから望む鳥羽湾越しに、鳥羽水族館入れ込みの走りが狙えるからだ。

 その後は主に鳥羽線の撮影。万博開催の1975年に開業した近代的な路線の姿をどう表現するか、その難しさ悩みながら、この日は同時に団体専用車「楽」の運用もある。多方面に心を砕きながらの撮影となった。

7月23日(土)

 宿泊ロケ3日目。本日は早朝から前日に引き続き、核入れをすませたあこや貝を筏に吊す作業の撮影から。その後は志摩線を撮影しながら上りつつ、鳥羽線で海がらみの伊勢志摩ライナーの撮影もこなす。

 午後からは志摩線最大の近鉄関連の観光施設「志摩スペイン村パルケエスパーニャ」の撮影。初めて訪れたが、ここは完結した世界観がうまく構築されたようでなかなか良い。

 その後の時間帯は志摩線の未撮部分をがんばって撮影。

7月22日(金)

 19日目は午前中に鳥羽最大の観光施設ともいうべき鳥羽水族館の撮影。日本でここだけでしか飼育されていないというジュゴンをはじめ、ラッコ、アシカショーなどの撮影を進めながら、しっかり水族館の近鉄ビューポイントからの伊勢志摩ライナーの撮影はきっちりとこなす。

 志摩線を撮影しながら賢島方面へ。もともとはナローだった志摩電発祥のこの路線は急曲線も多く、路地裏を縫うような路線だったが、近年大幅に近代化。しかし各所に急曲線が残り、志摩線独特の味わいを醸し出す。そんな新旧双方の表情をバランスよく表現しなければならない。表現の難しさと楽しみのつきない志摩線である。

 そしてこの日は英虞湾で営まれる真珠養殖の撮影も。随分以前に読売テレビの朝ドラ「花真珠」でADをやった経験のある私にとっては思い入れもあり、賢島を語る上では外すことのできない産業である。養殖筏のそばに建つ作業小屋での、真珠のもととなる核入れ作業の様子を撮影させていただく。

7月21日(木)

 撮影18日目、いよいよ伊勢志摩ロケの始まり。第二名神経由で松阪周辺に入るが、しかし天気が思わしくない(決してムヤミにロケに突入した訳ではない)。三重県の豊穣な大地を表現するには物足りない天気。やむを得ず旧伊勢電(伊勢線)の廃線跡を追うことに。

午後からはJR東海のご協力のもと、近鉄との共同使用駅である松阪駅のJR側施設の撮影を行う。特急「南紀」の発着、JR東海でありながらPITAPAが使用できる自動改札。そしてホームに設置された駅弁のあら竹の売店。弁当の中味については後日の撮影となるが、その前段までの収録だ。

 夕方までに移動して、参宮急行電鉄発祥に密接な関わりがある伊勢神宮の撮影。幼少の頃、買ってもらったばかりのホットドッグを宇治橋で落としてしまったとき以来の訪問だ。

 今日は国家公務員宿舎「いそぶえ荘」泊。

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近鉄プロファイル製作リポート その4

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執筆者:プロデューサー&ディレクター 宮地正幸

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<2011年8月2日~    >

8月28日(日)

昨日までは編集でカンヅメになっていたが、マシントラブルの連続でどうにもはかどらず、すっかり精神的にも肉体的にも参ってしまった。今日は久々のロケなので気分もリフレッシュ。早起きして出かける。本日は団体専用車「楽」による臨時列車の運転があるというので日曜日のロケとなった。朝から二手に分かれて、高安を出た回送狙いのB班の私が弥刀付近。メインカメラ担当のNカメラマンチームは関屋の新玉手山トンネル出口で下りの営業列車1本を狙う。弥刀付近にしたのは高安から大阪寄りで唯一パンで撮影できる農地があるからだ。持ち主の農家の方には「7月の下旬においで、スイカが実ってるから」と言われていた場所。残なんながら収穫の時期には来られなかったが。

 何とか撮り終えると電車移動で私も関屋に移動、のはずだったが、何故か時刻表を読み違えていて、絶対に間に合わないことに気付き(よく気づいたものだ)、急遽河内国分の大和川に向かうことにする。ここなら駅から5分もあれば現場に着くので、下車10分後に来る「楽」どうにか間に合いそうだ。ポジションを固めているうちに踏切が鳴り出して少々慌てたが、充分間に合った。第3章用に上りのNextもあわよくばと思ったがそれは欲張り過ぎというもの。

 この後は大和高田から大阪寄りの区間で、未撮個所を埋めてゆく。旧玉手山トンネル、大阪教育大前、河内国分、安堂、法善寺、河内山本……。これで、マンションのアポの関係がある俊徳道のJRおおさか東線交差部との駅撮残り1日分を除いて、大阪線関係の走行シーンは撮り終えたことになる。一気に大阪市内にワープして大阪難波、大阪上本町、鶴橋各駅の外観(地上風景)を撮影して本日も無事終了。

8月23日(火)

 第1章編集13日目。今日も色々あって、編集開始は昼下がりからとなる。まず西大寺車庫。LCカー5820系の真骨頂。ロングシートからクロスシートへの転換。以前にも見た事はあるが、ダンスを踊るようでこれは楽しい。

 奈良線の編集も佳境に入る。平城宮跡を走る伊勢志摩ライナー。これはかっこいい。しかしただ走りを見せるだけではなく、そこにどう意味のあるナレーションを付けるかで映像の価値が変わって来る。しかもこの列車は実は回送列車だ。その辺りを運用面の話と結びつければ、上手くまとめられそうだ。かつてこの平城宮跡は、朱雀門とのからみで走りを撮れる場所だったが、その後大極殿も再建され、両方から列車を挟み撃ちできるようになった。

 油阪の併用軌道は宮内明朗さんの映像をビコムの「よみがえる総天然色の列車たち」から借用。これで説得力が出る。幼い頃には何度か家族で奈良まで遊びに来たが、この区間の記憶もよみがえる。開業当時の奈良駅の写真も近鉄から入手できたので、上手く活用しよう。それにしてもかつては想像できなかった、三宮発と京都国際会館発の列車の邂逅。残念ながら撮影当日はスケジュールの都合もあり、どうしても阪神と京都市交車両の並びは撮影できなかったが、それでも尚余りあるほど感慨深いものがある。

8月22日(月)

 朝から仕事を始めるが、商品の販売の事や、色々な交渉ごとが多々あって、なかなか編集が始まらない。それでも今日は、この作品のナレーターに、いつも「よみがえる総天然色の列車たち第2章」で名調子を聴かせていただいている子守康範さんに正式決定。スケジュールも確保していただいた事は大きな成果だ。

 大方夕方の6時頃になって編集に没頭し始める。途中まで繋いでいた奈良線の部分を進行させる。切り通しに盛り土に、勾配は少々急だが、直線が基本で実に奈良線は線形が美しい。

 奈良線最大の山場は言わずと知れた大和西大寺。間違いなく私鉄随一であろうこの複雑怪奇な線形の駅に、実に多彩な列車が発着する。あまりに素材が膨大で(撮り過ぎだこれは!)、どう編集すべきか、途方に暮れた所で、睡魔。無理に頑張ろうとしてもいい成果は出ないので、その場の床に倒れて1時間ほど仮眠。

 ムクリと起きたところで素材をひと通り睨み直す。ここで状況は一転。2カメとはいえ、わずか1時間ほどの間に抑まあこれだけ撮影できたというくらい材料は撮れている。これらをひねり回しているうちに、現場では思ってもいなかった編集のアイディアが泉のごとくこんこんと湧き上がって来る。予定や思惑と違うカメラワークで撮られていたとしてもそれらは全てプラスへと転じる。結果、この駅の紹介だけで呎は約7分にも及ぶ。これは長すぎるか? いや、全く妥当だと思う。映像を観ていて全く飽きない。これこそ大和西大寺駅が持てる魅力の成せる技に違いない。

8月21日(日)

 第1章「奈良線・京都線篇」(サブタイトルがどうなるのか今のところ未定)を現在のところ11月21日発売を目指して日々頑張っているが、本来の私の生活態度のようにちんたら造っているととてもじゃないが間に合わない状況になりつつある。少なくともチェック版を近鉄本社に提出するまでは気を抜くわけにはいかない。そうでなくとも当初の予定呎1時間45分を越えてくるのは必至である。越えれば越えるほど作業時間は延びる。というわけで本日も編集である。

 これはマズい。画面の真ん中にデカデカとカメラを担いだスタッフが写っている。しかもこれはどう考えても必要なカットで外すわけにはいかない。こういうユーザの方に大枚をはたいて買っていただくような作品は、テレビのバラエティーなどとは違い、映像にバレや破綻があってはいけないのだ。現場で気付いてはいたが、撮影中で声も出せず、またそのあともバタバタで対策も立てられず、しかも今日編集するまでこの事は忘却の彼方にあった。この状態では合成で消去する事は手間的にも費用的にも不可能だ。せめて目立たないように処置を講じる事で逃げるしかない。観る人はきっと列車の方を注視しているはずだ(きっと)。どのシーンの事かは秘密だが、もし作品を観て気付いた方は、どうか温かい目で見てやってください。きっとそんな事全くどうでもいいと思うほど、いい作品になるよう頑張りますので。

8月20日(土)

 今日は久々に編集に専念。生駒鋼索線(生駒ケーブル)の部分に取りかかる。全国でも極めて珍しい事てんこ盛りのこの路線。全国唯一の複線のケーブル。全国唯一2本乗り継ぐケーブル。全国唯一の踏切があるケーブル。全国唯一の途中駅があるケーブル。そして車両は「ブル」「ミケ」に「ドレミ」「スイート」。おまけに途中の沿線ネタである宝山寺もよく撮れている。「男はつらいよ」第27作のロケ地だったこともあり、DVDで確認しながらの編集。当時よりお店は減っているが、寅さんの歩いたこの場所で我らも撮影したのかと感慨深い。

 ケーブル全部の編集はできなかったが、スーパーも入れてナレーションも書いてノルマの8分に到達したので、本日はここまで。

8月18日(木)

 この日朝一番に、3日越しで鮮魚列車を赤目口付近でゲット。続いて桔梗が丘で、朝この駅に停車する特急や北側の直線区間でULを撮影。ただし本来のNEXTではなく、PLUSがやって来た。

 この付近での撮影もそこそこに、関屋付近にワープ。前日近鉄本社からの連絡で、高安から五位堂へと「さくらライナー」の回送が行われるとの情報を得ていたためだ。電動貨車2両に挟まれて4両中2両がやってきた。大阪線を走るさくらライナー。リニューアルの途中で車体下部の緑のグラデーションが消滅し、新しい桜色にもなっていない。塗装を削り取ったままの状態のようだ。この映像は第4章「南大阪線篇」に登場の予定。

 とって返して榛原―三本松間へ。この区間はとにかく撮影すべき個所が多い。やたらめったらと撮りまくる。今回はそのひとつの鉄橋で、これまで私が気付いていなかったポジションを2か所も発見。移動に次ぐ移動、列車の本数も多いのでとうとう昼飯を食べ損ねたが、これで第2章分の大和高田より東の区間は全て撮影終了。これからは編集中心のスケジュールとなる。

8月17日(水)

 撮影34日目のこの日は伊賀鉄道DAY。そう思って上野市駅近くに泊まったのだが、鮮魚列車のことをうっかり忘れていた。早朝に宿を発って、大阪線青山町駅付近に戻る。もう少し良く考えて、名張に宿を撮れば良かったと反省。しかしそれ以上の問題は、肝心の鮮魚列車が来なかったことだ。バタバタしていて昨日のうちに近鉄本社に確認をするのを忘れており、あとで問い合わせたら、何と今日までウヤとのこと。手を抜くとすべからく結果は自分の許に還る。引き換えに失われたのは2時間の睡眠か、まぼろしの名ショットか。

 気を取り直して伊賀鉄道の撮影。この路線は近年近鉄から分離して別会社となったが、近鉄は引き続き第3種鉄道事業者として施設や車両を保有する。それにしても撮りたい場所がいっぱいあり、撮るべき車両も多い。ともかくも伊賀鉄道本社から運行情報をいただいていたので、860系緑とステンレス帯つきマルーン、200系青くの一・ピンク・ふくにんなど、現役全車両の走行シーンを納めることに成功。上野城周辺では、忍者の衣装を着て歩く姿を一般のご家族に協力をいただいて撮影。貴重な夏休みの1日、ありがとうございます。

8月16日(火)

 大和八木駅近くの味のあるビジネスホテルを朝7時に出発、大福―桜井間へ向かう。この区間はすでに撮影済みだが、今日の目的は鮮魚列車。車内や積み下ろし風景の撮影は荷主の松阪漁業協同組合の意向で撮影NGだが、何箇所かで走行シーンは押さえておきたい。所がこの日、列車は来なかった。今日から平日ダイヤだからと思っていたが、どうやらまだお盆でウヤ(運休)だったようだ。

 長谷線の廃線跡や大和朝倉―榛原間の勾配区間のカットの撮り足しなどをしながら、東へと進む。そして遠方に撮り残しが出ないように、一気に大三付近まで移動。下り列車の他第3章「名古屋線・名阪特急篇」用の上り名阪特急などを撮影する。また近くには近鉄沿線で数少ない、茶畑がらみのシーンを撮影。丁度農家の男性が雑草を刈り取る作業中だったが、お断りしてその傍らにカメラを構える。雑草だらけの茶畑で見た目が悪と困り顔だったが、列車の前景としては細部まで判らず、画的に問題はない(と思う)。

 榊原温泉口付近では今まで訪れたことのなかった大阪線旧線の廃線跡を撮影。旧西青山・東青山駅を含めたこの区間は、当初単線だったものを複線の新線に切り替えたもの。腹付け増線した箇所もあるが、あちこちでこのような廃線跡が残されている。廃線ついでに、美旗付近に移動して伊賀線の廃線跡も撮影し、上野市駅近くのビジネスホテルに投宿。

8月15日(月)

 お盆真っ最中のこの日は何と夜間ロケ。エキストラの撮影日である。場所は八木西口短絡線。遅い時間帯に、五位堂でラッピング装飾を解いたけいはんな線7000系が、電動貨車に牽かれて東生駒車庫に帰る際に通過するのだ。問題は光源だったが、八木西口駅そばの分岐点付近の踏切には安全のために設置されていた固定照明があり、カメラのゲインを上げれば(ひきかえに少々画質を落とすことになるのだが)充分撮影可能だった。

 この連絡線は、南大阪線関係車両の検査や改装が大阪線の五位堂検修車庫で行われるため主にその際の回送に使用されるが、第3軌条方式のけいはんな線車両も、新ノ口短絡線経由ではなく、こちらを通るのだ。

8月12日(金)

本日は橿原線で残された大和八木―橿原神宮前の撮影から。大阪線と橿原線八木西口をつなぐ八木西口短絡線(八木短絡線<南>とも言う)も、列車の通過シーンは後日撮影の予定だが、空舞台を押さえておく。

 橿原神宮、畝傍山のインサートのあと、大阪線真菅付近で第3章用の大阪行きアーバンライナーNextの撮影。そして桜井―榛原間の最大33.3‰の勾配が続く区間へと向かう。延々と大築堤を築く難工事の末、1930年に参宮急行が開通させたこの大阪線最大の見せ場を名阪特急中心に映像で綴ってゆく。他の私鉄では皆無と言っていいダイナミックな路線が続く大阪線。これを細かに映像で語ることは、私にとって大きな喜びでもある。編集が楽しみだ。

8月11日(木)

 「近鉄プロファイル」の撮影も今日でついに30日目。私自身これほどの大作に関わったことは、そうあることではない。まして鉄道DVDとなればもはや未知の領域だ。本日は駅撮6日目。生駒ケーブルが軸になるスケジュールが割り振られている。生駒ケーブルは下部の宝山寺線と上部の山上線に分かれ、宝山寺線は全国唯一の複線のケーブルで、車が通行できる踏切がある。

途中で乗換となる宝山寺駅に着くと、通りすがりの人に励まされながら、界隈の撮影。そして山上線へ。この線には途中2か所、これも全国でここだけという、ケーブルなのに途中駅がある路線だ。その途中駅の撮影のためにスタッフは二手に分かれて、それぞれ梅屋敷駅と霞ヶ丘で下車。45分ごとに1本というダイヤのため、久々にゆったりほっこりとした気分で時を過ごした。

 終点の山上駅で撮影をしていると、さっき宝山寺駅で声を掛けられた方に再開。訊くと、これから撮影に入る生駒スカイランド内で食堂を営んでいる方なのだという。丁度あとで、大阪平野の俯瞰撮影を予定していたので、そこからの撮影をお願する。実際に尋ねてみると、何とも涼しい風が吹き抜けて、実に快適なひと時を過ごさせていただいた。この日、下界ではうだるような暑さだったと言うが、まるで別世界の生駒山上だった。

 その下界に降りて生駒線の王寺駅、田原本線の新王寺駅と西田原本駅、そして橿原線の田原本駅での撮影。山の上から一転、その暑さときたら……。さすが奈良盆地。真夏満喫の撮影後半となった。

 

8月10日(水)

 撮影29日目。本日はまず、高安駅の準急到着シーンを敷地外から撮影。続いて向かったのは大阪有数のワインメーカー、カタシモワインフーズ。実は大阪線沿線の大阪府柏原市周辺は日本有数のブドウの産地で、「鉄道を面で捉える」という動輪堂作品のポリシーからすれば、大阪線を語るには欠かすことのできない題材だ。取材を始めると、対応していただいた案内役の山本さんが、実はプロの漫才師としてM−1にも出場したという経歴を持つことが判明。急遽出演していただくことになった。工場やブドウ畑、周辺の街並みの案内をしていただきながらの撮影中、幾度となくDの私から、「そこでひとつギャグを挟んでください」と注文。はてさて一体どんな作品になることやら……。

 ブドウ畑や大和川がらみの走りの撮影の後、五位堂検修車庫へと向かう。後日予定されている検修作業の撮影の打合せを行うためだ。場内を下見して回るとそこには「楽」の姿が!1階部分のルーバーの内側がどうなっているか初めて見ることができた(予定外なので撮影はしていません!)。しかし後日の予定だった場内に保存されている1形の撮影は繰り上げて今から行えることになり、しかも老朽化の理由によりこれまではNGだった車内の撮影が工場側の計らいでOKとなった。同行したロケーションサービスのFさん曰く、これはDVD業界初の出来事なのだそうだ。100年前の車両の見事なまでの素晴らしい内装を皆さんに見ていただけることになり、創り手としてもこんな嬉しいことはないと思うが、それにしても近鉄さんの懐の深い対応に感謝感謝の毎日です(決してヨイショではありません)。

8月9日(火)

 本日は三重県内の駅撮日。開始前に伊勢市駅西方のJRとの並行区間で競演シーンを狙う。先日もトライしたが微妙にずれたりしてうまくいかなかった場面だ。しかし今日は下りビスタカーを駅に振り込んだ所で、ドンピシャでキハ11がすれ違い、大成功。

 近鉄名古屋事務所の担当Iさんが伊勢市駅に到着。先週はわざわざ来ていただいたのに天候判断のミスで中止にしてしまったが、今日もニコニコと満面の笑みをたたえての登場だ。ここで駅構内の撮影開始。まずは無難に特急の発着を押さえて宇治山田駅にひと駅移動する。ここでも特急の発着、当駅止まりの急行などを撮影。その他にも折返し線と3階ホームに隣接したバス発着場跡も見逃さない。そしてこの駅の見せ場は何と言っても登録有形文化財にも指定されたあの立派な駅舎だ。現在は節電により、コンコースの電燈は半数に減灯中だったが、折角なのでということで全部点灯していただく。この伝統の傘はひとつ300万円もする高価なものなのだそうだ。

 続いて鳥羽に移動して特急の発着、後部2両の切り離し作業などを撮影。さらに賢島へと向かう。この駅は第2章のラスト部分となるわけで、そこそこ盛り上げて終わらなければならない。そこでここでの撮影は伊勢志摩ライナー2本並びに合わせたスケジュールとした。その他にも特急車両たちが居並び、ラストを飾るにふさわしい風景が展開する。

 普通で志摩線の旅を楽しみながら鳥羽に舞い戻り、当駅止まりの特急の到着等を撮影。そして今度は特急で快適に松阪へと移動。JR部分の撮影は前回済ませているので今日は残りの近鉄部分を埋める。

 そして伊勢中川。阪伊特急と名伊特急の接続、そしてその逆パターンを前後から2キャメで狙う。複雑なダイヤ通り正確な時刻で次々と列車が発着する。これはもはやアートの領域だと思う。これをわずか25分のタイムスケジュールでこなして榊原温泉口へ。2面2線のこの駅では1時間近い持ち時間がある。これは単に、駅撮の場合は車移動より電車移動の方が効率的であるため、次の移動列車のダイヤに依るものだ。

 東青山、そして西青山この山間の駅でもホームの撮影を行う。この作品の場合、主要駅以外ではあまり駅撮は行わないのだが、西青山は別。このホームから私鉄最長の青山トンネルの出入りがバッチリ撮影できるからだ。東青山はダイヤの関係上のオマケだったが……。

8月8日(月)

 本日は山田線の残りから。伊勢中原−松ヶ崎間のJR紀勢本線との交差部では特急「ワイドビュー南紀」とのクロスの撮影にジャストなタイミングで成功する。

 続いては一気に移動して榊原温泉の元湯榊原館で温泉の撮影。「榊原温泉口」という名前の駅がある以上、榊原温泉を紹介しないわけにはいかない。タイトなスケジュールで湯船に足をつけることもできないが、屋上に設けられた展望露天風呂は素晴らしい。一度はプライベートでゆっくりと訪れてみたいものだと思う。

 伊勢中川に戻って中川短絡線関係の撮影。大阪行きのアーバンライナーPLUS、名古屋行きのNEXTなどを大阪線側、名古屋線側、中川駅側からとショットを重ねる。線路に三方を囲まれた部分は農耕地になっているが、ここでの農作業は楽しいだろうなと思いながらの撮影。

 次に西青山に移動して乗馬クラブ「クレイン三重」の撮影。ここは旧西青山駅があった場所だ。そして旧東青山駅跡に移動。建設当初は信号所にする予定だったが、地元のたっての希望で駅としたが、アプローチが人道しかなというまさに秘境駅。カメラを担いで徒歩でたどり着くと、そこには2本のホームがきれいに残された、駅の跡地が突如出現する。こんな場所によく駅を作ったと思わずにはいられない。私が訪れた中ではまさに第1級の廃線跡と言っていい場所。感動した。

8月7日(日)

 仕切り直しの撮影26日目。今日は大阪線攻め。真菅駅近くのSカーブ、曽我川土手からの二丈山バックのアーバンライナー(UL)などを押さえる。大阪線では通常の下り列車主体ではなく、第3章「名古屋線・名阪特急篇」用の上りアーバンライナー等も同時に撮影せねばならず、右に向いたり左に向いたり、時には二手に分かれたりと忙しい。

 続いて橿原線田原本に移動。田原本線の車両を入れ換えるために大和西大寺からの回送が「田原本短絡線」に入るシーンを撮影するためだ。回送列車は橿原線に設けられた亘り線の手前で一旦停車。信号が変わるのを待って上り線に入ると、そこから短絡線に入り、そして田原本線へと向かう。このような回送列車は上下合わせて1日4本走るのだが、実際に見たのは今日が初めてだ。これで近鉄未体験ゾーンをひとつクリア。

 大阪線に戻り、耳成付近でULの撮影。上下列車の離合はタイミングが合わなかったが、ほとんど同じポジションで耳成山を借景にしたショットも効率的に取り終える。

 続いて大福へ。これは駅名の面白さで是非撮影ポイントに加えたかった場所。駅よりも走り重視ではあるが。

 次に移動したのは藤原宮跡。ここに日本で最初の都があったと想像できるかどうかは、それぞれのイマジネーションに負う所。しかし天香久山など背後に連なる山々にだけ意識を集中させれば、想像できなくもないかもと、少しだけ古代とのチャンネルがつながった気がした。

 そして次はUL-NEXT同士の離合が撮れるかどうか。ダイヤ上は桜井付近で間違いないのだが、実際その場所がポジショニング的に撮影可能かどうかは全く別問題。さて、その結果は……

8月2日(火)

 朝起きると、しとしとと雨模様。昨日夕方までの予報では把握していなかった天気だ。伊勢地方の天気は大阪線、山田線、鳥羽線、志摩線と路線名が変わるごとに天気が変わるというのが私の経験から感じているところだが、撮影開始時刻が近づく頃にはすっかり雨脚が強くなる。今日の撮影は西青山から賢島までの範囲に及び、是非とも伊勢志摩ライナーの終着風景は好天で狙いたい。しかしそれ以前に、列車の撮影ではこのくらいの雨になると、通過の際に水飛沫が舞ってレンズに付着し、仕事にならない。わざわざ名古屋から駆け付けた本日の担当者Iさんの到着を待って相談。結果、延期していただくことにする。

今日は車の用意もないので、天候の良い地域での撮影もせず、完全に撤収することにしてビスタEXに乗車。折角なのでごめんなさいで、グループ席へと改造された1階席の乗り心地を少し体験してみる。腰のいい所にクッションが効いてなかなかなものだった。直ぐに2階席に戻って、この機会に、これから撮影を追いこんでいく大阪線のロケハンの詰めを行う。この後は会社に戻って編集の続きだ。動輪堂に休息の時はない(休ませてくれ!)。

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奥井宗夫のむねのおく 2-6

奥井宗夫インタビュー

「よみがえる総天然色の列車たち第2章6名鉄篇」のむねのおく


奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。





―今回「名鉄篇」が発売になりますが、如何ですか? ご自分の映像をざっとご覧になって。

奥井 やっぱり懐かしいっていうのが半分あるね。独特の「オリーブ」というグリーンがね。名鉄と近鉄との差があって、近鉄は鮮やかなグリーンだし、名鉄はかなりオリーブ掛かっているものだから。松阪の方へ名鉄の車が入ったことがあるんですよね。向こうからも入って来るし、こっちからも向こうへ行くし。ところが色がものすごく地味なものだから。ナンバーの書体も違うし。

―戦後の一時期、名古屋のトンネルの中で線路が繋がっていたんですよね。

奥井 そうなんです。ですからこちらにいてもモ800なんかは見た覚えがあります。3連で、お伊勢さんに参るのに松ヶ崎で乗り換えするわけ。伊勢線から山田線へ。こっちからもあっちへ入って行ったんですよ。鳳来寺まで。団体募集していましたから。

―鳳来寺というのは飯田線の先の?

奥井 はい。名鉄からさらに乗入れて行ったわけですよね。豊橋鉄道の田口線まで入って行ったんかな。

―飯田線から分岐していた線ですよね。

奥井 そうそう。団体募集は気にはしてたんだけど、僕はまだそこまでは乗る気になれなかったから。

―凄い歴史の話になるわけですけれど、フィルムに残っているところだけ見ても、いろんな事が写っていて。

奥井 そうです。もっと撮りたかったね、確かに。

―今回登場した中で、一番わーっと思った車両は何ですか。

奥井 やっぱりモ800が好きだね。こっちにも同じ車両がいたでしょ。そやから余計懐かしいですよね。5121系ぐらいと違うかな。同じ車体を使っていて。車体が余っていてそれを伊勢電が買うた車両だと思うんです。

―そういう意味でも松阪にお住まいの奥井さんとしては馴染みがある。

奥井 懐かしい。で、色見てびっくりした(笑)。

―あと、名鉄と言えばパノラマカー。最近まで走っていましたが、本当にこれが全盛期の頃で。

奥井 パノラマも鉄道友の会名古屋支部の試乗会に呼んでいただいたんですよ。

―そのとき撮影はされなかったのですか。

奥井 あの時は8ミリとスチル、両方持って行ったが、8ミリは撮らなかったな。しかしあれは偉大な電車でしたね。

―例えばどんな所が?

奥井 オール転換クロスシートで最後まで使ったという所が大したものだったね。

―車内先頭の所の上についている……。

奥井 スピードメーター!

―電管が前後にパラパラするやつが印象的だったんですけど。

奥井 この間半田の方に行った時にあれに乗ったんだけど、スピードがほとんど上の方まで行かないんで、あ、ちょっと可哀想やなと(笑)。

―先頭に乗ると狭いなぁと思いましたね。

奥井 僕らは近鉄の2200に乗っていたからね。シートピッチだけは他所の会社より落ちるというところはあったね。2200は別格でしたけどね。

   ◆

―あと、多くの特急用車両が出てくるんですけれど、キハ8000系が元気な頃で。

奥井 やっぱり私も気にしますからね。乗りに行きたいし。しかし最後まで乗れなかったね。

―国鉄乗入れ用でしたが色々なところが国鉄車両と違っていました。特急に格上げになるというので国鉄特急色になりましたが、その前のフィルムもちゃんと残っていますね。

奥井 やっぱり好きでしたからね。しかも6両のフル編成の頃が良かったですから。段々両数減になっていて、もっと乗ってやるべき列車でしたね。

―しっかり富山の方にも撮りに行かれて。

奥井 あれはやっぱり撮りに行かなきゃいけないという義務感があって(笑)。

―高山本線の画も良かったですね。

奥井 あれは一回逃しちゃったんです。えらい目に遭いました。歩いている間によそ見していたら、すいっと行かれちゃってね。「あっ、しまった」というんで、あれは2回行きました。

―あの場所は土木工事の関係で今は入れなくなったそうですね。

奥井 そうですか。場所探しには一生懸命努力しましたからね。しかし歩くのには楽しいところでしたね。歩くのは大好きですから。今も東海道を歩いていますし。

   ◆

―名岐鉄道のモ800形に続いて850系が出たわけですが。

奥井 「なまず」は好きでしたね。あれが3連で走って来た時は本当に喜んで。間に800がひとつ入るんですよね。

―独特のスタイルでしたが、のちにスカーレットになってしまって。

奥井 あれも仕方ないでしょうね、時代としては。でも両方とも写ってるからよろしいよ。あれで。

―一方の3400系は同じ流線形でも随分違いますね。

奥井 そうですね。あれは前面の窓を直しているから余計ね。前はもっと優雅に思ったんですけれど。なかなか会う機会もなくて、やっぱり800や850の方が好きなものだから、どうしてもそっちの方を撮ってしまって。

―何故そっちの方が好きなんですか。

奥井 やっぱり800ぐらいの古い車体が好きですね。近鉄の2200と同じようにね。しかし勿論流線形時代の人間ですからね、3400もしっかり撮りに行きました。だから京阪の1000を取り損ねたのは本当に残念なんですよ。

京阪の1000、それからDD54ね。あれは完全に逃がしましたから。

―DD54を取り逃がしたというのはちょっと驚きですね。

奥井 そうですね。とにかく撮りに行きたかったんですけども、京都まで行くのが精一杯という感じでね。そこから先へは行けなかった。DD50もそうでした。

―青果業というお仕事柄……。

奥井 そうなんですよ。休みが全然取りないものだからどうしてもそういう格好なっちゃう。それでやっぱり地元優先ということになるわけですね。暇があると2200(笑)。

―日曜日には帰ってきて月曜日は早起きしなければ行けない。

奥井 そうなんですよ。

   ◆

―戦前から戦後にかけての一般型車両についてはどの辺が印象に残っていますか?

奥井 やっぱりモ401。あれは良かったなぁ! 小さい車両だけれども。あれがまさか走ってくれるとは思わなかったのが。車庫にいたんですよ。それが上手いこと出てくれたもんで。180と繋がって。

―出発を撮ってから乗り込んで。

奥井 そうそう。昔から連接が好きだったんで、西日本鉄道へもわざわざ500形を撮りに行って。気が多すぎるんですね、僕は(笑)。

―3700系。私はこれがなかなかいい顔しているなと思うんですけれど。

奥井 あそこら辺はいい顔してるでしょ。それに富山へ行ったグループもあるでしょ。富山地方鉄道へ。あれも向こうで撮れたで良かってですよ。同じ車両がならんで。

―それはそれで「ローカル私鉄篇」で出てくることになるわけですね。楽しみですね。それと3700系もそうですが5000系もカワイイですね。まん丸で。

奥井 あれも好きでしたね。最後までいらわなかったので余計目立ったですね。しかし意外と早かったのが残念だわ。もうちょっと長生きしてほしかった車だね。

―あれだけ丸いのはあと玉電のタルゴくらいですね。

奥井 そうそう。

―あと、築港線中心に電機が。

奥井 電機はやっぱり好きでしたね。HOゲージの模型を作っていた時代からEDというやつは好きでしたね。まだ「ローカル私鉄篇」で出てきますか?

―そうですね。上信もそうだし、三岐もそうだし、「関東私鉄篇」でも結構色々出てきましたね。

奥井 はい、出てきます。楽しみにしてください。

   ◆

―今回のフィルムの中で一番古いのは岡崎市内線ですが。

奥井 はい。あれは本当に、「なくなるから来いよ来いよ」と地元の人らが言うんですよ。

―車庫のところに皆さんいましたね。

奥井 大井川鐵道に行った白井昭さんがまだ名鉄の偉いさんだったので、その人が全部案内してくれたんですよ。

―大井川鐵道にSLを持って来た人ですよね。各社の車両も集めて。

奥井 そうそう。マニアでしたからね、彼も。

―岡崎市内線がなくなる直前の頃ですよね。

奥井 そうなんです。ポイントで分けずにああやってトラバーサで分けてたんですからね。ちょっと他とは違ってたんですなぁ。

―都電の荒川線の車庫と同じような、都市型ですね。

奥井 あれと同じです。

―単車がゴロゴロいてましたが。

奥井 あそこは電装関係がオール・シーメンスでしたから。素晴らしいと思いましたね。

―狭い道をかいくぐるように走る場面もありました。

奥井 自動車の時代になってしもうたと、いきなり時代が変わっちゃったんだなと思いましたね。

―大樹寺駅の場面で声を上げられていましたが。

奥井 懐かしいですよやっぱり。大樹寺駅から岡崎城が見えるんですからね。

―今だったらちょっとないような素敵な造りの駅でしたね。

奥井 そうでしたね。あそこは良かったですよ。ステップがあれだけ切ってあって。近鉄も一時湯の山線がああいう感じでしたね。

―なるほど、改軌前ですね。

奥井 はい。あの線は念入りに撮りました。ほんと行って面白かったです。もっと撮ってあったかなと思ったけど、案外撮ってなかった(笑)。それでもあれだけ撮ってればあきらめなしょうないですよ。

―ほとんど全部使いましたよ。捨てるところがありません。

   ◆

―話は変わって瀬戸線ですが、一番印象的なところと言うと。

奥井 やっぱり電気機関車ですね。デキ200形。あれやっぱり、もうちょっと撮りたかったなと。ワンカットだけでしたから、1日行って。貨物列車は1日2往復もなかったでしょう。当たりも付けずにいきなり行っていきなり撮ってくるんですからそれは仕方ないですよ。

―私が中学の頃にお濠電車がなくなってガントレットが消えたんですが、その動画を観たのは今回初めてなんですよ。

奥井 そりゃそうでしょうね。誰も撮ってないもん。でもいかにもあれでローカルムードが一遍に出るんですよ。

―岐阜市内線などの今はなき路線も沢山出てきますが。

奥井 行きたい所はいっぱいあったけれども、あれが限度だったな。僕としては。

―それでも3度いらっしゃったんですよね。

奥井 行ってます。一遍行ってよかったから、つい、もう1回足を伸ばして。

―さっきも話に出ましたが、谷汲線ではモ400形が。

奥井 ボディーは新しい、あとの時代のものですから、しかも単車を改造して連接にしたわけでしょ。ですから確かに面白かった。

―5枚窓のモ510・モ520については如何ですか?

奥井 面白かったでなあの車も。何しろクロスシートだから。良かった!(笑) ここにはクロスシートの車両が沢山ありましたね。路面電車なのに大したもんだわ。

―美濃町線もそうですが、岐阜市内線では急行の続行運転が行われていたわけですが、編集の準備を始めた時は、忠節で折り返す車両と、岐阜市内線から来た車両が併結をしているのかなと思って見ていたのですが。

奥井 2台とも来てるんですね、こっちから。僕も岐阜の駅前にいると単行で来て単行で帰って行くもんだから、なんだ、こんなもんかなと思っていたら、向うで連結になるもんだから、あっと思ってびっくりした。ああいう事あるんですね。でも間隔は大分開いてましたよ。

―ああ、すぐ前を走るんじゃないんですね! 美濃町線は目の前を走っていたもので、それと同じかと思っていました。その美濃町線も面白い線ですよね。

奥井 面白いです。確かに面白いです。

―雰囲気が土佐電鉄の郊外ととても良く似ていて。しかし線路がガタガタで、駐車場や工場の前を横切る所は車に踏みつけられて線路が完全にたわんでるんですよね。

奥井 だから運転士があんだけ揺れてたんですね。

―グーグルアースで見ると今も美濃町線は電車が走っているんですよ。しかも形が判るんです。モ600形なんです。

奥井 あの時電車1本分だけ美濃町の市内まで歩いたんです。あの街も素晴らしいですね。うだつのある街があって。美濃町線はなくなってももう1回行きたいような所ですね。

<了>


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近鉄プロファイル製作リポート その5

近鉄プロファイル製作リポート その5

執筆者:プロデューサー&ディレクター 宮地正幸

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<2011年8月30日~     >

9月6日(火)

 数日来の台風から打って変わって、見事なまでの快晴。まさに空撮日和となりそうだ。今回お願いしたのはヘリテック・エアロサービス。ビコムで監督した「東急プロファイル」でもお世話になった所だ。今日の撮影のために早朝に東京を飛び立って、わざわざ名古屋まで来ていただいたのだ。パイロットは前回と同じIさん。そして機体下部に取り付けられたカメラを遠隔操作して撮影を行うのはパイロットでもあるNカメラマン。二人はテレビ東京系で放映され、私が完全にハマっている「空から日本を見てみよう」の空撮も担当している名コンビだ。

 8時50分に離陸。近鉄名古屋9時発の下りアーバンライナーを追いかけながら、2012年発売予定の第3章用に名古屋線を上空から撮影するのだ。果たして9時1分ごろ、地下線からPlusが顔を出す。

米野車庫から烏森、八田と続く高架線へ。なかなか走行シーンの撮影が難しい場所も楽々クリアする。

 木曽川・長良川・揖斐川の三川が集まる長島付近。予想以上に水がきれいで、台風の影響はあまりなさそうだ。テンションも上がって、桑名、四日市、塩浜、伊勢若松と続々クリア。パイロットとカメラマンの息もぴったりで、駅や走る列車をこちらの求めるアングルで見事にピタリと押さえる。だんだん「空から近鉄を見てみよう」のようになりながら、津、久居を押さえていよいよ伊勢中川へ。

 大阪線と名古屋線が合流し、駅の北側には両線を直通する名阪特急が使用する中川短絡線を配した伊勢中川駅の全景。この風景をなかなか肉眼で見ることは少ない。しかしこの素晴らしい線形を、せめて作品中の画面ではご覧いただきたい。第1章+第2章の内容で、価格はDVD2作分と同じブルーレイ版が、出来ればお勧め。

 続いて大阪線上空へ。先日徒歩でアプローチして大変感動を覚えた旧東青山駅を俯瞰する。こんな山深い場所によくも駅を造ったものだという感慨が再び押し寄せる。

途中の主要駅を押さえながら、大和朝倉―榛原間の急勾配区間へと向かう。私が事前にたてた分刻みの飛行プラン通りに(あるいはそれ以上に)撮影しながらここまで移動してきたが、見事プラン通り、眼下に名古屋行きのアーバンライナーが現れる。ここからは逆方向で列車の付け移動。この区間の線形は実際こうなっているのかと、初めて把握する。その素晴らしさもさることながら周囲の地形が想像とは全く違い、感動すら覚える。この場面は勿論第2章に収録するが、未使用部分も多く、これはブルーレイ版のメニュー画面に充分使用でいる。

それでも予定より早く撮影を終え(つまりヘリの最高速度は時速約180キロで、寄り道をしたり後戻りをしたりしながらでも充分予定をこなせるし、移動時間の余裕の部分がそっくり撮影時間の余裕になったのだ)予定を繰り上げて先に橿原神宮前と大和三山を撮影。その後に大和八木に移動する。大阪線、橿原線が直角に交わり、そこに八木短絡線と八木西口連絡線がからむのだが、どれも思った以上に曲がっている。

2時間と少しの飛行を終え、全くの予定通り11時に八尾空港に着陸。このロビンソンの機体は新型で、しかも関西初お目見えだそうで、フェンス付近には私が乗る機をカメラに収めようと、「ヘリちゃん」が群がっている。どこの世界も同じのようだ。

給油のあと、2回目のフライト。まずは大阪に向かい、難波、上本町、鶴橋と撮影。そして布施までの複々線区間で各線の列車を追いかけながら都合4往復。各シーンで色々な使い道が期待できる。

続いて奈良線の高架区間。ここも沿線からの撮影が難しいので、河内小阪まで2駅分をまるまる押さえておく。そして奈良線最大のビジュアルとなるであろう生駒山とのコラボ。列車がらみは勿論だが、生駒ケーブルから生駒山上遊園地抜けの大阪平野へのショット。しかし残念ながら遊技機が全く動いていない。人影も見当たらない。これだと園内で撮影した楽しげな雰囲気と繋がらないかもしれない。「休園日でしょうか?」「そんなことはないはずですが……」「いや、あそこに3人いる!」まるで捜索隊のような声が飛ぶ。夏休みも終わり、たまたまお客さんが少なかっただけのようだ。それでもこのショットは期待通りの素晴らしいものとなったので是非作品中でご覧いただきたい。

京阪奈学研都市経由で京都線沿いに北上する。地上からも撮影した、木津川に架かる上津屋橋、つまり流れ橋に途中で寄り道すると、台風による増水で見事に橋桁が流れていた。これほどわかりやすい映像はない。

京都駅から反転し、要所を押さえながら京都線沿いに南下。大和西大寺駅、西大寺車庫などを撮影した所で、数分の余裕がある。そこで、予定から外していた奈良市街上空に向かう。私が「猿沢池から若草山までのフルショット」とひとこと言うと、すぐにそのサイズの画をピタリと作る。まさにN氏は名カメラマンだと思う。「空から日本を見てみよう」はこのような優秀なスタッフに支えられているのだと実感する。日頃からの勉強や予習も怠らないのだろう。

ここからは一気に南下してアーバンライナーnextを狙いに行く。途中で橿原線と田原本線の列車の並走などの余禄を拾いながら、大和高田付近でnextを見事キャッチ。ここから並走、回り込み、追従など、大福付近までべったりと付け回す。

再び八尾に戻り、本日3本目のフライト。第4章用に大阪阿部野橋から南大阪線の特急を追いかける。ちょこまかとカーブを縫いながら走る2両編成の16400系は、どこかかわいらしく見える。それでも二上山や畝傍山を背景にしたショットでも軽快な走りを惜しげもなく見せてくれた。

ここで反転して大阪線八尾市内の高架線の撮影。4両固定編成の30000系は全長80mあまりで、上空からフルショットで押さえるには丁度いい長さだ。これで空撮は第4章までの分を一気終えたわけだ。

新幹線で名古屋に入り、ヘリで八尾へ。そして徒歩で八尾南駅へと向かい、地下鉄に乗って帰宅。何とダイナミックな行程だったことか。明日から再開する編集に期待を膨らませつつ、酔い止め薬の副作用もあって、発車と同時に爆睡となった。

翌日からは〆切日を見ながらの、編集・編集・編集の毎日で、製作リポート執筆、ネタを書きとめる余裕すらありませんでした。スミマセン。次回頑張ります!

9月5日(月)

新神戸から夕方の新幹線に飛び乗る。本来は阪神なんば線で大阪難波に出て、アーバンライナーに乗りたかったのだが、ギリギリまで編集にかかっていたため諦めるしかなかった。行先は名古屋。今日はもう移動だけなので、つかの間だがビールをいただく。

 1時間ほどで下車すると名鉄に乗り換え。何年か前、中部国際空港が開港して間もなく、空港線に乗車して以来の名鉄だ。最近「よみがえる総天然色の列車たち 第2章6名鉄篇」を作ったばかりなので感慨深いものがある。まずはホームを端から端まで歩いてみる。きしめん屋があるかどうか確かめたかったからだが、やはり姿を消したままだ。JRのホームにあるスタンドよりも好きだったので、入場券を買ってでも食べに来ていた店。復活したという噂を耳に挟んだような気がしたのだが……。

犬山線西春で下車。小学校3年の時、父に連れられてブルーインパルスの航空ショーを見に来て以来のことだ。あの時はひどい渋滞で、帰りは空港から長い道のりを歩いた記憶がある。そしてこの駅からパノラマカーに乗った時にはすでに日没後だったか。

同じ(であろう)道をバスで辿る。目的地は県営名古屋空港だ。直近のビジネスホテルに投宿。明日はこの空港からヘリで飛び、空撮を決行する。

8月30日(火)

 撮影36日目は信貴線と西信貴ケーブルの走りから。生駒ケーブルとここだけという踏切がらみの撮影などを済ませて、近鉄ロケーションサービスのF氏と合流。構内の撮影に移る。西信貴ケーブルの高安山駅では、信貴山上を走ったかつての信貴山急行の廃線跡と、ケーブルのホームの下に設置された巻き上げ機の撮影。見た所3〜4mもあろうあという巨大なメカがグシグシと回転して、3代のケーブルカーの全重量を支えながら上げ下げする。これは予想外のすごい場所だ。

 河内山本、近鉄八尾、河内国分、五位堂と駅撮を続け、次に訪れたのは五位堂検修車庫。今日はここでの検修作業風景の撮影が許されている。まずは26000系「さくらライナー」のクレーン作業。リニューアルを終えたばかりのピンクのグラデを纏った車両がクレーンから降ろされると、橿原神宮前まで運ばれるための仮台車に載せられる。後は出場を待つばかりだ。

 さらに車輪の削正、車内艤装、パンタの調整などの作業の現場に次々と案内される。「東急電鉄プロファイル」の撮影の際に長津田工場に訪れたが、それ以来の検修作業現場。胸踊らせずにはいられないゴージャスな体験である。

 これでアポの関係で後日の撮影となる1カットを除いて、第2章までの撮影はすべて終了。明日から怒涛の編集〜仕上げへと突入!?

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深読み!近鉄プロファイル第1章

 「近鉄プロファイル」シリーズにアドバイザーとして参加した鉄道著述家の山邊誠氏が、作品中では紹介しきれなかったとっておきの情報や、作品の見どころについて語ります。

           山邊 誠

           1961年8月大阪生まれ。幼少の頃、両親につれられて必     

           ず通った、あべの天王寺界隈に集まる鉄軌道に心を奪わ

           れ、中1の時、それらを再確認することから鉄道趣味がスタ

           ートする。その後、近畿圏の私鉄・地下鉄を中心に研鑽。そ

           の成果は、鉄道ピクトリアル、鉄道ファン、とれいん各誌上

           に、随時発表されている。著書に、『日本の私鉄 近鉄

           (諸河久、山邊誠共著 保育社)がある。

近鉄プロファイル第1章

鉄道プロファイルシリーズに、近畿日本鉄道が登場!

 近畿東海2府4県に広がる路線網(養老鉄道・伊賀鉄道を含む)を持つ近鉄を、4巻に分けて、路線・車両・駅はもちろん、その歴史、沿線風景、観光スポットなどを地上から、あるいは空からと様々な角度から飽きさせることなく、丹念に紹介していきます。

 第1章では、2009年から阪神電気鉄道と相互乗り入れが始まった活気あふれる奈良線、古都京都から日本の歴史の中枢を走り抜ける京都線・橿原線、大阪市営地下鉄中央線と乗り入れる近未来的なけいはんな線、さらに支線である生駒線・田原本線・天理線、生駒山上遊園地へのアプローチでユニークな車両が走る生駒鋼索線を取り上げています。

 その中で、いくつか興味のあるところをご紹介しましょう。

 大阪上本町布施間の複々線区間は1956年に完成しましたが、「大阪電気軌道株式会社30年史」によると、同区間の複々線化に備えて用地を昭和10年代頃から確保しており、さらにこの用地を利用して1937年の鶴橋今里間の高架工事が行われたそうです。複々線は北側2線が奈良線、南側2線が大阪線の線路別配線でしたが、布施駅付近の高架工事に伴い1975年に方向別に改められたことはDVDでも述べられていますが、この時、大阪上本町鶴橋間でも地上線の大阪線下り線と地下線の奈良線上り線を立体交差させる工事が行われました。

 旧生駒トンネルの大阪側は、そのまま残されていますが、けいはんな線生駒トンネルの非常口も兼ねています。また、奈良線は現在の生駒トンネルに移りましたが、送電線はいまも旧生駒トンネルに沿って生駒山系を越えて奈良側へと渡されています。

 

生駒鋼索線は、宝山寺1号線・宝山寺2号線・山上線の順に開業しましたが、宝山寺1号線は、開業時、巻き上げ機の動力は直流550Vでした。その後、1926年に宝山寺2号線と同じ三相交流440Vに改められています。

 現在、生駒鋼索線で使われている車両のうち、宝山寺2号線のコ3形は戦時中に撤去されていた同線が1953年に復活した際に作られた車両です。また、宝山寺1号線のコ11形、山上線のコ15形は2000年にそれまで使用されていたコ1形、コ5形と置き換えたものです。ブル・ミケ・ドレミ・スイートのそれぞれの顔はFRP製で鋼製車体に取り付けてあり、もし、違うテーマの車両にすることがあれば、新たな顔を製作して取り替えることが出来ます。さらにコ11形・コ15形は、非常用ブレーキとして他の鋼索線車両と同様、テオドル・ベル式ブレーキを備えているが、なんと電気指令式になっています。他の車両はブレーキが作動すると機械的に制動をかけますが、コ11形・コ15形は電気指令にて制動をかけるようになっています。

 けいはんな線の学研奈良登美ケ丘延伸時に、生駒から東生駒車庫までは同車庫の入出庫線を利用して延伸されました。その際、複線化する必要がありましたので、並走する奈良線を南側に1線分ずらして移設、旧奈良線下り線をけいはんな線の上り線に転用しています。

 鉄道会社の歴史を見ていくといろいろな動きがあるのですが、注意しなくてはいけないことの一つに、社名の変更があります。最近では、CI(コーポレート・アイデンティティ)による変更が多いのですが、創業期のころでは経営上やむを得ない理由で変わることがあります。「信貴生駒電気鉄道」から「信貴生駒電鉄」への変更もその一つで、この場合は、王寺−山下(現、信貴山下)間の鉄道線・山下−信貴山間の鋼索線を開業させた信貴生駒電気鉄道の経営状態が良くなかったので、新しく信貴生駒電鉄を起こし、これに譲渡する形で事業整理を行い存続させたものです。山下−生駒間・枚方線枚方東口(現、枚方市)−私市間(1939年に交野電気鉄道として分離、1944年に京阪神急行に合併)は、信貴生駒電鉄の手で建設、開業しました。

1983年に廃止された東信貴鋼索線は、日本で3番目に開業したケーブルカー(2番目は箱根ケーブル)で、数少ない戦時中も営業していたケーブルカーでもありました。この線の巻き上げ機も開業時は直流600Vで、のちに直流550Vに交換され、廃止されるまで直流のままで運転されていました。東信貴鋼索線以降に開業したケーブルカーの巻き上げ機の動力は、すべて交流である。箱根ケーブルも直流でしたが、こちらも後に交流に改められています。

 京都線京都丹波橋間は、DVDも述べられているように、元国鉄奈良線京都桃山間の廃止区間です。元々、国鉄東海道本線大津京都間が逢坂山トンネル経由で、国鉄奈良線京都桃山間が伏見経由で建設されたのですが、東海道線の方は勾配が続く運転上の難所でしたので、同区間は1921年に山科経由に切り替えられました。このときに旧東海道線の京都稲荷間を奈良線に転用(稲荷桃山間は新設)、伏見経由の旧奈良線が廃止されました。これを奈良電は払い下げてもらい、京都までの路線に活用したものです。

 丹波橋で京阪線と相互乗り入れをしていた頃は、それぞれ乗務員も車両と共に相手線に乗り入れていました。

 近鉄には、7線区、改軌工事を行った線区があります。改軌工事が行われた順に、天理線・名古屋線(伊勢中川江戸橋間)・田原本線・名古屋線・鈴鹿線(伊勢若松鈴鹿市間)・湯の山線・志摩線です。そのうち、第1章で取り上げられているのは、天理線と田原本線です。

 天理線は大阪電気軌道に合併後、大阪から天理への直通運転のために762mmから1435mmへの改軌・電化工事が行われ、約2ヶ月間の工事期間を経て1922年4月1日に完成しました。

 田原本線は、戦後の疲弊した状況から輸送力を確保するために、大和鉄道時代の1948年6月15日、こちらも約2ヶ月の工事期間を経て、1067mmから1435mmに改軌、同時に電化されました。改軌・電化後は、大和鉄道では車両を持たず、近鉄からモ200形(旧大軌デボ1形・デボ19形)を借り入れて運転、DVDで紹介された田原本線連絡線は、このときに設置されています。

DVDで紹介された車両以外にも、興味ある車両がさりげなく映し出されている場面もあり、例えば、近鉄で唯一のステンレスカー3000系や、8400系で先頭車両を中間車改造したモ8459やモ8461を組み込んだ8409編成や8411編成などが画面に登場しています。それらを探してみるのも面白いでしょう。

空撮映像は、普段地上からしか見ることのない景色と違い、近鉄線がどのようなところを走っているのかが、よく分かります。それ以外でも、それぞれ興味ある事、例えば歴史であるとか、沿線風景であるとか、などに注目してこのDVDを見ていかれると、また違った目で「近鉄」を楽しめるのではないかと思います。

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深読み!近鉄プロファイル第2章(その1)

近鉄プロファイル第2章(その1)

第2章では、大阪から伊勢志摩へと走る大阪線・山田線・鳥羽線・志摩線、忍者のふるさと伊賀地方を走る伊賀鉄道を取り上げています。

その中で、いくつか興味のあるところをご紹介しましょう。

大阪線のうち、布施ー桜井間は大阪電気軌道によって建設されたことはDVDで述べられている通りです。八木ー桜井間が開通するまでは、架線電圧は600Vだったわけですが、この時代の大阪線にはどんな電車が走っていたのでしょうか?

大阪線用の車両であるデボ1000形が登場するのは1929年のこと。それまではデボ1形から始まる奈良線・畝傍線(現、橿原線)で走っていた車両が共通運用で走っていました。

デボ1000形が登場したこの年、高安に車庫と工場が設けられました。同時に奈良線の小阪にあった工場が廃止になり、奈良線・畝傍線の車両も高安工場で整備することになりました。でも、布施ー高安間は1929年に架線電圧が1500Vに昇圧されました。それからはどうしていたのでしょうか?

実は、デボ1000形は架線電圧が600Vでも1500Vでもどちらでも走れる複電圧車両として製造されており、奈良線の600V車両が高安工場で整備される時は、このデボ1000形に牽引されて小阪車庫との間を行き来していたのです。これは1952年に奈良線用の玉川工場(八戸ノ里―若江岩田間にあった)ができるまで続けられました。

河内山本の5番線は、1961年に橋上駅舎化された際、輸送力が伸びてくる大阪線の運用に支障をきたさないように設けられました。しかし、デイタイムには乗り換えの便を考慮して、1番線から信貴山口行きが発着することもあります。

信貴線ですが、戦後1948年から1957年まで「東高安線」に線名が変更されていました。もちろん、信貴山口も「東高安」に変更されていました。西信貴鋼索線(復活当初は信貴鋼索線、第1章で紹介した信貴生駒電鉄を合併した1964年に、現線名に変更)の営業再開とともに元の線名に戻されています。

DVDでは西信貴鋼索線のコ7形の前に据えられて使用されているコニ7形ですが、いつも使用されている訳ではありません。使用されていない時は、信貴山口の鋼索線ホームの片隅に引き上げられて、その小さな体を休めています。

信貴山急行電鉄(1936年、信貴山電鉄から社名変更)は、鋼索線で山上の方へ登り、それから鉄道線で移動するという珍しい形態をとっていました。鋼索線と山上鉄道線の接続駅であった高安山には、現在の改札口の前に山上鉄道線の2面2線のホームがあり、小さな信貴山車庫が併設されていました。

五位堂は、近隣の大和高田駅高架化(待避線撤去)に伴い1963年に待避線が作られましたが、当時は準急と普通がとまる小さな駅でした。1982年に五位堂検修車庫が出来、さらに近くに真美ケ丘ニュータウンの開発が進められて、今日のような10両編成の列車が停車する、快速急行停車駅になったのです。1936年、信貴山電鉄から社名変更)は、鋼索線で山上の方へ登り、それから鉄道線で移動するという珍しい形態をとっていました。鋼索線と山上鉄道線の接続駅であった高安山には、現在の改札口の前に山上鉄道線の2面2線のホームがあり、小さな信貴山車庫が併設されていました。

大和八木は、桜井まで開通した時に畝傍線と交差する乗り換え駅になりましたが、大阪線のホームは当初、相対式ホーム2面2線でした。1967年、新ノ口連絡線の完成とともに島式ホーム2面4線に改良され、現在のような形になりました。 大和朝倉駅に待避設備ができたのが1996年のことですから、大和八木駅改良以前は五位堂−榛原間23.0kmもの区間で待避ができなかったことになります。

さて、大阪線の東半分、桜井ー参急中川(現、伊勢中川)間は参宮急行電鉄の手によって建設されました。このうち、名張ー伊勢中川間は単線でした。この区間の複線化は1960年から順次始められ、新青山トンネルの貫通を以って、1975年、完成しました。

参宮急行電鉄が建設したのは大阪線の東半分と山田線ですが、この桜井ー宇治山田間の免許を取得したのは、なんと第1章で紹介された田原本線の前身である大和鉄道でした。桜井ー名張間は、大阪電気軌道・大阪鉄道・大和鉄道他数社との兢願となりましたが、大和鉄道が免許を取得しました。大和鉄道に免許が交付されたと見るや大阪電気軌道は方針を変換、同鉄道を傘下に治めて名張ー宇治山田間の免許も取得、この免許を参宮急行電鉄に譲渡します。参急は路線の規格を自社のものに合わせて変更して、宇治山田までの路線を建設しました。

大和朝倉を過ぎると大阪線は勾配区間に入って行きます。山深いところや谷間の田畑が見下ろせるところがあったりして、車窓の楽しい区間でもあるのですが、空撮映像を見ると初瀬街道が走る谷の南側斜面を切り開き、盛土を築いて、線路が伸びているのがよく分かります。ブルーレイ版のメニュー画面では本編未使用部分の空撮映像を見ることができるそうです。

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深読み!近鉄プロファイル第2章(その2)

近鉄プロファイル第2章(その2)

現在の伊賀鉄道の前身、伊賀電気鉄道は1929年に大阪電気軌道に合併された訳ですが、合併後はどうなったのでしょうか?

合併後、大軌伊賀線となったものの、運営は参宮急行電鉄に委託されていました。1931年、宇治山田までの建設を終えた参急に譲渡されて参急伊賀線となり、関西急行鉄道を経て近鉄の一員になった訳です。1964年には、大阪線と並行する西名張ー伊賀神戸間が廃止されています。同時に、西名張にあった車庫も上野市に移されました。

新青山トンネルの完成により西青山ー東青山間は新トンネル経由になりましたが、ここでも高圧送電線は、今でも旧青山トンネルに沿って渡されています。

名阪甲特急は中川短絡線を通過する際に乗務員が交代しますが、津に停車する名阪甲特急と名阪乙特急は、津で乗務員の交代が行われます。実は、津に停車しない名阪甲特急には、高安列車区と富吉列車区の特急担当の運転士が乗務しており、大阪線内は高安列車区の運転士が、名古屋線内は富吉列車区の運転士がそれぞれ運転を担当、その間もう一人の運転士は車掌を務めているのです。

宇治山田駅高架ホーム横のバス発着場ですが、宇治山田まで特急で来た観光客を鳥羽・志摩方面へ観光バスでスムーズに運べるよう、1961年に整備されたものでした。観光バスを方向転換出来るようにターンテーブルまで備えられていました。

志摩電気鉄道から三重交通を経て引き継いだ志摩線、鳥羽線が建設されるまでは他の近鉄線とは連絡していない離れ小島の路線でした。その時代の鳥羽駅は、今のJR鳥羽駅の0番線の山側付近にあり、小さな鳥羽車庫も併設されていました。

志摩線はDVDで述べられているように、日本万国博覧会の開催を機に新たに建設される鳥羽線を介して大阪や名古屋と結ばれることになり、196912月から運休(バス代行運転)して1067mmから1435mmに改軌、750Vから1500Vに架線電圧を昇圧する工事を行い、1970年3月1日から直通運転が開始されました。この時、鳥羽駅も海側に移設されています。

大阪や名古屋から特急が直通するようにはなったものの、鳥羽ー中之郷間の旅館街を通る区間を改良した程度でほぼ旧線をそのまま利用しましたので、単線でカーブが続く路線でした。そのため、志摩スペイン村の開園と、それに合わせて伊勢志摩ライナー23000系が登場した時に、志摩線も輸送力増強のために改良されることになったのです。

賢島は元々、現在の駅の1番線の部分からそのまま坂を下ったところにあった、1面1線の小さな駅でした。改軌・昇圧工事の際、現賢島駅の部分に1面2線の特急用ホームが作られましたが、普通列車用としてこのホームも残されました。志摩線改良工事の際に特急用ホームが拡張され、普通列車も拡張された現在の5番線に発着するようになり、坂の下の小さなホームはその役目を終えたのです。

賢島からその先、左へカーブしながら約300m程行ったところに、真珠港と言う貨物駅がありました。1969年の改軌・昇圧工事に先立つ同年7月に賢島ー真珠港間は廃止されましたが、旧真珠港駅は明星検車区賢島車庫として、1990年代初めまで志摩線で運用される車両の検車業務を行っていました。普通列車が5番線に切り替えられた後、1番線の高架部を作る工事により開業時からのホームとその先の賢島車庫は撤去されました。

賢島駅1番線に伊勢志摩ライナー23000系が到着する場面で、3番線にも伊勢志摩ライナーが停車しています。2本の伊勢志摩ライナー、その違いが分かりますか?

1番線に到着したのは大阪難波から来た編成で、3番線に停車している編成は名古屋から来た編成です。デラックスカーの位置が違うことを見ていただければ、お分かりかと思います。

第2章でも興味ある車両がさりげなく画面に映し出されています。例えば、大阪線所属車両で唯一のロングシート車の6両編成である16201641編成や、24102430系の4両編成の中で名古屋線1810系の付随車サ1976を組み込んでいる2443編成、2800系で2編成しかない2812編成、奈良線から転属してきた9200系4両編成、などが画面に登場しています。

大阪線は大阪から伊勢へと、近畿地方を横断するように路線が伸びています。DVDを見ていても分かりますが、大阪平野から伊勢平野に向かって移動する間に、生駒山地・大和高原・布引山地という地塁地形があり、地塁地形のそれぞれの間に奈良盆地・伊賀盆地という地溝地形がある、という地理で習ったことが実感出来る路線です。こういうことも、「近鉄」を楽しむ見方の一つではないかと思います。

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奥井宗夫のむねのおく 2-7




「よみがえる総天然色の列車たち第2章7国鉄ディーゼル篇<前篇>」のむねのおく


―今回は「国鉄ディーゼル篇」ということで、三重県松阪市が地元の奥井さんにとって、特に地の利を生かして撮影されたものが色々と登場するという……

奥井 蒸機の撮影から始まったが、ついついつられてディーゼルも撮ってしまったという格好ですけど。ハコ(車体)自体奇麗でしょ? 色が着いているし。当然カラーフィルムを使ったものだから、余計エンジンが掛かってしまった(笑)。―今回は「国鉄ディーゼル篇」ということで、三重県松阪市が地元の奥井さんにとって、特に地の利を生かして撮影されたものが色々と登場するという……。

―あ、それまでは蒸機だと黒いから。

奥井 そう。それはあります。

―「国鉄色」と呼ばれる鮮やかなカラーで「くろしお」も登場しましたし。

奥井 それはやっぱり素晴らしかったですよ。上手い具合にキハ81が入ってきましたしね。

―今回特に驚いたのがキハ81系の試運転の映像でしたが。

奥井 偶然駅に行ったら、「今日上って行ったよ」と(駅員に)言われて分ったんです。「えーっ」てなもんで、これは行かないかんと撮りに行きました。(キハ81形は)まだ1両しか来ていなくて、名古屋でターンテーブルで方向転換して、翌日戻って来たんです。途中で撮って、松阪で5分停車位の間に構内に回り込んで撮りました。あれは運良かったですよ(笑)。

―前面に……、

奥井 「試運転」と紙で貼ってありました。

―紙ですか!?

奥井 正式なものではなくて紙で貼ってありました。この下は前の名前のままだなと。多分「ひたち」が入っていたんじゃないかな。

―そのあとキハ81系の活躍がしばらく続いていくわけなんですけど、その前段、キハ82系で特急「くろしお」がデビューした時は……。

奥井 あの時はね、当初松阪停車の予定は無かったの。松阪通過だったの。

―は!? 松阪を通過する!?

奥井 ファンの仲間から「奥井さん松阪停まらないよ」と電話が掛かってきたもんだから、当時駅に市会議員が2人いたので伝えたが、「そんなことあるもんか」って、皆のんびり構えているんよ。そのうち停まらないというニュースが本当に流れると、泡食って市長に言い、市長は運輸省の偉いさんの所に飛んでいったんさ。すると国鉄は松阪に「くろしお」を停める気は全然なく、津に停めて次は多気に停める気だったが、(陳情の甲斐があって)松阪が30秒停車になった。

―名古屋と南紀方面の速達性を重視するあまり松阪に停車させる気はなかったわけですね。近鉄特急もあることだし。

奥井 そうなんです。それで実際松阪に停めてみると、その30秒停車の間にお客さんが降りるわ降りるわ。でもドアが1両にひとつしか無いでしょ? だからとんでもないことになって。国鉄本社の感覚からしたら得ないので、東京から来て各駅の乗降客数を調べたら松阪がダントツで多いのよ。

―そりゃ本来で言うとそうでしょう。例えば東京からで言うと多分、名古屋で近鉄特急に乗り換えるということにはならないでしょう?

奥井 それで泡食って自動券売機のマルス102を松阪に持って来た(笑)。しかし松阪に停めたもんで表定速度は49キロになった。

―そこの所は特急としての威厳を保ちたかったわけですね。国鉄本社としては。

奥井 そうなんですよ。何がって言ったら、一番それが停めたくなかった理由で。だったら複線にすればいいのに。

―いくらでもやり方はありますからね。でも「くろしお」は当時、国鉄史上最遅の列車だった可能性がありますね。

奥井 事実そうでした(笑)。

―そんな経緯があっての、華々しいデビューの日というのがあの映像ですか?

奥井 そう。

―目から鱗が落ちるような奇麗な映像。カラーフィルムの本領発揮という所ですね。時代は前後しますがキハ82系で山陰方面に行かれた映像とかも。

奥井 あれもとにかく、出来たら行かないかん言うて。

  ◆

―キハ181系がデビューしてからは、「おき」が伯備線を走る映像が出ますね。僕らの世代だと「おき」は山口線の列車なんですけどね。キハ181系のデビューは中央西線が最初でしたが。

奥井 本当はキロ58を上手に撮りたかったんですが。中央本線しか走ってなかったので。

―結果はどうでしたか?

奥井 撮ってない。見に行っただけは見に行ったんやけどな、1回は。

―その代わりに出て来るわ出て来るわ。

奥井 思わぬもんがな。

―えらいことになっていますが、奥井さんとしてのお気に入りは?

奥井 キハ17の4連の奇麗な時は嬉しかったね。それと和歌山線のキハユニ16。

―あとの時代になって来るとディーゼルカーの普通列車は編成が短くなっていくんですが、ここでは奇麗な4連や雑多なものが6連、7連と、何じゃこれはというのが……。

奥井 あります(笑)。回送を繋いで来るのもあるやろうしね。余計に面白いんです。

―キハ55系は当初ああいう淡い黄色をしていて、1等車が青で2等車が赤ですか、帯が付いて。

奥井 そうですね。半室のキロハなんて面白かったですよ。

―キロハねぇ。中在家で出て来るやつですよね。画が短くてスーパーが入りませんでしたが。

奥井 当時は元々電気式から出発したキハも混じっていましたからね。そんなものももうちょっと撮りたかった。

―キハ17系やキハ20系を通して観ていると、車体の断面とか、普段気付かない違いが解ってくるのではと……。

奥井 それは面白いと思いますよ。

  ◆

―初の通勤形気動車キハ35系が登場する伊勢線開業の場面ですが、あれは面白かったですね。想像以上に盛り上がりに欠けていて。

奥井 あの時はまだ郵便車が走っていたので、その郵便車のスタンプ関係で行ったんですよ。

―記念スタンプを貰いに。

奥井 そうそう。それに郵便印もあったから。

―普通開業初日と言えばわーっと人が集まっているような印象があるんですが、4番列車とは言え、何か肩すかしを食ったような……。

奥井 郵便関係のついでに撮りに行ったようなものではありましたが、意外と静かなもんでしたね。

―この伊勢線というのは、10年ちょっと後には、赤字のお荷物路線として国鉄から切り離されて行くということになるのですが……。

奥井 本当言うと僕は、亀山―津間を廃止してでも残すべきやったと思うんですけどね。中央で考えることやと思いましたね。

―先ほどの「くろしお」の松阪停車の件と同じですね。

奥井 そうそう。

奥井 参宮線の方も冷遇されていったと思いますよ。昔はほとんど複線でしたもん。各鉄橋だけ単線でね、鉄橋の入り口まで複線で、かなり高速化されてましたよね。ましてC51の重連運転もありますし、べらぼうに機関士は飛ばしました。やっぱり近鉄があってこそライバル意識があって、スピード出して走ったんですから。元々津までは関西鉄道で、津からは参宮鉄道だったのですが、だからといって津で機関車を付け替えたのも不思議な話で。

―その参宮線や紀勢本線では違う系統の列車を、繋いだり外したりして走る多層建ての急行列車が、色々走ってましたね。

奥井 バラエティー豊かでしたね。それと急行「紀州」にしても新婚旅行などで結構お客さんが乗っていたのが、キロを2両繋いでいたことでも解ると思うんですが。えらい時は3両繋いでましたからね。

―その点でも地元での定点撮影の醍醐味のようなものがありますね。それぞれの車両の意味を読み解きながら観る面白さもあって。

奥井 踏切で大体情報を聞くんですよ。そうすると「今日はこんな臨時が走るよ」なんて事も早いこと判ったものだから、それでいい列車に巡り会うことができたんです。

―踏切ということは踏切警手さんからの情報ということですか?

奥井 そうそう。駅と卸売市場と家との位置関係は丁度間に踏切を挟んでいるものでね。だから市場から帰って来る時に情報を聞くと、すぐに撮影の準備をするわけです。

―しかし青果業を営みながらだと、近いとは言え色々とご苦労もあったようですね。

奥井 ええ。午前中はまず撮りに行けないんです。「昼下がりのカメラマン」(笑)。配達など、昼の紀勢線の列車を送るまで仕事はびっしりあるわけです。

―奥さんに伺うと、何かすぐ、「あの人いないわ」みたいな事になっていたそうなんですが、目を盗んで行かれてたんですか?

奥井 普通はメロン箱とかに一式入れておいて、それでツイッと積み替えて走らな仕方がない。

―配達を装って。

奥井 はい。

―奥さんからすれば、もうバレてたんじゃないですか?

奥井 もう分ってましたよ。箱がなきゃすぐ分ります。

―それで色々と出て来るわけですね。先ほどキハユニ16の話もありましたが、郵便車も色々と。

奥井 客車の郵便車もありましたからね。スハユなんて全国で6両しかなかったのが、時々走ってましたからね。紀勢線から来る郵便車と参宮線から来るのとがあるから、余計に繋いでるわけですよ。片方がスハニで、もう片方がスハユかスハニで、小津安二郎の映画にも出てきます。

―「浮草」!

奥井 そうそう。松阪行の表札があったり、オハニのテールが出てきますから。

―あの映画は相当面白いんですが、考えてみれば小津安監督は鉄ですね。

奥井 ええ、鉄です。

―あらゆる映画に必ず出てきますよね。一番私が気に入っているのは「お茶漬の味」で、ダンナの佐分利信と喧嘩して須磨の実家に帰る小暮実千代が、特急「つばめ」か「はと」のマイテに乗って、そこで一人もの想いに耽っているという間ずっと、ヒキとヨリのカットを交互に積み重ねる中で天竜川を渡りきるという凄いシーンがあるんですけれど。

奥井 僕は尾道を通過する……。

―ああ、「東京物語」!

奥井 あのスハの3等の標識がまだちょっちょっちょっと三つ書いてある。素晴らしいが肝心の機関車はちょっとも見せてくれない。

―あと「晩春」で笠智衆と原節子の親子が北鎌倉から東京へ歌舞伎を観に行くというだけのシーンで、走りが7カットもあるんですよ。車内と走りと車内と走りと……。何にも特に芝居はないのに。明らかに鉄です。「彼岸花」では東京駅のシーンから始まって、「今日は新婚さんが多いなあ」という所から、ラストは淀川を渡る特急「かもめ」だったと思うんですけど。

奥井 完全な鉄ですよあの人は。

―客車からディーゼルカーに代わっても郵便車は引き継がれて色々と出て来るんですが。

奥井 他所より多かったですね、そういうのは。

―まさにディーゼル王国。

奥井 でしたね。

―松阪は小津安二郎監督ゆかりの地でもあるんですが、この松阪周辺では奥井さん、実は狙いに行ったものは少ないんですよね。

奥井 はい。

―しかし地方に関しては当然狙いに出かけたということで、今回キハ91系はそのひとつだと思うんですけれど。

奥井 キハ91はやはり狙ってましたね。名古屋駅と高山線と、中央線にも1回。

―最初が中央線でしたね。

奥井 はい。

―どうでしたか、キハ91というのは。初めて会われた時には。

奥井 あれはね、ディーゼル音が高かった。そして硬かったね、キハ58系などよりね。

―もはや現物の音を記憶している人が少なくなっているんですけれど、キハ181と同じような感じの……。

奥井 そうですね、ちょっと高かったな。

―デザインも中間に挟まっている1両だけが運転室周りが違っていて……。

奥井 そう、こうタレ目で、素晴らしかったです。

―ちゃんとそれを撮ってますよね。流石だなと。でもそれが中央線から高山線系統に回って、いよいよ引退という時に、また撮りに行かれましたね。

奥井 はい。ギリギリ行ってます。危ないと思って。でもその頃はファンも少なかったからねぇ。

―キハ91系の引退と同時に「北アルプス」が特急に格上げになるという、その前で。

奥井 タイミングとしては一番良かったと思います。

―急行があれだけ各種あり、特急「ひだ」があり、普通列車もある。

奥井 黄金時代ですね、ひとつの。一番いい時やったと思います。

―このあともこのシリーズ、国鉄ディーゼル篇は続きますが、まだまだ色々なものが出てきますからね。

奥井 どうぞご期待ください。

                               <了>



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掲載新聞記事

新聞に掲載された関連記事をご紹介します。

2012年7月15日 毎日新聞中京版

2012年5月17日 読売新聞三重版

2012年4月20日 夕刊三重

2012年4月20日 毎日新聞大阪版

2012年4月7日 夕刊三重

2010年9月16日 夕刊三重

大糸線の見える宿 ホテル白馬荘

大糸線の見える宿

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大糸線平岩駅そばに建つ姫川温泉・ホテル白馬荘。

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われわれ鉄道ファンにとってこたえられないのは、

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座敷に居ながらにしてそこが大糸線の撮影ポイント

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映画・テレビの気になるところ

動輪堂P&Dの宮地正幸が趣味であり仕事の一部でもあり、創作の源泉でもある映画やテレビについて、テキトーにつぶやいたものを列挙するページです。鉄道に無関係なことも多々含まれています。大抵はTwitterやfacebookへの投稿の再録です。

「鹿男あをによし」の気になるところ1 「好人好日」と同じ若草山のシーンが出てくるが、下界の変貌ぶりがすごい!

「鹿男あをによし」の気になるところ2 教頭役の児玉清の演技が先鋭化している。昔はこんなスタイルの芝居をする方じゃなかったと思うのだが、永年の「パネルクイズアタック25」中で新しい自分のスタイルが凝集し、顕在化したのか。演出家が近年モノマネ等で強調されデフォルメされたイメージを求めたのか。

「鹿男あをによし」の気になるところ3 最終回、主人公が奈良を去る。近鉄奈良駅は地上ホーム。万博前の姿を彷彿とさせて懐かしささえ漂う。別の回でコンコースのシーンは本物の近鉄奈良駅で行われたが、ホームでのロケは現実的に難しいのだろう。天理駅を使用していた。

「鹿男あをによし」の気になるところ3 近鉄奈良駅に見立てた天理駅。駅名標は近鉄スタイルだが「近鉄奈良」ではなく「奈良」。通常は臨時列車しか発車しない北側のホームを使用。信号の信号現示とドア閉めが同時なのは信号の青を合成したためか。

「鹿男あをによし」の気になるところ4 主人公玉木宏が多部未華子に渡された手紙を読む間、背後の車窓は奈良線に戻って、学園前付近〜東花園付近と進む。そして新向谷トンネルに入り、出口は下り生駒トンネル。そして外を見ると上りの朱雀門。。。列車内の撮影は本当に大変なのです。

「好人好日」(渋谷実監督・1961年)

「好人好日」の気になるところ1 私の知る限りでは笠智衆の初主演は実相寺昭雄監督・倉本聰脚本の芸術祭大賞受賞作「波の盆」だと聞いていたが、これは主演作品だ。

「好人好日」の気になるところ2 小津安二郎以上の徹底したローアングル。

「好人好日」の気になるところ3 大学教授である笠が住むのは奈良市内。猿沢池の南、坂を上がった上周辺のように見えるが、その後のあまりの変貌ぶりに特定は難しいか。こういうのは廃線跡を探すのと同じ味わいがある。

「好人好日」の気になるところ4 笠の夫人役の淡島千景。「人間の條件」の2年後の作品だが、何と振り幅の広い女優であることか。

「好人好日」の気になるところ5 大学教授である笠が近所の食堂の息子の家庭教師をしているが、その息子がどうやら頭師孝雄さん。ある映画で1週間程北海道ロケをご一緒させていただいた。ベテランスタッフからは子役時代から変わらず「頭師ぼん」と呼ばれていた。「敦煌」に出演した直後で、現地でシシカバブの屋台丸ごと借り切ってスタッフキャスト全員にご馳走しても2000円で済んだなど、色々な話を聞かせていただいた気さくな方だった。

「好人好日」の気になるところ6 娘の岩下志麻のボーイフレンドの祖母役は北林谷栄。その風貌はその後30年変わることがなかった。見事な老け役。

「好人好日」の気になるところ7 奈良が舞台なので近鉄の登場を待っていたら、出てきたのはEF58が牽引する東海道本線の普通列車。これを指して「ダラ」という笠のセリフがあった。私が昔阪急の駅でバイトをしていた時に使っていた言い方だ。阪急ローカルかと思っていたが、全国区でしかも一般用語だったとは。

「好人好日」の気になるところ8 若草山からの俯瞰がなんと素晴らしいことか。奈良市街はほんの一握りで、あとは延々と田園地帯が続く。西大寺周辺も家屋はほんの一握り。生駒山や葛城山の容姿だけは今も変わらない。

「雲の上団五郎一座」(監督:青柳信雄・1962年)

「雲の上団五郎一座」の気になるところ1 私が育った宝塚映像の前身、宝塚映画作品! チーフ助監督に、後に「これが青春だ」等を監督した松森健、「37階の男」等の高野昭二の両先生が並んでクレジットされている。私は「1・2・3と4・5・ロク」や「料理少年Kタロー」等、多くの作品で助監督につき勉強させていただいた。

「雲の上団五郎一座」の気になるところ2 ベテランの域に達した(足を切断する直前だそう)エノケンこと榎本健一が出演しているのが凄い!

「雲の上団五郎一座」の気になるところ3 舞台シーンの撮影場所は宝塚新芸座劇場ではと勘繰る。

「雲の上団五郎一座」の気になるところ4 洋物ミュージカルの舞台シーン。衣装や小道具に宝塚歌劇の匂いがぷんぷんする。宝塚歌劇男子部が陽の目を見ていたらこうなっていたかもとイメージが膨らむ。

「日本鉄道こころの旅」の気になるところ1 「山陽本線 岡山〜広島」の回の再放送を見ていたら、テールランプを点けて上り線を逆走する豪快な列車の姿が! このような大胆な演出と編集はいまだかつて見たことがない。その勇気に思わず脱帽する。 

「豚と軍艦」(今村正平監督・1961年)の気になるところ1 丹波哲郎が弱気になって飛び込み自殺をしそうになる京急の電車が500形か700形。横須賀線の横須賀駅で発着する電車が70系。どちらも前面2枚窓の所謂「湘南形」。このあたりのことで当時の時代背景を楽しんでいる私。

「豚と軍艦の気になるところ2 横須賀駅の大俯瞰が映画のラストカット。かつて初めて利用した時に思ったが、1面2線で1線は頭端式で15両の長大編成の電車が発着。もう1線は久里浜方面へそのまま単線で伸びている。なんとも不思議で特殊な造りの駅である。

奥井宗夫のむねのおく 2-8

「よみがえる総天然色の列車たち第2章8国鉄ディーゼル篇<中篇>」のむねのおく




奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。



―「国鉄ディーゼル篇<中篇>」は前回のディーゼルカーに対してディーゼル機関車が中心なんですが、全体の印象として如何ですか?

奥井 ちょっと単調になるかとも思われましたが、かなりバラエティーに富んだ内容となりました。ただほとんど地元(三重県松阪市)から動いてないということで……。

―監修の宮澤孝一先生辺りは、逆に定点観測の面白さがあってこれの方がいい、前回よりこちらの方が面白いとおっしゃっています。

奥井 ああ、そう?

―ええ。「国鉄ディーゼル篇<前篇>」より<中篇>、<中篇>より<後篇>が面白いとの評価をいただいています。私も撮影が同じ場所ばかりだと退屈なのかなと思っていたのですが、案外そうじゃなくて、写っているものが全部違うのと、それを整理してひとつひとつ意味付けをして、それをどう説明し伝えるかというのをやっていく中で、私も段々面白くなって来たんです。DF50とDD51のフィルムがかなり沢山出てくるのですが、機関車の説明だけではなくて、後に何が繋がっているかという説明がしていけましたし。

奥井 それは大きいですね。編成全部を写していますから、何が繋がっているかが全部分って、その辺は面白いやろなという気はしますね。

―まずは旧客の面白さ。

奥井 もう少しバラエティーがあれば良かったんやけどな。

―そういう意味では戦前の半鋼製を改造したやつは余り出てこないですね。

奥井 意外とそれはここら辺では少なかったですね。

―東北の方とか……。

奥井 ダブルルーフにしても、窓のちっちゃい客車(半鋼製からの改造車)にしても、ほとんど入って来ませんからね、ここら辺は。御殿場線にデゴニを撮りに行った時には、スハ32の重たいのがずらっと並んでいて、「あ〜」っと思ったけど。

―それは「蒸気機関車篇」でのお楽しみですね。私も昔よく乗ってたんですが、オハ35系とスハ43系の違いなんか、それほど意識していませんでした。しかしこうして編集しながらつぶさに見直していると、車体の裾を絞った所とか、屋根の丸みを帯びた感じとか、面白いですね。

奥井 うーん、色々あります。あれもね、一番素晴らしかったのは、マニ32の張上げ屋根の頃があるのね。1番。あれなんか素晴らしい客車でしたよ。作品には出て来ませんけど。

―43系にしても特急用として活躍した時代があった訳ですね。

奥井 やっぱり特急は東海道線でもっと撮りたかった!(笑)。

―微妙に数年、8ミリを写しだしたのが遅かったですね。

奥井 そうなんです。しかし当時はカメラやフィルムがどんどん良くなるし、それを待ってるんですよ。そのタイミングが難しい難しい。僕は国産機ばっかり使っていたけど、カメラとの巡り合わせだけは良かった。エルモの8Aという一番初期の機械を使わせてもらって、その次にキャノンの8EEEという機械を使わせてもらったんですよ。それは良かったんですが如何せん「弁当箱」と呼ばれるくらい重たくて、ダイキャストなんですよ、ボディーが。それで大方撮っている時にいわゆるスーパーエイト時代に変わっちゃうんですよ。上手いことすぐにニコンさんの5X(5倍ズーム)ですか、あのカメラを買うことが出来たんですけどね。けど当時はそれより上級機種の8Xが買えなかった。その後にしてもニコンさんの10倍を買えずに8倍で使い切りました。地方のカメラ店では品物が回って来なかったんで、良いカメラが買えなかったんです。そやけどやっぱり、最初にそのエルモの一番安い機械で、標準のレンズでどれだけ撮れるかというのを上手いこと習わしてもらったから、纏まりがついたと思うんです。最後にキャノンの1014-XLSという10倍のサウンドカメラを上手いこと人に譲ってもらいまして、どうにかこうにか辻褄を合わせました。

―私が買いたかったけど買えなかったやつです!

奥井 あれはみんなの憧れでしたね。その人は2年ほど使った所で、「わしビデオに替えるから」ということで、僕に半値でくれたんですよ。5万円で。ところがキャノンさんとニコンさんの画質の違いに愕然としましたね。キャノンは寒色系です。ニコンは暖色系です。同じフィルムを使ってもカラッと違っていて、ほんと冷や汗かきました。1983、4年のことです。

―黄色っぽいやつですか?

奥井 ニコンさんはどうしてもそうなるんです。逆にキャノンさんは水色になっちゃうんですよ。あれは難しかったです。内蔵のフィルターの違いなんですよ。それがモロに出ましてね、それでキャノン派はキャノン派なんですよ。ニコン派はニコン派なんですよ。

―好みが分かれるわけですね。

 客車の話に戻しますけど、荷物車と郵便車、これらが相当色々と出てきて楽しかった所ですが……。

奥井 ええ。ただもうちょっとバラエティーが欲しかったです。割にオハニが出てこないからねぇ。

―写っているやつを検証して行くと結局皆マニ60とスユニ61色んなバリエーションですね。

奥井 そうなんですよね。昔はスハユみたいな全国に6台しかないのがゴロゴロしてましたからねぇ。それを思うと、ああ、あんな時代になってしまっていたんだなと、改めて思いましたね。

―そんな中で、10系がたくさん出ていたり、12系も登場したりしますが、シルやヘッダーがないスキっとした車体の、いわゆる「旧客」とは呼ばなくなった、けど充分古い時代の客車ですよね。

奥井 そうですね。

―そして、客車と同様に、機関車の後に繋がってる貨物も出てきます。

奥井 撮りに行った間に、来たやつは撮るように心がけていましたけど。

―今はほとんどコンテナになっているので、この時代のフィルムは楽しくてしかたがないんですが。

奥井 そうかもわかりませんね。あれは日によって編成がコロッと違いますからね。

―つくづくいい時代だなと。

奥井 もっと冷蔵車が出てきてもいいかなと思うんだけれども、やっぱり冷蔵車で輸送しても、間に合わなかったんだろうな。紀勢本線方面から東京まで送ろうと思っても。

―結局「とびうお」のような幹線系の直行型でないと……。

奥井 無理なんですね。使いたくても使えなかったのでしょう。「魚穫れたので冷蔵車回してくれ」とは言えない(笑)。

―機関車の話に戻しますが、DF50ってどうだったんですか?

奥井 エンジン音は高かったけどそれほど強力ではなかったですね。「マン形」ほどではなかった。器量はありましたけど。

―ここのは「ズルツァー形」でしたね。

奥井 はい。

―蒸気機関車との共通運用があったと聞きましたが。

奥井 はい、ありました。最後はC51とDF50でしたからね。どっちが来るかわからないと言う時期が確かにありましたね。でも、どこでもそうやと思いますよ。中央線辺りもDF50の重連が走ってましたしね。

―今回も重連が多く写ってますね。

奥井 あれは回送ではないと思うんですよ。やっぱりそれだけ力が強くなかったんだと思いますね。

―その辺りの事をナレーションでは強調して説明していないのは、一方ではもっと長い編成を1両で引っ張っているものがあったり……。

奥井 かなり無理して使っていたんでしょうね。

―ここは明確に重連の運用になっているとか言いにくくて。

奥井 両数にゆとりもなかったと思いますね。僕らもいつ来るかわからなくて、「あ、重連で来た」って言うぐらいのことで。意外と重連が多く写っているのは、単機だと撮らなかったというケースが多くありますよ。

―<後篇>では、そのDF50が引退していく「さよなら」の場面が出てきます。

奥井 キハ81も最後の活躍の場面が見られます。ギリギリの時に撮ったフィルムばかりです。

―<中篇>ではキハ81が紀伊半島をぐるっと回って阪和線に出入りしている映像が収録されていますが。

奥井 阪和線は「国鉄電気機関車篇」に出てくるEF52を撮りに行った時のものもあります。あの時はほんと良かったと思います。

―阪和線は国電区間ですが長距離列車は全部紀勢本線直通なので特急・急行は全部気動車という、そういう不思議な路線でした。煤で汚れた汚い車体のディーゼルが、電車の方も当時は汚かったですが、その中を闊歩しているという様が懐かしいですね。

奥井 阪和線、和歌山線は、もっと行くべきでした。行っても撮り損なうこともあるわけですから。家内連れて子ども連れて、それで撮っているんですから(笑)。せめてもう1日、それがなかなか行けなかったなぁ。でもまあ、これだけ写したらいいでしょう。

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奥井宗夫のむねのおく 2-9

「よみがえる総天然色の列車たち第2章9国鉄ディーゼル篇<後篇>」のむねのおく



―<後篇>ではキハ81の引退に続いてキハ82の「南紀」が登場するという時代になるんですが。

奥井 それすらもう見られないんですからね。

―でもキハ82が好きという人も。

奥井 多いですね。あれはひとつの原点なんでしょうね。私も「かもめ」なんかを見る事ができて良かったです。

―<前篇>のセノハチのやつですね。

奥井 北陸本線の12連も撮りました。

―「白鳥」ですね。食堂車が2両付ている。

奥井 豪華絢爛でした。

―キハ81の「くろしお」にしても10連で食堂車が付いて、7連になってもまだ食堂車があって。

奥井 良かったですよ。でも割に乗る機会がなかったな。でも乗ったら私は食堂車に行く方ですから。新幹線の2階建ての食堂車が懐かしい! ああいうのが本当の贅沢と言うんだろうなぁ。あれも良かったですねぇ。

―今や食堂車と言うと、定期列車で「北斗星」が唯一ですね。フィルムには今とは違う時代の在来線の特急が焼き付けられているわけですが、それが「南紀」になると食堂車がなくなって、スポンと萎んでしまったみたいになるんですが、それでも写っているものがキハ82で、しかも絵入りのヘッドマークのない時代です。またその一方でキハ40なんかも現れました。

奥井 キハ40の登場であきらめのような気持ちも湧いたんですが、記録は記録だと思って、撮れるものは全部撮りました。

―そういう意味では時代の移り変わりというものがしっかり焼き付けられているように思いました。

奥井 そうでうね。名松線も今思うとあれだけでも本当に撮っておいて良かったと思います。

―何とも味わいのある映像で、一段と自然も豊かで。水も奇麗ですし。しかしそこを走る車両がだんだんと首都圏色になっていくんですね。

奥井 そうそうそうそう、あれは寂しかったけど仕方ないですよ。

―しかし今思えば、今はなき車両が首都圏色になった姿も見られて、これはこれで貴重です。

奥井 好みもありますけどね。

―あと貨物の方でも大物車や長物車が。

奥井 もうちょっと真面目に撮るべきだったかなと思う所もあるんですが、あれだけ撮れたという事は幸せでしたね。

―大物車だけでも相当な分量のフィルムが残ってましたからね。よくよく見ていると微妙に形が違っていて、私も勉強不足でした。

奥井 こちらこそ。でも近年は四日市港に入るケースが多いですね。

―この間「近鉄プロファイル」の撮影で末広鉄橋に行ってきたんですが、よろしいですね!

奥井 あれいいですね! このごろは息子らがよく行くんですよ。

―あと<後篇>で面白かったのがF6形。あんなことするんですね。

奥井 わざわざ事前に置きに来て取り替えて帰るんです。あれは工場で検査を終えたやつを持って来たところです。

―あのタイプは南阿蘇鉄道でトロッコ列車に使っていたやつですね。近年門司港レトロ観光線の「潮風号」として活躍しています。

奥井 屋根が斜めになっているのは、あれで車両限界に合わせていますから。

―貨車に積まれて走って行く所を見たら、有蓋貨車とすごく揃っているんですね。車両限界に合わせてRが付けられているのがよくわかります。

奥井 あれをまともに撮っている人は少ないと思いますよ(笑)。

―あと<後篇>にはお召しも収録されています。

奥井 このごろは近鉄で行きますからね。

―お召しを1本走らせるためにどれだけ下準備をしているかというのがつぶさに撮られています。本番の映像はよくあっても、これ一体、前から何回撮られてるんですかと言うくらい、準備から撮影されていますね。

奥井 初期はもっと3軸車がごろごろおったんです。それを見るのが楽しみでね。でも末期になるほど単調になっていきました。

―お召しは言わば究極の臨時列車ですが、スロ62・スロフ62をはじめ数々の団体専用車両も出てきます。旧客で全車に緑の帯が入って、それで長い編成を連ねて壮観でした。

奥井 地方の線としては、あれだけ入って来てくれるのでありがたかったですね。やっぱりお伊勢様々でした(笑)。

―そして「ジョイフルトレイン」のはしりの時期になって、12系の改造車、14系の改造車、20系の改造車などが出てきました。

奥井 しょっちゅう入って来てましたからね。ありがたい事でした。

―最初に見た時は驚きませんでしたか。

奥井 噂はある程度聞いていましたし、音でもわかりました。判らなかったのは編成の長さだけです。

―それから日立の「ポンパ号」。私はキドカラーの飛行船が家の真上を飛んで行くのを見たことがあるんですが、あの頃ですよね。今となっては信じられないようなキャンペーンを展開していたんですね。

奥井 あれ良かったですね。

―あれは狙ってあそこの鉄橋(栃原−佐奈間の濁川橋梁)まで撮りに行かれてたんですか?

奥井 はい。あれは初めから「ポンパ」が来るというのが分ってましたから、あそこまで走りました。ここら辺で撮ると人、人、人で何とも仕方がないという気がしましたからね。

―当時から撮影をしに人が集まって来てたんですか?

奥井 集まっていました。やっぱりいい所は場所の取り合いですよ。尤もあとの方になると場所を空けてくれることもありましたが。

―「あ、奥井さん来たぞ!」と?

奥井 一番最後に行って「えっ!」となった時に「どうぞどうぞ」と空けてくれて恐縮したこともしょっちゅうでしたから。

―確かにDF50の最終日とか、ディーゼルの「くろしお」の最終日とか映像を見ていると結構集まっていますよね。

奥井 集まっています。

―あれはSLブームからファンが残って他へシフトして行ったんですか。

奥井 そうです。そして皆がカメラを買う時代になってきてましたからね。「私にも写せます」という時代でしたから。

―ジョイフルトレインの中でも私はあの美しい20系(ホリデーパル)が出てきますが、ちょっと後になると塗り替えられて変な色になっているんですけれど、これはオリジナルのままの頃で。

奥井 私のフィルム時代の最後の頃です。後にDVで撮った頃には色が変わっていました。

―そのように色々と変化していって、旧客に代って50系が登場したりする時代になりますね。

奥井 50系というと、みんなほんと嫌ってましたからね。撮りに行かなかったですよ。

―そうでしょうね。勿論これも収録されているのですが、今となったらですね、この50系も!

奥井 そうですね。撮っておいて良かったです。

―客車列車という存在そのものがなくなってきました。

奥井 そうですね。こんなに早くなくなるとは思わなかった。

―色々となくなったものが写っていますね。腕木式信号機にしろタブレットにしろ。

奥井 懐かしいと思います。さりとて当時は残せとも言えませんもん(笑)。

―結果的にこれらと前後して国鉄そのものがなくなっていくという、そういう時代でしたね。

奥井 いい時代に鉄道趣味をさせてもらったという事です!

                             <了>


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奥井宗夫のむねのおく 2-10

「よみがえる総天然色の列車たち第2章10ローカル私鉄・東日本篇」のむねのおく


奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。



―これまで国鉄の「電気機関車篇」「電車篇」「ディーゼル篇」や「西日本」「東日本」の私鉄篇が発売されたわけですが、今回いよいよ「ローカル私鉄編に突入ということになりました。奥井さんご自身としては「待ってました」という感じじゃないのかなという気がしているのですが。

奥井 はい。結局私は模型マニアでもあったので、EDクラスの電気機関車には凄く興味があったわけです。だからどうしてもそれがいっぱい動いている所は最高に面白かったんです。

―そうですね。逆に国鉄ではED級の機関車というのは飯田線とか、阪和線とか一部には居ましたけれど、どちらかと言うと少なかったわけで、中小私鉄がそういうものの天下だったわけですね。

奥井 やっぱり岳南にしても、上信にしても良かったねぇ。まさに「森の中の機関車」という感じですね。ポール・デルヴォー(註:鉄道を主題とした数多くの作品を残したベルギー出身の画家)にあるみたいにね。

―そうするとやはり奥井さんにとってメインは、電車でもなく、ディーゼルではなく、電気機関車ということですか。

奥井 やっぱり鉄道模型をやっていると、戦後はEBクラスの電気機関車から始まっているし。戦前もそうですね。旭屋さんですか、あそこが作った模型にしても全部EBクラスが多くて、それらにみんな親しんだわけですから。

―可哀想なのが今の若い世代のファンの人たちで、そういうのが現役で走る姿をじかに見るチャンスがほとんどなくて。

奥井 それは言えますね! 私たちの時代はどこへ行ってもそれが走っていて、しかも入換えでゾロゾロ動く所に集中して行ってましたから。行けただけでも僕は幸せだったと思います。

―その辺りのEB級・ED級の面白さって何ですか? 

奥井 やっぱり小回りが利くというのがものすごくいいのね。大抵前と後に電気機関車を付けたりして。どっちも機関車ですから前は前で仕事をする、後は後で引き込んで行く、そういうことを上手いことやっていくんです。ものすごくスムーズに仕事をはかどらせて、列車が走る間を縫ってものの見事に片付けて行くのね。若松市営軌道にしてもそうだから。あれはいいですよ!

―若松市営軌道はローカル私鉄篇ではなく路面電車篇の方に取ってありますから、これも楽しみにしていただきたいのですが、あれも凄くいい線ですね。

奥井 あれは素晴らしい! 良かったですよ。

―併用軌道で貨物を牽いてる路線ですよね。

奥井 商店街のど真ん中走ってますからね!

―フィルムに写っている場所探しが楽しみです。実はあそこは後々行ってみたいと思うくらい作る前から私も楽しみにしています。

奥井 僕も自分のフィルムを見ていてもう1回行きたいと思う所はいっぱいあるね。

―今回の作品で実際撮影に3回も行かれているのが江ノ電なんですが、それもまた行ってみたい所の……。

奥井 ひとつですねぇ。何遍行っても行きたいねぇ、あそこは。

―今回江ノ電の担当者の方が仮編集の映像をチェックしていて、「元東急の600形が重連で走っているのが写っている!」と教えてくれたんです。こちらはうっかりスルーしていたんですが、あれは車両が長いのでホームからはみ出すので、重連にはしていなかったんですね。

奥井 なるほどね。

―事故か故障で何かして回送されたのか判らないのですが、それが稲村ケ崎の駅に重連で入って来るんです。後の編成には乗務員も乗っていて。

奥井 広島でもそういうのがありますよ。事故で、連接の1040形だったかな。それが後を押されて来るシーンがワンカットあるんです。今度は逆にそれが戻って来んかいなと車庫で待っとって、1時間待ってパァやった(笑)。

―江ノ電の最初の撮影はポールの時代ですね。私がナレーションで書かせてもらったんですけど、昭和38年、湘南と言えば、それこそ加山雄三主演の東宝映画「若大将シリーズ」の時代。もっと私が嬉しかったのはこの年に「天国と地獄」が公開されているんですよね。奥井 なるほど!

―犯人に誘拐された子どもが開放された後、運転手であるお父さんと、監禁されていた場所を、江ノ電を頼りに辿って行くんですよね。「途中でこのトンネルは見たよ」とか。そもそも監禁場所からの電話越しに聞こえた電車の音が、ポールの音だということになって、東京周辺ではそれは江ノ電しかないという話で。

奥井 ポールと言うたら少ないもんね。僕らは三重交通の神都線でよく見てましたから別にどうこう思いませんでしたが。

―「ローカル私鉄・西日本篇」には叡電が出てきます。

奥井 ああ、なるほど。叡山電車ね。

―日本最後のポール電車で、京都市電とも平面交差もちゃんと撮られています。それも楽しみなんですけど。

奥井 路面電車篇も楽しみですね。

―江ノ電は地方鉄道なんでこちらのローカル私鉄篇に入ったんですけどね。ポールの時代を捉えたこの翌年にはなくなって、最初の撮影から12年後の昭和50年の所はすっかりパンタに替わっていましたね。しかし車両たちそのものの姿はまだ替わっていません。

奥井 そうですね。ヘッド周りを少しいらったぐらいで。

―その辺の時代時代の変遷というか、変わらない所とちょっとずつ変わる所とが3回に分けて克明に記録されていて、大変面白いです。この昭和50年の翌年にドラマでブレイクして全国的に知れ渡って、廃止かどうかって言っていたのが、ほんとにそれで回復して行ったらしいんですよね。それでそのあとのフィルムではドラマの舞台となった極楽寺駅に、観光客の姿が増えてきているのが写ってるんですよね。それで勢いがついて新型の電車を導入することが出来たという……。

奥井 上手いこと1000形登場の時に行くことが出来ました。

―最初のフィルムは海岸沿いの道路がガラガラだったのが、次の昭和50年はお正月ということもありますけど、ずっと渋滞していて、それをしり目に江ノ電が軽快に走って行きます。渋滞に関係なく走れるということで見直されたという経緯まで見て取れるようですね。それと停まっている車の前にしめ飾りが付いているんですよね。

奥井 あの頃はみんな付けてましたね。

―今はなくなりましたね。

奥井 針金でボディーに傷をつけますからね。それで皆嫌気さしてやめてしまったんです。

―最初やり始めた頃は?

奥井 あれがカッコいいんだということで。

―家とか大事なものに付けるという風習の延長ですね。

奥井 そうですね。私鉄で車内に今でも付けている会社はありますよ。

―次の箱根登山鉄道ですが、現在との一番大きな違いは、近年のことですが、箱根登山鉄道の列車が箱根湯本発着になって、小田原まで来なくなったことですよね。3線軌条もなくなって。でも湯本から先はそれほど雰囲気も変わっていなくて、一部の車両もそのままで。

奥井 そうですね。長野電鉄なんかは車両もがらっと変わりましたからね。

―このフィルムの箱根登山鉄道での見所はどこでしょうか。

奥井 まだ単行で走っている列車がある、という時代やろうな。もう今時あんなんないでしょう。

―塔ノ沢の駅なんかも短い短いですもんね。今はトンネルを拡げてホームを伸ばして、全く変わっています。

奥井 あそこら辺は早く撮らなきゃダメだという気がしてましたよね。いずれ変わって行くだろうという予感がしてましたから。

―次に登場する銚子電気鉄道で気になるのが、作品中では触れていないのですが、架線柱のビームがこう言う、カギ形と言うか、ハテナ形みたいになっていて、そこに架線がぶら下がっているんですね。

奥井 あれはポールだから仕方ないんでしょうね。

―ああ、ポール用にああいう形になっていた名残ですか。

奥井 はい。

―銚子電気鉄道には各社からの車両が色々集まっていて、出身を見てみると中日本篇で出て来る近江鉄道から来たものもあれば、後に国鉄となった鶴見臨港鉄道のものとか。

奥井 僕も説明を聞いて初めて、あ、あっち行ったんか、こっち行ったんかと。色塗り替えたら判りませんからね。

―各社とも色んな鉄道会社から貰って来た車両は多いんですけど、割と大手から来るようになっています。それなのに中小同士で行き来していますから。

奥井 結構あるのでびっくりしました。

―昭和56年に撮影されたこのフィルムの中で、「鉄道ファンの皆さん、この電気機関車と一緒に写真を撮りませんか」と車両基地に張り紙がしてるんですね。当時からここの会社はファンやお客さん向けの、そういう姿勢が伝統的にあるという所が垣間見えますね。

奥井 サービスしましたね。それにあそこは硬券だったから皆切符を買いますからね。この間も岳南鉄道で1回硬券を買ったんですよ。懐かしくって懐かしくって。

―ああ、まだ硬券がありましたか。

奥井 あります、あそこは。しかもセットで売ってるんですよ。良かったですよ!


                   ◆


―次の関東鉄道ですが、あそこは雑多な車両が多く集まっていて、相当なディーゼル王国というか。

奥井 北海道からも沢山来ているでしょ。限られた時間の中で何を撮っていいか解らないんですよ。苦労しました。

―実際に稼働する数の割りに構内に居る車両の数が多すぎるように思えましたが、状態が悪かったからでしょうか。

奥井 部品のええとこ取りするつもりやったと思うんです。それにしても、よくいとも簡単に機械式をトルコンに改造したもんです。どこの会社の工場でもそういう技術はありましたね。

―私が驚いたのは後の東急東横線である東横電鉄のキハ1形が居るというところですね。

奥井 あれは感激しましたね。

―残念ながら動いている姿ではないのですが、しかしあの姿です。伝説的な車両ですからね。

奥井 でも何としても撮りたかったのがあのディーゼル機関車です。

―DD501ですね。

奥井 そうそう、あれが目玉ですね。今時ロッドでああいう風に動くのなんて少ないですもん。

―しかもそれが国鉄から乗入れして来た12系のあの長い編成を牽くんですからね。

奥井 殊にあいつは車輪径が小さいから、派手に動いた動いた。

―そして奥井さんとしては一番気になったのが、電気機関車がゴロゴロ居た上信電鉄ということですね。

奥井 はい。あれは良かったですねぇ。

―デキ1形とかがバリバリ貨物を牽いて本線を走っているわけですからね、下仁田まで。

奥井 いい所ですねぇ。(青果業の)僕らとしてはこんにゃくの産地ということで当然興味があるのですが、こんにゃくどころの話じゃない(笑)。

―ED31形が動いている映像もあんまりないんじゃないですか。

奥井 多分他の方はあまり撮ってないと思います。

―それと、割に早い時期に進んだ電車が出て来て、後に消えていったオリジナルの車両がありますね。

奥井 そうなると長野電鉄が一番目を惹くんじゃないかな。特急用こそ名鉄と同じような規格で造っていますけど、あれでも大したもんですよ。やっぱりポリシーがしっかりしてるのかな。

―そういう意味では秩父鉄道もそうですよね。

奥井 あの頃は電気機関車をゾロゾロ入れてた時期ですから。バラエティー豊かですよね。

―阪和電気鉄道出身のED38形なんかがいますけどあれは古株の方ですね。                          

奥井 他にもEE(イングリッシュ・エレクトリック社)のデキ1形とか、スターが揃ってましたね。

―その後続々と自社機を入れたわけですが、それらの両方が活躍している時代ですね。それプラス電車も300系とか500系とかですね。東武の熊谷線まで出て来たりしますが、あれの映像も今回私は初めて見ました。

奥井 私も動く映像を見たいと思っていましたが、あそこに写っているのを忘れていました。

―尚かつ今はやっていない東武からの直通列車や、300系のアルミの中間車・サハ352も出てきて、見所が色々あって面白かったです。

奥井 あそこで散々撮って、西武に乗って帰ってきたんです。

―関東私鉄篇に登場した分ですね。凄く充実した行程だったわけですね。

奥井 1日ですね。鹿児島行った時(鹿児島交通)も1日で無茶苦茶撮って来たんですよ。

―その次に松本電気鉄道が出て来るわけですが、これは案外フィルムが短いですね。

奥井 時間がなかったのと、車両そのものが単調でしたからね。

―1形式だけでしたからね。

奥井 新村の駅へ撮影の許可を取りに行ったら、ハフ1ですか、2軸単車があったやつを、「車庫から押して出したら写真撮らしたるわ」と言われたけど、自分1人では動かしようがなかったんです。

―当時のフィルムの感度からすれば、車庫内では撮影出来なかったわけですね。そして次の上田交通は、丸窓が全盛期の頃で。

奥井 逆にあの電車しか動いてなかったから、他の車両はほとんど撮れないんですよ。それでしゃあないから、NHKさんを(笑)。

―NHKのジープが並走して奥井さんが乗った列車を撮影しているんですよね。カメラマンが命綱なしで屋根に乗って。今だったらあれ、絶対ダメですよ。

奥井 本当は上田丸子線とか行きたかったんですけど、駄目でした。あそこはもっと行きたい所でしたね。

―しかし長野電鉄の方は力が入っていましたね。

奥井 カラーフィルムでしょ。やっぱり色の奇麗な所中心に行っちゃうんですよ。上田の青と長野赤と比べたらどうしても長野の方へ行っちゃう。しかも電気機関車は青で、その対比が良かったでしょ。

―定山渓鉄道から来た機関車がいるということにビックリしたんですけど。

奥井 あれは良かったですよ。後で越後(越後交通長岡線)に行っちゃいましたけど。

―私は長岡線の存在そのものを知りませんでした。

奥井 僕は電気機関車について行きたかった(笑)。

―あと長野電鉄と言えば2000系。名鉄の5000系とほとんど同じ丸こいやつですね。

奥井 そうなんです。あれも日車の味ですね。よく出ていて良かったです。

―つい近年まで現役で走っていて、転換クロスシートで、乗ったら「特急料金200円いただきます」って言われ、ああ、料金取るんやと思いました。

奥井 僕は硬券の切符が欲しくて乗りました。

―言っても、2000系は昭和32年製という、あの時代の素晴らしい車両でしたが、その後OSカーも登場します。

奥井 OSカーは良かった。地味やけどな。

―ローレル賞も取ったのに、早くなくなりましたね。

奥井 あれにはもうビックリしましたね。もっと長生きしてほしかったんですが、時代がそうなってしまったのですかね。いい車でしたよ。

                                 <了>


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奥井宗夫のむねのおく 2-11


「よみがえる総天然色の列車たち第2章11ローカル私鉄・中日本篇」のむねのおく



奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。




―まずは静岡鉄道の駿遠線です。話には聞いていましたが、こうやってフィルムをじっくり観ることがありませんでしたが、この路線の奥深さと言うか、つくづく凄いなと思うのですが、如何ですか?

奥井 あれはほんとに凄かったですね。ナローというと、我々の感覚ではそう長距離の路線とは考えられなかったのですが、延々と乗っても乗っても……。

64.6kmというと、概ね伊勢中川から名古屋が66kmですからね。

奥井 4時間くらいかかったのかな。途中、休憩がありますからね。5分くらいあるんですよ。2、3回。

―トイレ休憩みたいなもんですね。

奥井 車内にトイレがないから。でも全線通してのお客さんはないからね。私ぐらいのもんですよ。

―この路線は昭和39年に間の区間から廃止になりましたが、それより以前の昭和37年に行かれているんですけれど、東海道新幹線と交差する所で、それが工事しているのがチラッと出てきますね。

奥井 駿遠と秋葉線に行って、帰りに静岡市内線のサヨナラのシーンを撮って帰ってきた時ですね。

―観ていると途中の新横須賀駅の所で、切り離した後ろの車両を人力で押して入換えをしているんですね。松本電鉄の車庫で、1人で出せたら出していいよ、という話がありましたが、これを観ると数人掛かりで押していて。豆相人車鉄道とかならもっと小さい車両でしたけど、軽便といえども大きいですからね。

奥井 しかし木造車ですから割に軽いんですよ。だから2人か3人いれば楽に押せるんですよ。

―それでも入換えは大変だから、一度構内を出た所で停めて切り離して、あとは押して戻すだけにしているということですね。

奥井 ええ。

―橋梁はほとんど木組みで、特に大井川の橋梁なんかは木造丸出しで、凄いですね。

奥井 良かったですよ。

―あれの架け替えの費用が出ないので廃止になったそうですが。

奥井 もつかもたんかというぐらい揺れましたからね。ワァッと思ったんですよ、乗って。ちょっとこれいいんかな、と思うぐらい派手な音がしましたね(笑)。

―相当ガタガタだったんですね。今の鉄道とは全く別の鉄道という感じですね。

奥井 ティンバートレッスルですね(笑)。

―アメリカ開拓時代と変わらないという……。一方の静岡清水線と好対照でしたね。

奥井 もう2、3年早く行くと良かったやろうなぁ。1000系ができる前に。しかしもうちょっと古いのも走ってましたので我慢はできますけど。

―東海道本線と新幹線を跨ぎ越す場所があるんですが、そこを外さずにちゃんと撮っておられますね。当然下を走るのが、今は0系と呼ばれているやつで、いいですね。

奥井 はい。

―次の遠州鉄道ですが、今ならまっすぐ北を向いて行くんですが、話には聞いていましたが、高架化以前の新浜松から東に向いて出発するんですね。何を思ってあっち向いて線路を敷いたかとも思うんですが、あれはやはり国鉄との貨物の受け渡しの関係ですか。

奥井 そうだと思いますよ。

―元々新浜松駅の開業の方が後ですからね。結果的にスイッチバックになったと。

奥井 はい。

―私はいつも、フィルムがどこで撮影されたかという検証作業をするんですが、この付近は昔の航空写真と見比べてもまあ、街自体の形が全く違っています。東海道本線は、高架化の時に新幹線に貼り付くように移転したのですが、当時は走る場所も違うし、東海道本線の浜松駅の向かいに新浜松駅があったのが、その場所は、今は浜松駅の遥かむこう。そればかりか遠州馬込駅に至るまでの区間とその北側の500m四方ほどで区画整理が行われて、全部地図が変わっています。貨物駅のあった辺りまで何も同じものがないという感じになっていて、びっくりしますね。辛うじて遠鉄浜松駅から先の所で廃線跡のカーブが残るくらいで。

奥井 (趣味で、踏破のために)今、東海道を歩いても、あの辺がややこしくてややこしくって、困ったですよ。

―一方で車両は案外当時のものが今も走っていますね。今は12分間隔ですが当時は11分間隔で運転していました。

奥井 地域の人にとっては便利な鉄道だと思いましたね。このあいだ静岡鉄道では時間延長をやりましたね。最終列車を遅くして、新幹線からのお客を受ける。あれなんかも大したものやと思いますね。両社は同じ日に撮影に行って、赤と銀の車両の色の対比を楽しみました。


   ◆    ◆    ◆


―同じ静岡の岳南鉄道は如何でしたか?

奥井 良かったですね! あれはもう最高でした。3両編成の列車が、のちに青ガエルの1両編成になったんですよね。あれは寂しくなりましたね。それでも動いていればありがたいと思いましたが。

―その青ガエルももう居てませんからね。しかしここも観ていますと、元小田急電鉄のデハ1600形や、元上田温泉電軌のデロ300形など奥井さんのお好きなED級の電機も。比奈駅では入換えの様子をつぶさに撮られていましたね。

―はい、電車が行ってしまうと次の電車が来るまでの時間が何とも仕方がなくて、つい撮り過ぎました。でもその時は嬉しいですからね。作業を見ていても飽きません。

―しかも早いですよね。停まったと思ったら次の瞬間にはポイントを切り替えて、もうバックしている。

奥井 機関士の勘がよっぽどいいんでしょうね。JRではとても考えられないようなスピーディーな転換で。それと良かったと言えば、吉原駅の構内で食べた鯵の天ぷら丼が美味しかったですよ。自社の食堂があったんです。場所は変わったけど今もやってるそうですよ。もう1回行きたいです。吉原には食べに行きたい所がいっぱいありますからね。「つけナポリタン」とか何とか。

―ミートソースに浸けて食べるんですかね。

奥井 らしいですよ。有名らしいです。この間東海道を歩いた時に行こうと思ったんです。でもつい駅で切符買って騒いでいたら時間がなくなって……。また行きたい所ですね。

―しかし去年、岳南鉄道の貨物が廃止になってしまいましたね。貨物で支えていた鉄道だけに……。

奥井 あとがちょっと気になりますね。


   ◆    ◆    ◆


―その親会社で、今回も色々と取りまとめてやってくださっている富士急ですが、当時から国鉄の車両がバンバン入って凄いなという印象です。165系に115系、それだけでもいいのですが、いわゆる旧国電が元気なんですよね。その辺りが狙いで行かれたのですか?

奥井 そうなんです。7000形のために行ったんですから。まだ動いてる時で良かったです。東京のファンの方が見ても喜ばれるフィルムになっていると思いますよ。

―一方で5000形が出てきた頃ですね。

奥井 あれが出てきたんで危ないという気がしたんで、何としてもと思って行ったんです。

―3100形も愛嬌があって、風情のあるいい形の車両ですね。観光目的も満たす車内のセミクロスシートの様子もよく撮られていました。それとモニ100形が出てきますね。赤く塗られた側面の。奥井 面白いですね。

―あれは当時広告スペースに使っていたそうなんですが、丁度契約期間が終わって取りあえず急いで塗ったという感じなんでしょうか。

奥井 そうでしょうね。あのモニ100が貨物を牽いたりもしたんですよ。


   ◆    ◆    ◆


―続いて豊橋鉄道ですが、ここもまた……。

奥井 バラエティー豊かですよ。電機もおりましたからね。

―経歴もとても書き切れないくらい様々で。

奥井 自社のものは1両しかなかったが、名古屋鉄道からのお古がいっぱい居るから、それだけに面白い所がありました。

―電車の方ものちに名鉄の車両に統一されて、その後それも全部入れ替わって、今は全部元東急の車両になっていますね。

奥井 もう今さら行く気はしないですね(笑)。

―老津駅のシーンが面白いですね。国鉄と違って側線が少ない中で、旅客列車の交換もしないといけないし、貨物列車の待避もしないといけないという……。

奥井 みんな努力してやってたんですね。

―そしていかにも渥美半島という風景の場所で走りを撮られていますね。事前の準備で撮影場所をしっかり決めてから行かれるんですか。

奥井 いえいえ、行き当たりばったりです(笑)。実は5万分の1の地図でおおよそは掴んで行きますが。―ああ、やはりそうですよね。

奥井 以前山登りをやっていましたから5万分の1はお手の物です。大体の勘で、ここら辺の直線で何時頃に行ったら大体お日さんはこっちから来るな、という感じでは行きますけどね。地図は私の趣味のひとつですからね。駅に着いたらあとはそこまで一生懸命歩くんです。

―見ていると、撮影しながら大体ひと駅歩いていますよね。パターンとしては。

奥井 大体何キロとか掴んでいますから。

―こちらも、どこで撮影したかというのが、奥井さんの行動パターンを想像しているとある程度目星がつくんです。あとはそれを裏付けていくという、現在の写真と共通する点はないかとか、グーグルアースやグーグルマップで照合したりとかという作業になるのですが、まずは奥井さんの行動パターンを読み切るということでして、これがまた面白いんですよね。お好きな方にはこの作業手伝ってもらえたらきっと面白いと思うんですけどね。


   ◆    ◆    ◆


―次に出てくるのが、奥井さんの地元である三重交通の松阪線です。凸型の電機が客車を引っ張っていますね。

奥井 撮影する2,3年前までは凸型電機も上半分がクリーム色のツートンカラーだったんです。

―ということは、客車と色が揃っていたんですか。その客車ですが、サニ421形とか……。

奥井 サニ421形とサニ411形は北勢線のお古だったんです。サニ401形というのが中勢鉄道のガソリンカーだった車両で、1両はそのまま松阪に来て、もう1両は近鉄の法隆寺線を経て、松阪に来ています。

―あの法隆寺線ですか。平端から法隆寺まで走っていた……。

奥井 あれこそ、乗りたかったんですけどねぇ。

(編集注:法隆寺線は、昭和202月運転休止、昭和274月に廃止されている)

―その客車が電機に牽かれたり、電車に牽かれたりして。デ61ですか、その後ろにくっついたり……。

奥井 それと11往復は混合列車で、ワが1両最後についたり、稀にはトムがついたりして。車両数は少ないけど、結構バラエティがありましたね。

―国鉄松阪駅の改築工事も撮っておられますね。

奥井 記録ということで。

―三重交通松阪線の松阪駅も出てきますが、バックが少しずつ変わっていて……。

奥井 三重交通松阪駅のバックに、国鉄天王寺管理局の松阪の管理部が、我々は松管と呼んでいましたが、ありましたので、バックは大きかったですよ。

―その松管が三重交通のバックに立っていた。

奥井 いえ、松管は今の第三銀行が立っている場所にありました。

―じゃ、松管は関係なくて、バックには今の松阪駅が立っているんですね。それも少しずつ変わっていって。

―(松阪線の映像を見て)大きな駅と思った駅が、途中の茶与町駅ですね。

奥井 地主さんが(松電に)土地を贈って、駅ができたんですよ。その地主さんがお茶屋さんだったので、そのお店の名をそのままとって茶与町駅と名付けられた。

―(松阪駅の)駅前広場には現役のボンネットバスも映っていて時代の移り変わりがあって、最後に(三重交通松阪線松阪駅)の解体清祓いの儀式が出てきます。

奥井 その日は、あまり撮って(いる人は)いないですね。


   ◆    ◆    ◆


―それから同じ三重県の三岐鉄道も出てきます。こちらの見所はどこでしょうか。

奥井 やっぱり、標準型の電機ですかね。貨車も標準型になっていて、それだけ貨物(石灰石やセメント)が多いということで、あれが動くと、藤原岳の山容も変わってくる(笑)。

―貨物輸送が盛んですから、他の鉄道よりも一つ格上の鉄道だったんでしょうか。

奥井 山を切り崩している一方で、山の保全も大切に行っている、しっかりした会社だと思います。

―旅客輸送の電車の方ですが、今は近鉄富田に発着していますが、撮影当時は国鉄の富田駅にも発着していたんですね。

奥井 昔はディーゼルカーが走っていたんです。あのころは、たしか国鉄四日市まで乗り入れしていました。ノッチを入れたな、と思ったらすぐにニュートラルに戻してしまって、あとは惰行で走っていましたね。

―なるほど。そして国鉄富田の方が本線なのに、近鉄と国鉄の列車本数の比率から見て、近鉄富田に乗入れる本数を増やして国鉄富田に行くのをやめてしまったんですね。しかし、近鉄線の高架の下に富田西口の駅があって、そこに停車する電車をちゃんと撮っておられますね。それから、今は西武系の電車が走っていますが、当初は豊川鉄道の電車が入っていたんですね。

奥井 まとまって休車になっていたのを持ってきたんじゃないですかね。1形式1両のような車両も多くありましたし。

―そのあと、これも今はないのですが、クハ210形とかいわゆる自社車両のモハ120形とかが出て来た……。

奥井 あれはいい車両でしたね。モハ120形はほんとによかったです。

―これはのちに琴電に行ったんですね。次回(「ローカル私鉄篇後篇」)にタイミング的に出てくるかどうか楽しみですが、この頃は今と違って、中小私鉄同士で車両のやり取りがあったんですね。

奥井 そういう時代やったんですね。


   ◆    ◆    ◆


―さて、次は近江鉄道なんですが、何回も足を運ばれていますね。

奥井 松阪の著名人、本居宣長の一族が近江日野の出身であり、また(松坂を開いた蒲生氏郷が)近江から商売人を引き連れてきています。今でも多賀講などで多賀大社へお参りするなど、近江とはいろんな行き来があります。そんな関係で何度も訪れています。

―これは1980年代でしょうか、フィルムを見ていますと、京急があったり小田急があったり……。

奥井 あの頃はいろんな会社の車両が入っていて、バラエティに富んでいましたね。

―武蔵野鉄道(これは西武ですが)や伊那電もありますし、面白いのは京急の車両が西武カラーを纏って走っているんですね。

奥井 最初に行った頃は、蒸気動車を改造したハニが走っていましたね。

―工藤式の蒸気動車ですか。

奥井 台車は電車のものに履き替えていましたが、前に(機関室の)ドアがついていまして、まるっきり蒸気動車の姿でしたね。

―それと電気機関車がすごいですね。

奥井 (撮影のために)駅で待っていると、次から次へと来るんですよ。しかも、あれ!違う、形式が違う!(笑)

―その中でも、入換えに使用されていたED31が変わった顔をしていて、何で窓が小さいのでしょうか。

奥井 見当もつきませんね(笑)。しかし、結構スピードを出して走っていたんでしょうな。

―しかし、戦時構造でもないし、防弾用に窓を小さくした訳でもなさそうだし……。

奥井 でもないですね。ガラスが貴重だからという理由でもあんなに小さくならないですし……。

―不思議な顔をした電気機関車でした。貨物はどこでも(当時)盛んでしたが、郵便荷物車が元気で走っている時代でもあって、しかも近江鉄道では近年まで走っていたんですね。

奥井 車両を改造して走らせるほど、郵便の取扱量が多かったのでしょう。近江商人や日野商人たちの多くは近江鉄道の沿線の出身です

から、それだけ多くの郵便物が流通していたからだと思います。

―(近江商人たちの出身地は)本来、(中山道などの)街道筋にあるのに、国鉄が通らなかった所ですね。

奥井 そのため、近江の豪商たちが自分たちで鉄道を造ったので、開通時期も割と早かったです。

―それで、郵便荷物事業の必要性も高かった。

奥井 他の鉄道よりは、はるかに高かったと思います。

―需要も高かったので、長続きしたのでしょうね。かつて、国鉄が通らなかったと言って造られた鉄道の多くが長続きしませんでしたから。

奥井 やはり、中山道の影響も大きかったのだと思います。街道筋にあるので、需要が多かったのでしょう。格が一つ上ですね。

―なるほど。街道の影響があるという視点には気付きませんでした。奥井さんは街道にも造詣が深いですからね。

奥井 街道を歩いていると、面白いですよ。

―あれだけ古い車両などを保存している、古いものを大事にする近江鉄道の気風というものは今も残されているんですね。

奥井 あれは大したもんだと思います。もうちょっと儲かっててもいいと思うのですが、なかなかそうはいかないようで。あの、日野駅の駅前にはあまり家がないんです。1キロほど離れたところに家が密集している。不便なところです。

―八日市から貴生川にかけては、確かに何もないですね。結局、八日市から貴生川に線路を伸ばすとき、線形の関係でそこ(日野駅周辺)を通らざるを得なかったのでしょうか。

奥井 そうでしょうね。ですから、線路を敷くのは難しかったと思いますよ。


   ◆    ◆    ◆


―さて、富山地鉄が最後になりましたが、この時代はいかがですか。

奥井 ちょうど名鉄のお古が入線したところで、色のバラエティが出来ましたので見に行こうかと。もちろん名鉄のキハ(北アルプス)も入っていましたので、「それっ!」と撮りに行きました。山にはよく行っていましたので、昔からなじみのある私鉄でした。

―名鉄の車両と言いますと、モハ14710形とかですね。

奥井 それと、凸型の電気機関車でいいのが一つあったんです。それを撮りたかったんです。

―ほほう。

奥井 クリーム色と灰色の変な色でしたけど、電気機関車そのものはよかったんです。それを撮ろうと思っていたんですが、撮れなかった。

―名鉄の北アルプスと交換しているのは、モハ14710形、元名鉄のモ3800形で、名鉄色ではなく紺色と白帯に変わっていますね。シャキッとした色になっている。

奥井 だから、ちょっと気がそられたんです。

―その一方で、丁度モハ14760形がデビューしたころです。今に至る、富山地鉄オリジナルの顔のような電車ですが、いろいろ変わった電車も多いですね。

奥井 山登りをしていたころは、古い電車ばっかりやったんです。それが、ちょっとずつ変わっていましたんで、山に登らんと電車を撮りに行った。昔、人があまり行かなかったころに剣岳に登ったこともあります。

―剣岳ですか! どこから登ったんですか。

奥井 立山砂防ダムの工事用トロッコを横に眺めながら、美女平を経て、歩いて登って行きました。

―下から歩いて登ったのですか。

奥井 高校の頃に、「連れてったるから来い」と言われて行きまして、登山というものを教えてもらいました。

―初めて登った山が剣岳ですか。

奥井 そうです。手取り足取り、山の登り方を教えてもらいました。で、登った後は宇奈月の方へ下りまして、トロッコが乗るくらいの大きなエレベータで200mほど下に降りました。

―トロッコが載るようなエレベータですか!?

奥井 トロッコを載せて上に上がって、上部のトンネルで荷物を運んでいたんです。途中で高熱地帯があるので鉄のトンネルになっていました。

―今もあるんでしょうか。

奥井 あると思いますよ。荷物はもう運んでいないと思いますが。人用のエレベータもありますが、トロッコが載る大きいものは5分ぐらいかけて昇降していました。そういうルートを通って、宇奈月まで降りてきました。

(編集注:黒部第四ダムへの物資輸送用の関西電力黒部専用鉄道、いわゆる上部軌道と下部軌道、現在の黒部峡谷鉄道のことで、欅平にトロッコを直通させるための専用エレベータがある。上部軌道の途中にある高熱地帯は、コンクリートで覆われて冷却水を通して温度が下げられている。この高熱地帯のその周辺に付着する硫黄のために、蓄電池機関車によって運行されている。現在も黒部第四ダム物資輸送のために運行中。)

―それで、富山地鉄の撮影は後の方になったんですね。名鉄のキハ8000も国鉄特急色になっていますし。

奥井 (山に通っていたので)位置関係は分かっているんですが、なかなか撮りに行けなかった。で、橋を渡る電車をちょいちょい撮っていった。

―常願寺川の鉄橋と言えば、富山地鉄沿線で一番の、荒々しい川で見ごたえのあるところです。さすが、狙うところは狙いに行っておられるな、と。

奥井 だから、(常願寺川の)古いクラシックな看板を撮ってある(笑)。もうちょっと丁寧に撮りたかったけれど、如何せん相手が大きすぎた(笑)。

―しかし、富山地鉄の車両もバラエティ豊かで面白くて……。

奥井 面白いでしょ。あれだけ(車両の種類が)ありますから。

―今となっては、富山駅に新幹線の駅構造物も出来てきて大きく変わってきていますので、貴重な映像です。貴重といえば、射水線も撮っておられますね。

奥井 僕が行く直前まで、(デハ5010形が)3重連で走っていたんです。行ったときはもう重連しか走っていなくて、がっかりしたんですが、それでも撮っておかなくては、と撮ったんです。

―3重連が走っていたころと言えば、高岡市内の万葉線とまだ繋がっていた時ですね。富山新港整備のために路線が分断されてしまいましたが、もし今も繋がっていれば、福井鉄道と同じように国鉄のライバル路線として活躍していただろうな、と想像できます。

奥井 駅でも大きくてしっかりしていたんですよ。最盛期は素晴らしかったと思います。

―編集していて、射水線は今回のラストシーンにふさわしいと思っていましたが……。

奥井 うまいこと(富山市内線と射水線の)乗入れ線も撮っていたでしょ。あれは、もう誰も知らないですよ。

―以前、北陸本線と高山線を撮り歩いていて、そこも通ったのですが全然気づきませんでした。あの場所を電車が通っていたなんて、感慨深いものがあります。

奥井 貴重なワンカットやと思います。


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ナレーター 羽川英樹

2013年7月21日発売の「よみがえる総天然色の列車たち第2章15近鉄篇掘廚茲蝓▲淵譟璽拭爾鳳川英樹さんが登板!




私の鉄道の原点は、小4の時に転校先で登校に利用した京阪・宇治線です。

毎日 運転席のガラスに顔をくっつけながら運転の様子を見ていました。

以後「乗り鉄」として、その趣味を徐々にひろげていきました。

今でも担当のラジオ番組2本で鉄道を熱く語っています。また「鉄漫・関西ぶらり列車旅」(扶桑社・現在は電子書籍で扱い中)を出版したり、鉄道旅の魅力を講演したりと仕事と趣味がかなり混濁しています。

そんな私がこのたび 子守アナの後を受け継いで シリーズのナレーションを担当させてもらうことになりました。

自分自身も楽しみながら、かつわかりやすく味わいのある語りができたらと思っています。

どうぞ宜しくお願いいたします。




フリーアナウンサー 羽川英樹 プロフィール



1953年 京都市生まれ

  同志社大学 文学部心理学専攻 卒業

1977年 読売テレビにアナウンサーとして入社

 「11PM」「2時のワイドショー」「24時間テレビ」など 全国ネット番組の

司会を担当。

1993年 39歳でフリーに。

 以後 関西を中心にテレビ・ラジオ・講演・司会などで活躍。

現在は 

 ラジオ関西「羽川英樹ハッスル!」(水曜・木曜 9〜11:45) 

 サンテレビ「日曜さわやかトーク」

KBS京都ラジオ「羽川英樹の京・奈良・近江*見つけ旅」

びわ湖放送「きらりん滋賀フライデー」

 ZTV「羽川英樹のぷらっと近江ひとり旅」

などに出演中。

また 言葉・コミュニケーション・接客サービスなどの講演会でも、全国を駆け回る。 

趣味は鉄道。著書には「鉄漫 関西ぶらり列車旅」(扶桑社)がある。

奥井宗夫のむねのおく 2-12

「よみがえる総天然色の列車たち第2章12ローカル私鉄・西日本篇」のむねのおく(その1)





奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。




―最初は京福電鉄です。当時は嵐電も叡電も京福電鉄でしたが、嵐電はあとの「路面電車篇」で紹介しますので、ここでは叡電を取り上げています。

奥井 紅葉を見に行こうと鞍馬まで行って、撮れるものは撮っておこうとひょっと行ってひょっと撮ったという感じですね。

―本当ですか、それ(笑)。

奥井 あの時は鞍馬寺の本堂まで登って行ってるから、物見遊山ですね。

―帰りの映像がないので、そんな気もします(笑)。

奥井 山に登るのも好きだからちゃんと(本堂まで)登って行って、まあ鉄道ばっかりではなくちゃんと観光もしているよ、ということです(笑)。

―当時の叡電と言えば、ポール集電が有名でしたが……。

奥井 ポール集電は面白い、というより三重交通で馴染んでいましたんで興味がありました。

―撮影された昭和46年の時点では、ポールで走っていた鉄道というと……。

奥井 叡電と……、ぐらいかな。

―叡電もこの数年後にはパンタグラフに変わってしまいますが、(撮影当時は)昭和53年に廃止になった京都市電がまだ通っており、平面交差するところがありましたので……。

奥井 平面交差があったので、ポール集電でなければならんかったのかな。

―平面交差の架線構造は複雑ですが、ポール集電ならその構造が割と簡単にできたということでしょうか。

奥井 そうでしょうね。

―戦後生まれの車両の中でカルダン駆動のデオ300形なども、丸みを帯びた車体とポールの組み合わせという面白さがありました。

奥井 うん、なるほど、そういうとこもあるわな。

―叡電も変わっていないようで変わっているところもありまして、今や観光路線ですからね。

奥井 あれから後も、暇があれば行ったことがあると思うんですが、ビデオテープになってからで、もうあまり見たこともないから。

―ビデオテープになってからはやっぱり撮りっ放しで、あまり見たことがない……。

奥井 見てる暇がない。撮る量が多くなって。

―(カメラが)まわりっ放しになりますからね。

奥井 ダブルエイトの時代からスーパーエイトになって、スーパーエイトでも途中でフィルムが違ってきてるし、次にサウンド付きになって、ビデオでも8ミリで撮って、次にDVになって、ホント、いろんな機材を体験させてもらってきてます。今また、カメラがほしいの!(笑) 今度出るG20かな、変えてみようかな、やめておこうかな、今思案してるの(笑)。

―なるほど、ぜひ、やってみてください(笑)。

奥井 やりたいことはいっぱいあるんよ。パソコンもやってみたいな、という気も起るし。

―それはもう、ぜひ、やってください!おすすめしますよ。

奥井 しかし、いちいち息子に相談せな仕方ないから。あいつの言いなりだわ(笑)。

―息子さんも同じ趣味で、何でも相談できてよかったですね。

奥井 もう何でも、あっちに頼まな仕方ない。

―今持ってらしたカメラはA1でしたね。

奥井 これちょっと重たい。

―これは僕も使ったことがありますが、あまり軽すぎてもあきませんからね。

奥井 これでプリレックがついてるんだね。素晴らしいよ、このG20は。プリレックがついてるのを見て、あー欲しい!(笑)

―列車を撮るときに、あー、ていうのが無いから(笑)。ただ、シャッターを押すとき、優しく押さないとカメラが動くんですけどね(笑)。

奥井 そこもちゃんとわかってるんだけど、欲しいね(笑)。

―この前の話では、どこでどう撮ろうかと5万分の1の地図を見て当たりをつけたら、もう半分勝利したようなもので、あと半分行き当たりばったり、と謙遜しておられましたが。

奥井 だけど、ほとんど変わらないよ、地図も(笑)。鉄道地図を当てにして、撮ってる時もあるし。いちいち地図を取り寄せるほどのこともないんだから(笑)。

―叡電も片手間に撮ったと言っておられますが、結構楽しませていただきました。

           

―そして、次に出てくるのが野上電鉄です。

奥井 丁度、雨の日になってしもて、あの線、右往左往して何んとも仕方がなかったな。そう言えば、(編集された映像に)紀州鉄道は出てこなかったな。

―紀州鉄道のフィルムは見たことがないですね。

奥井 そうか。それじゃ、(未編集フィルムの)この中かな。

―撮っておられるのですか?

奥井 撮ってると思う。それか、Hi8に替わってからか。

―あー、なるほど。

奥井 実際、ホントに(いろいろなカメラを)使っているもの。エルモの8Eでしょ、あー、8Aだ。それからキヤノンのBEEE、ここまでがダブル8。そのあと、ニコンの2台だろ。それから(キヤノンの)1014。そのあと、ソニーのビデオ(Hi8)に。

―そうすると、8ミリ(カメラ)では5台ですね。

奥井 8ミリでは5台だな。それからソニーの1000を買って……、900を買うんだわ。これがDVだろ。その前に700も使うてたな。

―ビデオカメラも併せて、9台目、ていうことですね。

奥井 10台目やね。

―10台!すごいですね。やっぱりカメラが変わると、モチベーションも上がるから、次から次へと写して……。

奥井 まあね。それだけ友達が多かったから、よかったんだわ。8ミリのグループと、鉄道は松阪レールクラブで、ファイト、ファイトで突っ走りましたね。

―野上の時は、どのカメラだったんですか。1972年の撮影になっていますが。

奥井 野上の時は、ニコンの古い方やと思うな。5倍の。

―ニコンの5倍、古い方。新しい方が8倍ズームなんですね。

奥井 8倍ズームです。そのあと10倍のキヤノンに替えるわけ。

―なかなか天気が悪くて残念だったのですが、かなり暗い調子になっています。

奥井 全線を通して撮っているので、そういう感じが出ていると思います。

―それが、その後の野上電鉄の行く末を思わせるような……。

奥井 あの日はあれ以上動きようがなかったけれど、一応終点まで乗っています。

―ここで登場するのが、箕面有馬の1形ですね。

奥井 はい。あれもまだ動いていました。

―あれは狙って撮られたんですか。

奥井 車両は見たら大体わかるので、丁度来たのでそれっ、と撮りました。

―後年のオレンジっぽいツートンカラーのビデオは見たことがありますが、この当時のダークグリーンと黄色の帯の阪急1形というのは初めてです。

奥井 阪神の小型車が好きで撮りに行って、高松琴平電鉄も早めに取りに行きました。

―おっしゃるようにそのあと阪神の小型車がぞろぞろ登場して、5形式登場するうちの4形式が元阪神の車両です。

奥井 まだ土佐電鉄もありますし。

―この当時、阪神の車両があちこちに行っていますね。

奥井 意外と早く放出しましたね。

―阪神の大型車化が進んだので、出物があった、と。

奥井 そうなんでしょうね。早く処分したんでしょうね。

―このあたりにつきましては、あとでまた触れていきたいと思いますが、野上電鉄の映像は少ないですね。

奥井 あれだけの時間であれだけしか動いていなかったので、仕方がないですよ。隣の駅まで行こうと思っても行けなかったんですよ、大雨で。

―それで仕方なく、走りをあきらめたんですね。しかし、連絡口駅から日方までずっと、カメラを止めずに回していましたね。

奥井 あれは、フィルムの長さを取ろうと思ったら、あのように(望遠で)撮らざるを得なかったな。

―と、言いますと?

奥井 広角でパッと撮ってしまったら後々フィルムの繋ぎようがなかったので、(1本のロールにまとめるために)フィート数を稼ごうと思って。普段は望遠を使わんのですが、あのように撮ったんですわ。

           

―そしてその次に、水間鉄道が登場します。西日本編では鉄道会社が多く登場しまして、それぞれのフィルムは長くはないのですが、水間鉄道もそうですね。

奥井 2、3本の列車が一日動いているだけで、ほかに撮り様がないんですね。

―同じ編成を撮っても仕方がない(笑)。

奥井 水間の場合は、南海高野線から来た編成が動いてくれたので、恰好がついたんやけどね(笑)。それにしても、あの車両はよかったですよ。内装の、木の握り手なんか、素晴らしいものでした。

―南海のモハ1201形ですか。(この車両の投入によって)南海から来た古い車両が淘汰されていったりしていますが、最初に登場したマルーンのナニワ工機製のモハ250形ですか、ああいう車両がいたことを知りませんでした。

奥井 ナニワ工機は、今どうなったのかな。

―社名をアルナ工機にした後、最近一旦解散しまして、アルナ車両と名前を変えています。工場も尼崎から撤退しまして、阪急正雀工場の中に移転して、今、路面電車を作っています。日本の路面電車のトップメーカーです。

奥井 昔、ナニワ工機へ東武の特急を見に行ったことがあるな。

―え、東武のどの特急ですか。

奥井 1700系やったか、1720系やったか。

―DRCですか。

奥井 そうそう。車内にまだビニールシートを敷いていたかな。

―引込み線から運ばれていったんでしょうかね。昔は正雀まで国鉄を通って、阪急の電車も運んでいましたからね。

奥井 ああ、なるほど。

―考えてみたら、連鎖的にいろんなことが出てきますね。モハ250形のマルーンの色から話が展開していくのは、面白いですね(笑)。そして、水間鉄道も、今やうどん屋さんですからね。杵屋の傘下に入りましたけど、頑張ってほしいものです。ただ、電車がみんな東急の車両になっていて、(撮影当時と)ガラッと感じが変わってしまいましたが。

奥井 また乗りに行きます。

―是非。どう変わったのか、時代ごと見ておかないと、まるで生き物のように変わっていきますからね。

奥井 うん、そうですねぇ。

           

―次は、別府鉄道です。

奥井 ここは面白いところですね。スパンの長い板バネ(の車両)の乗り心地!あれは素晴らしい!

―ハフ7ですね。

奥井 松電もそうでしたからね。松電の2軸の客車、カ1という車両やけれど、あれも乗り心地が良かった!

―2軸の客車で乗り心地が良かった、というのか想像できないんですけれど……。

奥井 しかも松電の場合は、ねじ式連結器で動力車と密着しているでしょ。だから、余計に乗り心地が良かった。

―バッファーですね。

奥井 ヨーロッパに行ったら、(鉄道に)乗りたかったんだけど、まだ行けていない。

―バッファーで密着していることは、今の連結面の車体間ダンパーと通じるところがあるんですよね。連結器以外でも車体をつなげておいて、乗り心地を安定させておこうという。ねじ式連結器は危険だったりもしますが……。

奥井 ヨーロッパは今も(バッファーの使用が)続いていますからね。それだけの値打ちがあるということですね。

―そういうことなんですね。そして、その2軸の客車(ハフ7)がダブルルーフで、オープンデッキで……。

奥井 私一人で乗せてもらって(笑)。

―他にお客さんが写っていませんものね、車掌さんしか。回送列車に乗せてもらったわけでもなく。

奥井 デッキには、ちょっと荷物が乗っていますけどね(笑)。

―行きも帰りも、お客さんは奥井さん一人だけだったんですか。

奥井 そういうことですね。

―なるほど(笑)。

奥井 あれは贅沢ですよ(笑)。一回、日立(電鉄)でもそんなことがあったけれど。運転手と車掌とお客さん一人ということが(笑)。

―以前、夜の長崎本線で、回送を兼ねたキハ58系12両編成の普通に乗ったことがありましたが、あまりにお客さんがいないので端から端まで探してみたら、私一人だった(笑)。間違えて回送列車に乗ってしまったかと思ってしまったぐらいの、そういう営業列車に乗ったことがありましたが。今回の別府鉄道の混合列車は後ろに(客車が)1両だけくっついていて、車掌は駅に停まるときにハンドブレーキを回している。

奥井 ハンドブレーキを回して、貨車に引っ張られないようにしていると思いますよ。

―貨車を解結し易いように、後ろからブレーキをかけて調節している訳ですか。

奥井 次の入換え作業のために、ハンドブレーキを引いていると思います。

―ナレーションでも言っているように、「昭和50年代の加古川の風景」なんですよね。(今、改めて映像を見ると)ホントですかねっていう感じですね。

奥井 あの辺もだいぶ変わっているのでしょうね。

―(別府港駅の)あの構内は大きなスーパーになっているようですが、本当にタイムスリップですよね。

           

―昔は、国鉄の幹線から外れたところへ向けて私鉄が敷かれていたようなことがどこでもあった訳ですが、次に出てくる井笠鉄道もそうした鉄道のひとつかな、と。井原も山陽道の宿場町ですね。

奥井 やっぱり、山陽道も歩かなあかんのかな。やっと東海道を歩いたんやけどね。

―東海道を踏破されておられるのですから、次は西国街道を起点にして、山陽道を目指されては。

奥井 中山道を歩こうかなと気もあるんやけどね。草津で(東海道から)分かれるところを見ているから。

―乗っていない線を見ると乗ってみたくなるのと同じで、次から次へと歩いてみたくなるような(笑)。

奥井 そうなんですよ。だからやることが多くて(笑)。

―井笠鉄道なんですが、時代から取り残されたような雰囲気で、しかも引退した蒸気機関車が保存されていたりして。ディーセルカーが客車を引いているんですね。

奥井 ナローは、はじめは松阪線で馴染んでましたし、次にその松阪線の車両が移動して尾小屋と静岡に行ったんです。そのあと、ナローをもっと撮りたいという気になって、井笠に行った訳です。

―松阪からだんだん撮影範囲が広がっている……。

奥井 そうそう、まず松阪中心から初めて、内部線や北勢線に行って、さらに伸ばして尾小屋とか静岡に行った。

―そうすると車両のつながりや形態というだけでなく……。

奥井 運行も気になるし、車両も気になる。

―井笠には松阪から車両は行ってませんが、そういうつながりで関心がおありになって行かれたわけですね。それにしても、ここは独特ですよね。

奥井 まあ、行けてよかったです。後の予定があったので1往復しか出来なかったですけどね。

―その分、車内から撮られておられますが、(見ていますと)構内の線路の付け方が変わっていますね。

奥井 独特の癖のある線路配置でしたね。

―何で並行にしないで、枝葉を広げたような配置にしたんでしょう。

奥井 結局、旅客と貨物を駅員が扱わないといけないから、ああいう方式にしたんでしょうね。次の機関車が来た時に入換えかなんかして、うまいことまとめていったんではないかという気がします。

―敷地の取り方が割と自由にできたんでしょうか。並行に配置してしまうと構内が狭くなって、荷物の積み下ろしとか人の動きが制限されてしまうから。

奥井 ゆったりと取ってありましたね。ひょっとすると、改軌するつもりがあったんじゃないかな。各社の(考え方が)あるけれど。

―終着駅(井原駅)の上はボーリング場でしたね。

奥井 あれにはビックリしました。

―時代的には1970年の撮影でボーリングブームの初期、都会ではあちこちにボーリング場ができた頃にいち早く駅の上で、ということは直営だったんでしょうか。

奥井 よっぽど土地にゆとりを持った会社だったんでしょうね。

―そうなんでしょうね。構内が広いですからね。しかし、井笠鉄道は会社を清算してしまうらしいです。運営しているバスも急に廃止になるほど資金繰りの悪くなったとか。

奥井 あー、そうですか。

―ここも土電の安芸線もそうですけど、路線がなくなって代わりに国鉄が路線の建設工事を行い、それも国鉄改革によって凍結され、やっと鉄道が復活するまでなかなか時間がかかったという場所ですね。建設中の井原線の盛土が映っています。

奥井 まるで新幹線と一緒ですね。

―なんか、想うところがありますね、経過を見ていると。車両や線路と違うところで、歴史は繰り返すというか、感慨深いものがあります。この後、同じ日に移動して、下津井(電鉄)にいらっしゃったんですね。

奥井 あのあとどうしたらええんやろ、と考えて。

―西大寺鉄道はもうなかった時代で井笠と下電は近年までありましたが、一気に同じ日に岡山県のナローを二つ、行かれたわけですね。でも、下津井は見る見るうちに日が暮れて児島で時間切れになってしまった。あの続きが見たいところなんですが、茶屋町から児島までが先に廃止になったのと、茶屋町も高架になって全然変わってしまっているので、ああこうだったんだ、みたいな感じで、当時が偲ばれますね。しかし、日没は悔しかったのでは?

奥井 あれは悔しいですよ。しかし、あれが精いっぱいやったね。

           

―次に海を渡って、高松のフィルムが出てきます。

奥井 高松も乗りに行きたかったんですが、夕方に着いているんですね。

―そうですね、長尾線で長尾について日没ですね。ということは、高松築港から乗って、途中瓦町で撮影して、そのまま長尾線に乗って移動して終わり、ですか。

奥井 そういうことやね。

―琴平には行かれていないので、600Vの長尾線の旧阪神車両が目的だったんですか。

奥井 まあ、言えばそうやね。まずはあそこを片付けておこう、この車が(廃車が近くて)一番危なそうという、という気がしたんで。あそこ(長尾線)で阪神を撮っている人が少ないからですね。

30形ですか、かなり特殊な面長のデザインで……。

奥井 そうですね。阪神さんそのものですね。

―阪神の電車(小型車)って、一言でどうなんでしょうか。

奥井 阪神の電車は、僕らにとって、近鉄を見ているから(阪神は)小さな電車という気がしますわな。車体幅も狭いし。元々は路面にも対応していた車両でしょ。

―これは昭和16年ですね。

奥井 割と新しいんだな。

―元々本線用の電車だったんです。

奥井 ここ(松阪)は(近鉄の)2200の土地柄やしな(笑)。

―貫通扉が印象的ですね。

奥井 それと正面のカーブがね。いい電車でしたよ。

   

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奥井宗夫のむねのおく 2-12

「よみがえる総天然色の列車たち第2章12ローカル私鉄・西日本篇」のむねのおく(その2)




「よみがえる総天然色の列車たち第2章12ローカル私鉄・西日本篇」のむねのおく(その1)へ




―次の土佐電気鉄道ですが、路面電車篇で市内線の様子が出てくるとして、ここでは安芸線を紹介します。

奥井 ここはね、やっぱりクハニ(校正段階注:インタビュー発言の「クモニ」から訂正)が走っているところを撮りたかったの。ところが全部車庫へ入っていたりして、ダメだったけど。

―クハニ3500ですね。関東鉄道あたりに出てきたようなタイプですね。神中鉄道とか。

奥井 そう。貨物輸送が終わった後に行ったから、そこだけちょっとつまらなかったかな。でも、市内電車(600形)の3両連結が見られたので、良しとしなけりゃならない(笑)。

―それが2番目の狙いだったんですか。軌道線用の電車が3連で走ってきて、郊外の鉄道線へ入ってくる……。

奥井 路面電車用の低いホームが鉄道専用の高いホームとともにあるところは、広島とここしかなかったでしょ。

―路面電車タイプの600形が3連で物部川を走ってくる様がいいですね。

奥井 ザブザブ川に入って、撮りに行きました(笑)。

―ここでも安芸線専用に、元阪神のモハ5000形、クリーム1色の電車がいましたね。

奥井 安芸線では、電車の待ち合わせの時間が楽しかった。出札口で、どんな切符が残っているのか尋ねて……。

―それで、何か手に入れられたんですか。

奥井 あそこでは、馬糞紙の往復の節約乗車券を買いました。

―馬糞紙!?

奥井 そうです。あれは明らかに馬糞紙やった。

―我々の世代では、馬糞紙がどんな紙かよくわからないんですが。

奥井 今はなんて言うたらいいんかね。馬糞紙には違いないんやけど。

―あの、粗雑な紙、材質の悪い紙ということですか。

奥井 昔、芯地に使ってたような紙なんですね。

―芯地!?

奥井 張り合わせの紙などの芯に使っていた……。

―強度を持たせるように真ん中に使っていたやつですか。

奥井 そうそう。その芯に使っていた紙を僕らは馬糞紙と呼んでいた。それをそのまま使った乗車券です。昔の鉄道省(国鉄)の硬券は、この紙を芯にして張り合わせて作られていた。

(編集注:馬糞紙=稲わらや麦わらをパルプの原料とした板紙。薄く漉いた紙をわら半紙、厚く漉いた紙を馬糞紙と呼んでいた。一般的に黄ボール、あるいは黄板紙などと呼ばれている。)

―上等でしたからね。

奥井 そういう切符です。

―なるほど、そういう切符を手に入れられたのですか。話を戻しまして、モハ5000、あの阪神の電車は、おしゃれですね。(土電だけでなく他社に行った元阪神も含めて)共通して言えることだな、という気がするのですが。

奥井 車体幅が狭いだけに、車内の雰囲気が和やかな感じがしますね。もちろん、そんなに混んでいないからそんな気がするんだろうけれど。

―先ほどの琴電(30形)にしても、見たことのないデザインで、非常に気になる存在で、いいなあと思うんですが。

奥井 そうですね。

―結局、安芸線も廃線になって、国鉄阿佐線の建設が進んで止まって、やっと近年、土佐くろしお鉄道のごめんなはり線ができたのが。それやったら、元のままでもよかったじゃないか、という気もします。

           

―四国でもう一か所出てくるのが、伊予鉄道です。ここは由緒ある、古い路線です。

奥井 昔は各社、違っていたんでしょうね、それぞれの生い立ちが。

―その中でも一番最初にできたのが高浜線です。この線は、解る人には解るし、言われたらなるほどな、と思うのですが、国鉄の方が上を越えている、よそとは逆なんですね。後からできた線がお金をかけて上を越えて、初めからあるほうが下を通っている、いかに伊予鉄のほうが古いかということがわかります。

―今でもあるんですが、平面交差が2か所あって軌道線と交差していますが、ここはきっちりと撮られていますね。

奥井 撮るべきところは撮らな仕方がないと、わざわざ行きました(笑)。

―また、一か所、路面電車が走っているのですが線路は鉄道線であるという、城北線も収録しています。この線で信号が変わるところも、ちゃんと撮られています。

奥井 あれも撮らなきゃ仕方ないです(笑)。

―撮るべきものをちゃんとわかって撮っておられる、と思いながら編集していました(笑)。そういう意味でも、ここは楽しい線ですね。

奥井 乗り鉄を兼ねて、終点までは行かな仕方ないです(笑)。

―横河原線は最後に電化されたところですが、前にここは電化前に行きたかったとおっしゃっておられませんでしたか。

奥井 ええ、行きたかったんです。でも、ちょっと無理やったなあ。自分の小遣いでは(なかなか)無理ですよ。だから、団体旅行でちょいちょい合間に撮影したところもたくさんあります(笑)。

―郡中線のあの鉄橋は、面白いですね。

奥井 ええ、あれはそう継ぎ足してあったのには、気づかなかったな。

―形が変わっていて……。

奥井 ああいう風に上を作り直したとは、ちょっと知りませんでした。

―軽便鉄道時代の、明治の中期に造った鉄橋をそのまま再利用する形で、電車を通すにはどうするのか、というところから始まった話ですね。そういう見方をすれば、鉄骨が細くて、いかにもひ弱な感じに見えるのですが、通過する電車のスピードはどうだったんでしょう。

奥井 わりに速く走っていましたよ。

―映像を見ていると、徐行している感じでもなく、案外飛ばしているな、と。よく古い橋梁ではあるような、駿遠線のそれ(大井川木橋)ではないですが、恐る恐る通る、という風でもなかったので……。車体がそれほど(重いわけ)でもなかったんでしょうね。

奥井 そうでしょうね。

           

―この巻にはいろんな会社が出てきて楽しいのですが、ここでまた海を渡って本州に戻り、広島電鉄です。

奥井 母が一時呉に住んでいたり、また伯母も呉でお茶屋さんをしていたりしたので、その縁で呉とはつながりがあります。その関係で呉や広島に行きたいと思っていて、その理由の一つに広電があったんです。

―軌道線は路面電車編で紹介しますので、今回は宮島線です。撮りに行かれて、宮島線はいかがでしたか。

奥井 あの時は、まだこれから伸びていく線だと思いましたね。

―それはどういう感じで……。

奥井 路線のカーブも少なかったですし、スピードも出していましたし、お客さんも割と乗っていましたので、まだ伸びていけると。

―そういう意味では日本を代表するLRTの路線になってきています。今や5両連結で市内線と直通して走っていますが、当時はまだ連接車が2500形だけで、あとは宮島線専用の車両、元阪急の車両などが単行で走っているような状況です。

奥井 解説を聞いて前歴を知ると、あれやこれがこうやったんかな、とわかりますから、やっぱりフィルムというのは大したもんだな、と思います。とにかく、来るやつは何でも撮っておかなアカン(笑)。

―荒手車庫前での映像を見ていますと、ちらっとですがバックの山陽本線を気になる列車が走ってくるんです。その辺の時代的なことが面白くて、181系か481系かは分からないけど……。

奥井 あれは481やろうか。

―ヒゲがあるかどうか見えればわかるんですが。

奥井 その辺はお任せします(笑)。

(編集注:ヒゲがありましたので、時代的に485系と思われます)

―国鉄末期の頃には駅を増やすわ、列車を増発するわで、宮島線に対抗してくるんですね。それであの辺はだいぶ変わったと思うのですが、それだけお客さんがいたということですね。住宅開発なども山側へ広がって、その辺の片鱗が良く見えている時代でしょうか。

奥井 そうかもわかりませんね。

―ホームも2段になっていて、市内線直通と宮島線用では停車する位置が違っています。

奥井 そうすると3社か、福井(鉄道)はどうやったかな。

―福井は、路面電車は郊外へ出ていかなかったので低いホームはなく、逆に郊外電車が市内に入った時はステップで対応しています。今は全部路面電車タイプになりました。

奥井 あーそうか、名鉄の車両が入ったんやったな。

―そして終点の西広島に着きますが、当時は宮島線が西広島、市内線が己斐と違う駅名でした。

奥井 あの辺もだいぶ変わったんでしょうな。

―ここ西広島と横川駅、広島港、以前は宇品と言っていた、がホント、変わりましたね。

奥井 百貨店はなくなったんでしょうか。

―西広島のビルはありますが、今はスーパーが入っているそうです。建物はそのままです。広電西広島は銀の大屋根で、グラスファイバー製だったか、丸い鉄骨が編み上げられたような形で、10mもあるかのような大屋根で覆われていて、線路が枝分かれするような作りになっています。広島駅も同じように枝分かれしていますが大屋根はありません。とにかくこの西広島と横川駅と広島港はすごいことになっています。さらに広島港の手前の軌道は、芝生軌道になっています。

奥井 行きたいなぁ!

―センターポールにもなっているし、ぜひ、行ってみてください。お勧めします。変わってきているといえば広島もそうですけれど、鹿児島(市電)も鹿児島中央駅前を中心に芝生軌道になっていまして、どんどん広げていってます。

奥井 そうそう、それを聞いてね、もう一度行きたいなぁと思っていて。前は団体を連れて行ったので、自分の身動きがほとんど取れなかったのでね(笑)。

―(団体で行くのは)一番ストレスがたまる旅行かもしれないですね(笑)。

奥井 今度は、おかあちゃんを連れて行かな。

―ぜひぜひ、奥さんと行ってください。また、熊本も駅前を整備して(市電の)線路を敷きなおして、前と違うところを走っています。

奥井 走ってますね。僕もこの前行ってみて、全然違うわ! と(笑)。

―あと、高知も、土電の終点が駅の手前で曲がったところにあったのを、直線で延ばして高知駅の軒先につけたんですが、高知駅が高架になって北側へ下がったので、さらに線路を伸ばしています。

           

―広島の路面電車編も楽しみなんですが、先に進みまして一畑電鉄です。編集をしていていつも奥井さんの撮影行程が気になっているのですが。

一畑電鉄へは急行「だいせん」か何かで行かれたのではないでしょうか。といいますのも、出雲大社前からフィルムが始まっているからです。

奥井 「だいせん」でしょうね。

―それで最近映画で話題になった電車が普通に現役で走っている。また、デハニ以外でもデハの20とか30とかも走っていて。

奥井 まだ、旧塗色の車両が居ったかなあ。

―台本を書いていて気付いたのですが、手動ドア車はあの色(オレンジに白帯)をしているんですね、パッとわかるように。それ以外はクリームに水色の帯で。

奥井 そうなんですよ。

―それは当時、鉄道ファンの間では常識だったんですか。

奥井 そうでもなかったですよ。実際行ってみないと分からない(笑)。

―では、知らなかったとしても不思議ではない(笑)。

奥井 と、思いますよ。それは、あそこの会社のルールがあるから。

―車窓に、のちに国道431号になる道路が横に並んで走っているのですが、当時は未舗装でした。他には大きな道路はなかったんですか。

奥井 なかったですね。

―宍道湖の北側のルートというのは……。

奥井 冷遇されていましたよね。

―逆に言えば、それだけ一畑電鉄の比重が……。

奥井 高かったんでしょうね。あそこは硬券が残ってたし、硬券の入場券があったし、楽しみな鉄道でした。

―忙しいですね(笑)。撮らないかんし……。

奥井 撮らないかんし、切符は買わなきゃいけない……(笑)。

―乗りたいし、おいしいものは食べないかんし、ですね(笑)。

奥井 その辺はわりに、落として落として(けずってけずって)しますよ。フィルム代が高くつくし(笑)。

―昨日、前回のインタビューの採録をしていて面白かったですよ。岳南鉄道の吉原の、アジの天ぷらの話が。

奥井 あのアジの天ぷら、もう一回食べたい。うどんの上にドンとのっているんですからね。

           

―そして次に、チラッと筑豊電鉄が出てきます。

奥井 軌道線も鉄道線も、乗れるところは全部乗ろうという気で行ってますので。あの時はどうしたのかな。乗り終わった後、国鉄の駅まで歩いたんやったかな。

―たぶん、筑豊本線で帰ってこられたんでしょうね。帰りの映像がありませんので。この線は、計画では福岡まで結ぶつもりで作られていて、そのために西鉄が別会社にしたんですね。ただ、自前の車両が1両もなかった。

奥井 あれは、喜んでいいのか、悲しんでいいのか……。

―結局、西鉄北九州線が廃止になった後、車両を引き取って自前の車両にしています。(映像を見ていますと)黒崎駅前が賑わっていますが、駅の場所も変わってしまって、この場所は駅前のロータリーみたいな感じになっています。

奥井 はー、なるほど、そうですか。折尾の駅前の鳥めしでも食べに行きたかったなあ。

―折尾の駅、この前封鎖になりました。

奥井 あー、聞いています。

―この前通ったら、折尾の駅自体、造り替えますからね。西鉄北九州線は、路面電車編でまとめて紹介します。

           

―九州ではこの後、島原鉄道が出てきます。

奥井 あの時は、鹿児島を午後4時頃出て福岡に戻ってきて、夜行に乗って長崎のほうへ向かったんです。

―のちに「ながさき」と名前が付いた列車ですね。

奥井 123列車やったかな。あの時、車内で病人が出まして、最初に、お医者さん乗ってませんか、と放送が入り、しばらくして今度は、どこそこで臨時停車しますから、と放送があって、病院へ運んだ、ということやったそうです。うつらうつらしながらそれを聞いていて、そうして諫早に行ったんです。諫早についたら、さっそく歩きました。

―当時の時刻表が手元にありましたので、それを見ながら奥井さんの行程を見ていたんですが、島原鉄道のすぐ横に諫早公園があって、そこに眼鏡橋があるんですね。

奥井 なんで公園の真ん中に眼鏡橋があるんやろう、と疑問に思ったんですが。

―本明川に架かっていたのを移設したそうです。それで、近くで列車を1本撮られて、そのあと本諫早から列車に乗ってそのまま加津佐まで行かれたんですね。

奥井 あれは乗り応えがありましたな。でも、鹿児島で乗ってからでしたので、くたくたでしたよ。

―往復されているので走りは最初の本諫早でのものしかないんですが、それでも島原鉄道の楽しさが伝わってきます。古い蒸気機関車時代の名残が、例えば本線上に灰落としのピットがあったりして……。

奥井 あーあれね、言われるまで気が付きませんでした(笑)。

―カメラが下を向いているからそれを撮っておられたのでは?

奥井 やっぱり気になって撮ったんでしょうね。

―国鉄に乗り入れるので、国鉄と同型のディーゼルカー、キハ26なんかがあって……。

奥井 (帰りに諫早駅で)ちゃんと本線まで撮っててよかったです。

―また、その帰りの列車の後ろにユニ200形を繋げているところも、いいですね。それが、あれをまた(南島原で交換した)貨物にも繋げているんですよね。

奥井 ええ。あれはどういう運用になっているんだろう。ちょっと疑問に思いますね。貨物はちゃんと動いていたんですよ。貨物を取っているのに、尚且つ、ああいうもの(郵便荷物車)が付いている。そのあたりが今になっても……。

―気になりますね。

(編集注:加津佐で上り急行に連結されたのはユニ200形。南島原で交換した貨物に連結されていたのはキハ250形で郵便荷物車代行運用)

奥井 まあ、ああして日本の郵政を支えていたわけなんでしょうね。

―そうなんでしょうね。一つ気に入ったのは、口之津駅で郵便局のワゴン車がバックでホームまで乗り付けて、ハッチバックを開けて下り列車を待っているんですね(笑)。ということは、国鉄の長崎行き普通夜行列車にも郵便車がついていて、諫早駅で受け渡しをしてきているんでしょうか。下りの一番列車ですものね。

(編集注:長崎行き普通夜行列車にはマニと共にオユ10形が連結されていました)

奥井 あそこら辺の郵便局員は数が少ないでしょうね。

―こんな隅々にまで郵便車があって……。

奥井 島原にしても近江鉄道にしてもねえ。キハが(お客さんの乗降が終わっても)出発を待っているんですよ。何を待っているんかな、と思って見たら、郵便局員が郵便車へ走って行って受け渡しをしている。ちょっと郵便局が遅れたもんだから。そうやって走っているんですよ。そうやって、チームワークが取れてないと……。

―それはどこの鉄道だったんですか。

奥井 尾小屋鉄道です。途中の駅でね、ちょっとお待ちください、と放送があったもんだから、何が来るんかいな、と思っていたら郵便局が来て。だからそういうことはちゃんとシステムとしてあったんでしょうね。

―尾小屋鉄道でその時は撮っておられなかったんですか。

奥井 その時は撮ってなかったんですよぉ。

―フィルムで残されているのは小松の駅だけですものね。

奥井 それから全線乗りに行った時は……、撮ってないねぇ。

―島原鉄道といえば、火砕流で不通になったりして、最近はなかなか大変だったようで、南側は切られてしまいましたが。でも、2011年の決算を見ていますと赤字ではあるんですが、収支係数を見ますと103ぐらいなんですよ。赤字でも103という数字は頑張っているな、と。南側を切ったので、赤字の8割は南側だったと言いますから、楽になったのでしょうけれど。南側にしても結構人は住んでいるんですよね、映像を見ましても。

奥井 なかなか人は動かんのかな。

―営業を一回休止してしまうと、なかなか元に戻らないのですね。

奥井 あの災害はえらいことでしたね。

―いろんな意味で影響を及ぼしてしまったんですね。

           

―それから、島原鉄道の前の日に撮影されたのという、鹿児島交通枕崎線ですが……。

奥井 あそこはよかったですね。うん、あれもよかったです。

―ここの映像もすごいですね。

奥井 動けるところは、積極的に動いていました。

―別府鉄道もそうですけど、島原鉄道もまだ近代化をしているんですが、この鹿児島交通枕崎線は、前時代的な、とでもいうんでしょうか。完全に時代に取り残されたような感じでして。そもそもキハ100形が出たのは昭和27年なんですが、デザインは完全に戦前のもので、これやったら安くできる、みたいなものがあったのかもしれませんね。この翌年ですからね、キハ300形が出るのが。1年しか違わないのにこちらは国鉄のキハ10形と同系で、全然違う。2両連結になると、キハ100形では両方に運転士が乗って、それぞれ運転して走っている……。

奥井 まあ、結局、片方が郵便荷物だったんで、100形で間に合っていたんでしょうな。

2両連結になって、後ろにキユニ100がついていましたものね。

奥井 外観上、ほとんど違いがなかったですね。鉄道郵便っていうのは、あのころ素晴らしかったんですな。

―加世田の駅でリヤカーが乗りつけてあって、荷物を積んでいる様がチラリと映っているんですけど、いいですよね。昔はこうだったよね、っていう光景で、今はもうないですからね。今は辛うじて、嵐電が宅配便の荷物を運んでいるぐらいで、あれも素晴らしい取り組みですが。ところで不思議なのは、枕崎港のショットがあって、そのあと枕崎駅から列車で戻られるのかなと思ったらそうではなく、続く映像は次の駅で上り列車が到着するものでした。あれはどうされたんですか。

奥井 あれはね、タクシーで枕崎港まで行って撮影して駅まで戻ってきたら、乗るはずの列車がいなかったんです(笑)。え? あれ?ってなったら、走りましょうか、と運転手が言ってくれたので、えーい、動いてくれー! って(笑)。で、走ってもらったんです。

―駅から枕崎港まで結構距離があるから、タクシーで行かれた。

奥井 ええ、タクシーで行って、戻ってきたら列車がなかった(笑)! あれはホント、珍しく計算違いをしてしまったんです。折角枕崎まで来たのに、ホームの駅名板でだけではなんだから、と欲を出したんです(笑)。

―それで次の鹿篭(かご)駅で列車を待ち構えて。ああ、列車を追い抜かしたんですね。列車はゆっくり走っていたんですかね。

奥井 ええ、列車はゆっくり走っていました(笑)。スピードを出せなかったんと違いますか。しかし、(タクシーの)運転手はよう走ってくれましたんで、おかげで追いついた。あれがなかったら、島原鉄道は無しですよ(笑)。

―ハハハ、行けてないですもんね(笑)。そう繋がってくるんですね。

奥井 しかし、何で枕崎の駅前にあんなにタクシーが停まっていたんだろうと、不思議に思いました。

―景気が良かったんですか。

奥井 景気が良かったんでしょう。運転手の方は喜んで走ってくれるし、走れ走れーってこっちは言ってるし(笑)。

―この当時は指宿枕崎線が通っているし、カツオとか坊津とかがあって、旅館とかもありますからね。そういう観光の地盤があるんでしょう。

奥井 あるんでしょうね。

―編集の時、上り列車の撮影場所を特定しようとしても、枕崎の駅も移転していて、鹿篭駅の跡も道路が全然違う所を走っていて、なかなかできませんでした。そんな中で感動したのが幼稚園の送り迎えの映像で、これもいいですね。

奥井 子供が下りて行ったんです、あそこらへんで。

―干河(ひご)駅でこどもたちが下りていて、逆に言えば枕崎まで行かないと幼稚園がなかった。幼稚園に通うのに枕崎線に乗っているということが素晴らしい、別の感動がありますね。

奥井 子供だけ先に走ってるしね。やっぱり、その辺は動画じゃないと(味わいが)出てこないです。

―僕も高校1年の時に乗ったのが最初で最後でしたが、その時も通学の中学生が乗っていました。

奥井 もうちょっとあの辺の人たちを撮りたかったんですがねぇ、フィルムがもうなかった。

―でも、いろんないい雰囲気の映像が撮れていますよ。加世田の駅では遠足の子供たちが……。

奥井 ぞろぞろ降りていますからね。

―生活の断片が、鉄道と一体になった様子が撮られていて、素晴らしいものがあります。

奥井 そうですね。なかなか、今どきはああいうことができませんわ。

―本当に、列車の記録、鉄道の記録であり、生活の記録でもあると思います。



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奥井宗夫のむねのおく 2-13

「よみがえる総天然色の列車たち第2章13 近鉄編1」のむねのおく



 



奥井宗夫(おくいむねお)氏 略歴

三重県松阪市在住。昭和11(1936)年生まれ。1959(昭和34)年に23歳で8ミリカメラを手にして以来、鉄道車両を追って日本各地を行脚。青果業を営むかたわら、四半世紀以上にわたって撮影したカラーフィルムは約280本にもおよぶ。松阪レールクラブ会員。





―いよいよこのシリーズの「近鉄篇1」の登場ですね。国鉄編・私鉄篇と製作してきたなかで、この「近鉄篇」は奥井さんにとっても、特に思い入れの深いところがあるのではないでしょうか。

奥井 そうなんですね。10000系あり、12000系があり、何よりそれらのもとになった2200系があって、素晴らしいですね。

―近鉄篇は、紹介したい車両がとても多いので、5巻に分けて順次発売していく予定です。「近鉄篇I」では、それらの先陣を切って10000系が登場します。

奥井 10000系は私のとっても思い入れの深い車両で。新聞で今日から運転という近鉄の広告を見て、駅へ駆けつけて伊勢中川から乗ったんですよ。

―撮影ではなく、まずは乗ったと。

奥井 乗ったんです。記念乗車券を買ったりして、鉄道ファンではない知人と二人で乗ったんです。

―鉄道に特に興味のない方も乗りに行かれた!? すごい電車ですね。たしか2階建て車両は日本で初めてでしたね。

奥井 客車ではドイツやアメリカにはダブルデッカーがありましたけど、(近鉄のものは)アメリカタイプに似たものになりました。でもよかったですよ、あの車両は。窓が近いので視野が広い!

―それはビスタドームの窓が内側に傾斜しているからですか。

奥井 そう。さらに片側2列、片側2列のシートで、端っこは1列になっていましたので、独り者にとっては乗りやすい車両でした(笑)。

―逆に言えば、それだけ2階席のスペースが取れなかった?

奥井 そうですね。座席番号もABCDで、Iかそれ以上あったかな。全部で26席でしたから。それよりも、冷房には苦労されていたようです。空気循環装置がなく階下席を基準に調整されていたので、階上席は、冬は暑い、夏も暑い。だから、私らが乗りに行く時間の列車は空いていましたので、階上席からの眺めを大いに堪能しました。

―特急料金は階上席と階下席では変わらなかったのですか。

奥井 同じでした。でも、階上席は上本町のツーリストで売っていたのかして、一般の乗客にはあまり手に入らなかったようでした。座席番号はのちに101から始まる番号に変わりました。

―階上席の天井が低いようですが。

奥井 通路の床は下げてありましたので、それほど低いということはなかったです。座席の高さを少し上げてあって、うまく設計されていました。通路の床を市松模様のリノリウムで仕上げてあったのですが、廃車の時にはそれがもうボロボロで……。

―市松模様の床は、日本が舞台になった映画「007は二度死ぬ」にも登場していたので、日本ではステータスの高いデザインのようですね。

奥井 だから桂離宮の(市松模様の)壁を模したのではないかと思っています。

―先ほど、ビスタカーのデザインはアメリカのダブルデッカーから、というお話がありましたが、先頭車のデザインもアメリカのディーゼル機関車(EMD製F7形)の形から来ている、と。

奥井 そうですね。

―10000系の運用なんですが、7両で走っているところをあまり見たことがない、という話を聞きましたが。

奥井 これはね、土日は7両で走っているんです。どちらかのMM車の検査の関係で、平日に5両で運転されているのです。大阪方か、山田方か、どちらかを外してね。真ん中を外したオールM車での運転もありましたが、あまりなかったですね。やはり、モーターの有無が関係していたんじゃないでしょうか。

―私は近鉄沿線ではなかったので、奈良へお出かけした時ぐらいしか近鉄に乗ることがなかったのですが。

奥井 10000系になると、名古屋線関係の方も全然見てないんですよね。ゲージも違ったし、上本町―宇治山田というメインルートでしか走っていませんし。

―登場した翌年(昭和34年)に名古屋線が標準軌になりましたが、阪伊専用でしたね。

奥井 10000系は運転士も専用だったらしいです。車両の構造が少し違っていたので。

―そうすると、他線に転用するとしても習熟が大変ですね。

奥井 その上、中間を外した4M編成、どちらかのMM車を外した2M3T編成、7両フルの4M3T編成では運転が皆違う。

―そりゃそうですよね。阪急の電子頭脳車のようにはいきません(笑)。

奥井 しかも青山トンネルを境に向こう(大阪側)は雪、こちら(伊勢側)は晴れというようなことがありますので、10000系の運転には運転士が苦労したと聞いています。

―河内国分駅での事故があり、伊勢方の運転台が(復旧の際)変わっています。この「近鉄篇1」では復旧後のものがほとんどですが、登場当時の古い映像も収録されています。続いて翌年に10100系が登場するのですが。

奥井 意外と早く出たので、驚きました。しかし、車体構造はよくなっていましたね。2階席に座っても1階席に座っても、どちらもいい。循環装置はついていましたげど、やはり冷房には苦労されていたようです。

―新ビスタカーは、なじみの深い車両で懐かしいところもあるのですが。車内の様子は続巻(「近鉄篇5」で紹介する予定で、まずは走りを中心にしています。

奥井 車内といえば、シートラジオが憧れで。

―伝統でいえば、2250系からシートラジオが付けられたんですよね。そして、10000系、10100系にも引き継がれた。

奥井 はい。

―列車公衆電話も引き継がれた。

奥井 はい。

―新幹線の5年前に「新ビスタカー」がデビューしました。先端を行く車両だった訳ですね。それと連接車体で出ました。

奥井 構造上ドア位置が不便だったぐらいで、割と便利な電車でしたね。

―新ビスタカーと他の形式との混結編成という見所もありますが、それぞれの形式の登場順に紹介していきます。

―10000系・10100系に続いて、昭和36年には10400系が登場しますが。

奥井 10400系、あれは面白い電車でしたね。正面の貫通路が真ん中にあっても全部前の車両が見えるんですよね。8両つないでいたら、一番後ろからみて一番前の運転台のところまで全部見える!なるべく8号車に乗って、貫通路を通してずっと見ている!(笑)

―それはなかなか面白い見方ですね。気づいている人は少ないんじゃないでしょうか。

―走りの観点からいうと、屋根がですね……。

奥井 統一されています!

―クーラーが下にあるため、10100も10400も屋根の統一感が美しい。それと、10100系のところでしたか、妙な試験の映像がありますが。

奥井 ええ。あれはモーターの発熱試験です。10100のモーターがトレーラーを併結した際の負荷に、特に勾配線区でどれだけ耐えられるかどうかを試験したんです。

―その試験の結果、どうなりましたか。

奥井 その結果、まだゆとりがある、ということになって、新ビスタカーにエースカーのトレーラー(ク10500形、ク11500形)を1〜2両併結する編成が登場しました。近鉄さんとしては、10100〜11400までの車両を上手いこと、自由自在に運用していたと思います。平日と休日では運用が全然変わるんですよ。平日は編成両数を減らして運転、休日はいっぱいまで連結して1列車で足りなければ増発する、という具合ですね。

―そんな関係で、他形式との混結編成の映像が多いのですね。10100系と10400系や11400系新エースカーなどとの混結や、そのあともいろいろ登場してくるのですが、そのあたりを系統立ててわかりやすいように編集を心掛けたつもりなんですが……。

奥井 あれでよくまとまってましたよ。

―ありがとうございます。改めて見られて、どんな感じでしたか。

奥井 なかなか面白かったです。この頃の若い人には、10400や11400なんか知らないでしょうね。僕らの年代ならすぐわかりますけどね。次から次へと新しい車両が出てくるし、スナックカーなんかにしてもどんどん改造されていきましたからね。「近鉄編1」や「近鉄編2」辺りではまだ、そんなに出てこないでしょうけれど、あとになれば10400も11400もいろいろと改造されていくんですね。

―10000の事故復旧車もそうでしたが、10400が更新改造で18200とよく似た顔になりましたね。今は、この顔もないわけですが。

奥井 そうですね、どんどん変わってきていますね。

―その変わり様が人によって受け止め方が違ってくる、近鉄を知れば知るほど、面白いところですね。

奥井 あまり変わらなかったのは、「あおぞら」ぐらいですね。

―「あおぞら」は「近鉄篇2」で紹介します。

           

―「近鉄篇1」では一般型の電車も扱っているのですが、とはいえ戦前の関西急行鉄道(関急)時代からの6301形などが登場しているのですが。

奥井 私らね、あれ(6301系等)にあまりなじみがないんですよ、松阪では。名古屋に出るときは国鉄で1日に1、2本しかない快速に乗って。結局はSL(牽引の列車)に乗りたかったんでしょうね(笑)。

―奥井さんのご趣味は、そこから始まっていますものね(笑)。

奥井 近鉄の準急電車と国鉄の快速が名古屋を出ると、津で一旦出会うんです。で、ここからどっちが早いだろうか、近鉄は中川に寄る分だけ時間がかかる、国鉄はまっすぐ松阪に来る。

―ということは、国鉄の方が早い?

奥井 国鉄の快速は、それだけ早さのサービスをしていました。

―国鉄は亀山経由だけれど早いのですね。

奥井 逆に近鉄は準急なので、停車駅が多く時間がかかる。ですので、そうなるんです。急行やと、もちろん近鉄の方が早いんですが。

―停車駅の多い準急は、それだけ駅間を飛ばして走っていたと。

奥井 急行や準急はM車の比率を多くしてT車を減らして走っていたんです。逆に特急はT車が多い。

―特急は停車駅が少ないから……。

奥井 停車駅が少ないから、最初にスピードを出してしまえば、あとはうまく走れたんです。

―加速性能を上げる必要がないと、ということですよね。

奥井 しかも、近鉄さんの運用は見事なもので、土日で競輪などの催し物があると、急行や準急は車両を3扉車に変えてしまうんですよ。そりゃ、見事なもんです。平日は2扉のMMでもローカル運用に回して、3扉車中心の運用に変えてしまうんです。

―はい。

奥井 あれ、よう運用していたなあ、と思って。あれには感心しました。催し物があると、車両の組換えをあっという間にしてしまう。しかも土日だけ。だから、マニアでもどの形式がどう走っているのかがが分かりにくくて。しかも、名古屋線は車両数が常時不足していましたから。ですから、ちょっと油断してると、南大阪線から車両を回してくるんですよね。あれも見事でしたよ。

―どう編成を組んでいるかといえば、ここで登場するだけでも6301系をはじめとして、モ6311、モ6331、モ6251、モ6261、6401系にと、ありとあらゆるものが連結されて来るんです。ここに当然6421系など過去の特急車が入ってきて……。どれだけ豪華な編成なのか。

奥井 特急車は格下げされる場合があるんですね。その場合は準急に格下げされて、急行は普通の編成のままで。準急の先頭車で(特急色のまま)準急の看板をつけて、平気で走ってくるんですよ。あの運用も見事やと思ってね。

―(名古屋線と比べて)大阪線は形式を雑多に連結していることは比較的多くないですね。

奥井 大阪線はね、割にピシッとまとまってたんです。

―そうですよね。逆にもともとは単独M・両運転台など、長い編成向きではなかった車両が、名古屋線系統で、松阪や伊勢に入ってくるようになりました。それがそこそこ輸送量が伸びてきて、4両や6両に繋ぐようになってから、そういうことが起きてきたんですね。以前、何がどう繋がっているのか、近鉄内部の人でもパッと見て分からないと仰ってましたね。

奥井 そうそう。それと、一部のM車ではモータを外して、台車を交換してトレーラーとして使っている車両がある。車番の下に白線を引いて、トレーラーとして編成に組み込んであるものが多くありました。

(注:モ6241形6421やモ6301形若番車など、のちに養老線に転属した際にク6421形、ク6301形→ク5300形に形式を改めた車両が、名古屋線時代に実質トレーラーとして使用されていたそうである)

―それと17m車で、一部に車体を切って伸ばして19mにしたものがありましたよね。

奥井 6331形で2両、ありました。33番と38番ですね。

―驚くべき改造をやっていたりしますね。3扉にしてアルミサッシにしたり(モ6333)、真ん中だけ両開きになっていたり(モ6338)、色々と……。

奥井 素晴らしい改造ですね(笑)。

―ただ見ているだけでは判らないことも。

奥井 多分、あると思います。

―実はこんなことになっているんだ、となるべくわかりやすいように編集したつもりなんですが……。

奥井 あれ(DVDのナレーション)より、言いようがないと思います(笑)。

―あと、撮影された分量は少ないのですが、近鉄一般色になる前の特急時代の6421系などの貴重な映像があります。

奥井 もうちょっと早く撮りたかったんですけどね。ちょっと無理でしたね。

―フィルムも高いし。

奥井 SLだけでふうふう言うてましたし。

―当時はSLを中心に撮られていた訳ですしね。この時代の映像は、あとの「蒸気機関車編」で紹介させていただきます。あと、少し異彩を放っているのが6431系です。これは異端的な車両で、面白いですね。

奥井 これも面白いですよ。クーラーキセが一体となっていましてね。しかも流線型で、しかし日車やなかったかな。(注:6431系から近畿車両製)

―何か思惑があったんでしょうか。(注:大阪線はほとんど近畿車両で、名古屋線は6421系までほとんど日本車両製)

奥井 名古屋線は名鉄の800系辺りから設計が一緒だったですからね。その流れがずっと続いていたんじゃないかな。日車の方が綺麗でしたよ(笑)。だけど、(6431系は)4両しかなかったんですけど、いい車でしたよ。

―熱線吸収ガラスは、名鉄では割と使われていたんですか。近鉄では珍しいですけど。

奥井 ええ。近鉄では珍しい。

―阪急京都線の2800系が3扉に改造された時に、戸袋窓のところが熱線吸収ガラスになっていたらしいです。言われたら、確かにそうだなって。

まあ、このような車両も、この後色々出てきますので、お楽しみということで。

           

―「近鉄編1」はこの後、ガラッと趣を変えて、養老線の様子を見ていきます。

奥井 養老線の沿線は、トンネルがチョイチョイあるんですが、全部川の下を通るトンネルで、それが面白いんですよね。

―天井川なんですね。その辺は編集しながら、「近鉄プロファイル」の時に撮りたかったけれど撮る場所がなかったし、揖斐川を入れたかったんですが撮れなかった、そんなことを思っていまして……。

奥井 (撮影のために)どんどん歩きましたからね(笑)。

―車で行くといけませんね、好撮影地を見落としてしまう(笑)。奥井さんは、いい場所にどんどん行かれて……。そしてまた、走ってくる車両たちが……。

奥井 いいでしょ!前編後編があるみたいで。

―何年か時間をおいて2回撮影されたものを、両方収録しているのですが……。養老線は、ご存知の方はご存知なんですが、北陸方面と三重県方面の貨物輸送の短絡線で、貨物輸送が盛んなために名古屋線改軌の時にもそのまま……。

奥井 狭軌のまま、残されたんです。

―そのため、電気機関車が貨物を牽いて、しかも両数が長い。

奥井 でも、ホームの有効長がそんなになかったですから、べらぼうに長い貨物列車はなかった。

―しかし、一般の私鉄の貨物列車と比べると、養老線は長いと思います。

奥井 私は吉野線の方が長いと思った。あそこは凄かった。機関車が前後に付いているでしょ。いずれ(続刊に映像が)出てくると思うけど。

―その辺は、一度確認してみたいと思います。それと電車の方ですが、伊勢電時代の車両とか揖斐川電気時代の車両とかが、バリバリ現役で走っている。一言でいうと、養老線の電車の魅力はなんでしょう。

奥井 古い時代の車両でしたが、名古屋線改軌前はゲージが一緒でしたので、伊勢線を通って松阪の外れ、新松阪まで来ていましたし、貨物列車もカネボウの引込線まで11往復走っていましたので、非常になじみが深いですね。

―カネボウの引込線といいますと。

奥井 松阪の川の向こうにあったんですよ。今は、松阪市の資料館になっています。そこまで入ってきていたんです。

―伊勢線を通って?

奥井 伊勢線を通ってです。入換え用にディ−ゼルが1台いまして、最後はそれが引っ張って行ったんです。32(デ32形)、31、21、11、みんな入って来ていましたね。その頃は電気機関車もまだ真黒な色でしたが(笑)。

―フィルムでは近鉄マルーンに近い茶色系統の色ですね。青(ダー